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用水路というだけあり水深は非常に浅かったが、尚はレッドを庇う形でなんとか受け身をとり、両者ともダメージは少なくて済んだ。
下水を滴らせる穴をくぐってから二人はそれぞれの傷を手当てし、臭気にまみれた水を染み込ませつつ、迷路のような水路を奥へ奥へと進んだ。
当然いい気持ちはしないが、相手は地上でもっとも鼻が効く動物なのだ。これくらいはしないと追跡はかわせない。
ふと、傷口から病原体が入るんじゃないかと不安に襲われたが、今この場で助かるにはそれしか方法はない。嫌な汗を垂らしてから、不安を拭うように尚は口を開いた。
「俺は飛白尚って言うんだ。知っての通り、あの犬のことも、街に人がほとんどいない理由も知らない。まずは手始めにお前のことから知っておきたいんだが」
「あ、アタシのことがそんなに気になるわけ? ……まあ、別に教えてやらない理由もないけど、さ。……うん、教えてやろうじゃない特別に」
レッドはすっかり濡れてしまったツインテールを解きながらそう言った。あえて目を合わせないようにしているようだが、何か余計なことを言ったか? と尚は首を傾げた。
「うーん、いつもならキズレッドでいいんだけど、今は変身中じゃないしね……仕方ない。アンタ、アタシの名前知ってもマスコミとかに言いふらさないって誓いなさい。ピンチのところにキズレッドが颯爽と現れて僕を助けてくれました、死ぬほど感謝しています、ってね。あ、ファンにはならないでよ。後々面倒になりそうだから」
へ? と間抜けな声をあげる尚。そんな誓いなんて今までしたことがなかったし、これからもするなんて思ってもみなかった。
「……いいけど」後半の内容以外は。
「違う違う、そんなのは誓いって言わない。しょうがないな、アタシのあとに続けて言ってみ?」
レッドはいったん立ち止まり、腰に手を当てて宣言する。
「『私、飛白尚は、その生涯にわたって、笹呉赤香の名を、本人の許可なく口外しないと天に誓います!』さん、はいっ!」
「お前やっぱ馬鹿だろ」
「え? ……あ、ハッ!」
やっちまった、という風に口をあんぐり空けるレッド、もとい笹呉赤香。漫画のように表情を変化させる様子を見て尚は苦笑した。赤香は恥ずかしそうに咳き込んだ。
「こんなやつがヒーロー、ねえ……」
「そ、その通り! わんわん団は残らず殲滅! 悪は許しま戦隊が一人『紅炎の赤』キズレッドとは、アタシのことだあ!」
ビシイッ、と空気を裂く勢いで指を立てる赤香。傷ついた足をどうやらそれが彼女の決め台詞&決めポーズらしかった。でも顔面の赤さまでは隠せていない。
「戦隊っていうからには他にも仲間がいるんじゃないか? そいつらはどうした?」
「ミミちゃんとたきたっきーのこと? 残念ながら、どっちも今は戦える状態じゃないんだ」
「……やられたのか」
「あーいや、その心配はないんだけど……ちょっと説明しづらいっていうか」
赤香は髪をいじりながら苦笑いした。疑問を感じた尚だったが、その点についてはそれ以上追及しないことにしておく。
「じゃあ、さっきのデカいのは何なんだ? あの百一倍ぐらい凶暴な百一匹オーバーのわんちゃんズは。人がいないのは、みんなあいつらに食われちまったからなのか?」
「人がいないのは当たり前だよ。でっかい警報が鳴ったでしょ? あれはわんわん団が現れた時の合図で、みんな近くのシェルターに避難してるの」
そういえば電車から降りる寸前、大きなサイレンを聞いたような気がする。
どうやらコンビニ店員や玩具屋の主人は消えたわけではなかったらしい。ということは、犬たちに食われていたのは逃げ遅れた人たちだろうか。いや、それならあんな風にはしゃいだ声をあげたりはしない。
「だけど人がいないのをいいことに、さっきの不良達みたいに好き放題する輩もいて、だから……ウッ!」
「どうした!」
赤香が苦しげに喉元を押さえる。尚は肩に手を伸ばしたが、赤香がそれを制した。
「大丈夫。ちょっと思い出しただけだから……」
本来はただ可愛らしいだけの愛玩犬に、なすすべもなく蹂躙される人々。きっと彼女は今までも、同じような犠牲者を何人も見て来たのだろう。青白い顔色をそれ以上見ていられなくなって、尚は彼女の背をそっと撫でる。
「あいつらの正体はアタシだって分かんないよ。ただ人間を見つけ次第、無作為に殺すってことだけは確か。それ以外のものは口にしない……と思う。司令なら他に何か知ってるかもしれないけど、あの人はどうせ肝心なことは口にしないし」
「そうか……」
尚はしばらく顎に手を当てて何かを考えていた。コツコツという足音だけが下水道の中で反響する。音の響きが大きくなるごとに闇は濃さを増していく。
「まずは消去法、だな」
突然尚がボソッと言い、それから自分の頬っぺたを思い切り抓りだした。
「ちょ、何してんのアンタ!?」
「何って、可能性の消去だよ! いだだだだッ! ひとまずこれが夢じゃないって可能性を、あぎぎぎぎッ! 今のうちに確かめとこうってこと! いぢぢぢぢッ!」
自分で自分を痛みつける様を赤香は驚愕の目で見つめていて、口をぽかんと空けていた。
しばしの自傷行為が終わり、尚の頬っぺたはおたふく風邪にかかったかのように膨れていた。どんな贔屓目で見ても、その姿は阿呆そのものといった感じだったろう。
「……よし。ヒーロー戦隊だとかわんわん団だとか、信じられないことばっかりだけど、これが夢じゃないってんなら俺だって――」
言い終わらぬうちに赤香が言葉を遮った。
だがそれは「馬鹿じゃないの?」でも「変人だ!」でも「今どきそういうことする?」でもなく――
「あ、アンタもヒーローなの!?」
話を途中でぶった切られ、その上脈絡のない言葉を浴びて呆気にとられる尚。その意味をゆっくり理解してから、恐る恐るこう尋ねた。
「……どうしてそうなるんだ?」
「え? だってそうでしょ! 頬っぺたを引っ張ることがアンタの《傷》なんだね! ――それにしては変身が始まんないけど、ダメージが足りなかったのかな? よし、さっきのお礼ね。アタシが手伝ったげるよ」
「ま、待った待った!」
自分の頬に指を近づける赤香から一歩後ろに飛ぶ。
「もう十分だっての! これが夢じゃないかってのが最大の懸念事項だったわけで――って、ちょっと待て。今お前何て言った?」
「え? だから、アンタの変身方法なんでしょ? それ」
と、腫れあがった頬を指差される。
会話が噛み合ってないことに気づいたのは尚が先だった。
二人はそれぞれ違う理由で額に皺を寄せ、しばらく経ったあと尚が口を開いた。
「えーっと、文脈から判断するに、お前らが変身するには何らかの《傷》を負うことが条件なのか?」
「当たり前じゃん。何の代償もなしでスーパーパワーが得られるなんて、そんなうまい話ないよ」
「いや、まあそう言われればそうだが……」
だからといって傷を負うことで変身するなんて、本末転倒と言うか何と言うか……。
尚は先ほど確かめたはずの、ここが現実か夢かという問題を脳内で再議しかけていた。
「だからアタシはさっき、アンタに頼んだのさ」
「ああ、そうか。『みぞおち』がお前の変身条件なんだな」
ようやく合点がいった。尚は納得すると同時に、別の質問を思いついた。
「でも、こう言ったらなんだが、自分でやればよかったんじゃないか? 自分で殴るなり、どっかにぶつけるなり――」
すると赤香は、うるっと目を滲ませたあと、ずんずんと先の方を歩いてしまった。
この暗闇の中で単独行動はまずい。尚は慌てて追いつこうとするが、赤香は大股でどんどん先を進んでいく。
水溜まりをバチャバチャと踏み鳴らし、少し間を置いてまた同じ音が地下に響く。ずれたマンホールから光が漏れ、影同士の手と手が触れあい、またすぐ離れる。カエルが下水に飛び込む音がひび割れたコンクリートに染み込んでいく。
尚の方は疲れが特に顕著で、息遣いのリズムが乱れていた。喉は水分を欲し、すぐ横の臭い液体でもいいから飲んでやろうかという気さえしてくる。頭を振ってその考えを追い出し、遠ざかっていく背に向かって呼びかけた。
「いきなりどうしたんだよ! 俺はただ、ちょっと気になったことを訊いただけで、何も変なことは言ってないはずだろ!?」
赤香は立ち止まり、きっ、と後ろを振り向いた。その拍子に涙が一粒、水の中に落ちた。
彼女の立っていた場所は工事中の穴の真下で、月光が綺麗な円柱を描いていた。その下で、悔しさと不甲斐なさを閉じ込めたようなで目つきをしながら、赤香は言う。
「悪かったね、自分で自分も殴れない臆病者でさ! どんなに決心しても絶対にためらっちゃう甘ちゃんでさ! はいはい、アタシは誰かに頼らないと変身もできない、誰かに助けてもらわないと誰かを助けることもできない弱虫ですよ! こんなヒーローでごめんなさいねッ! ええ本当に!」
その激昂のことを何というか、尚は知っている。
逆ギレだ。
堰をきったように泣き出す赤香のもとへ近づき、尚は右手をあげた。それを見た赤香は怯えるように身をすくめた。
だが、尚は続いて左手もあげ、そして赤香のツインテールの端をつかんで軽く引っ張った。
「い、痛い痛い痛い痛い!」
栗色の髪を上に引っ張ったり、斜めに引っ張ったり、クルクル回してひとしきり遊んだあと、手を離す。赤香はまだ泣いていたが、じんじんと痛むであろう頭皮を押さえて、半分ぐらい上の空という風であった。軽く白目を剥きかけていた。
「今の、だいぶ手加減したんだぞ」
「う、嘘だ! メチャクチャ痛かったんだから! ふざけんな!」
がるるる、と獣のような唸り声があがる。お前の方こそ犬じゃねえか!
しかし、と尚は考える。出会ったとき、『みぞおちを殴ってくれ!』と懇願したときの赤香の泣き顔。変身について話していたときの反応に、今の痛がり方。
こいつもしかして、痛覚に敏感なのか?
本人にその自覚はないようだし、尚の見当違いかもしれない。
だがその仮説が正しいとすると、彼女はこの世界のヒーローとして、致命的な欠点を抱えているということになるんじゃないか?
尚はそのことを尋ねようとしたが、「ふざけんな、死ね、アホ、ヒーローの敵!」と連呼する赤香を見て、やはり自覚はなさそうだと思った。代わりに別のことを訊いてみる。
「そんなに痛いのが嫌なら、なんでヒーローなんか続けてるんだよ? 自分じゃ変身もできないなんて、そんなんで本当にやっていけるのか?」
意地悪する小学生のような口調で言ったのだが、それは本心でもあった。
尚が予想した答えは三つ。
・自分がやらないといけないから。または自分しかできる者がいないから。
・世のため人のために働きたいから。
・敵を倒すのが快感だから。
だが、赤香の口から出た言葉はそのどれでもなかった。
「え? うーん…………分かんない」
「…………分かん、ない?」
意表をついた答えに、復唱で返してしまう。
「別にやらされてるわけでもないし、誰かから『ありがとう』って言ってもらいたいわけでもないよ。――や、まあ確かにお礼言われると嬉しいし、敵を倒すよりは人助けを優先するようにしてるけどさ。そうじゃなかったらアタシ、アンタのことなんか見捨ててるし」
「でもコンビニでたむろしてた奴らは見捨てたよな」
「……ええ、力不足よあれは。あそこですぐ、アタシが痛みに耐えて変身する判断をしてれば助けられたかもしれない。そこは、でも……」
酷だが、それは業に違いないと尚は思った。
尚の脳裏にフラッシュバックする、畏怖の感情。本来あるべきものが、あるべき大きさをしていない光景。それはこの世界の住人ですら慣れるものではないのかもしれない。むしろこの世界の住人だからこそ、犬たちの怖さを知っているとも考えられる。
ヒーローを名乗る者が口にしてはいけない台詞だとしても、さすがに殴ったのはやりすぎだったな……と尚は反省していた。
「……力、入らなかった。アタシ……ヒーローなのに、ヒーローなのに……何回やっても…………ダメ、で」
そんなもの、言い訳にしかならない。
散った命は償えない、生きている人間はただ背負うことしかできないのだ。
「力不足を責められて、助けた人々から迫害を受けるのもヒーローの宿命さ。そんな苦痛もあるってのに――もう一度聞くようだが、どうしてヒーローを止めないんだ?」
「…………」
赤香は空を仰いだ。尚もつられて首を上げる。夜空には丸く輝く月と、満点の星々があって、宇宙の全てが工事現場からの円に凝縮されているようだった。遥かなる宇宙と、この小さな穴ぼこが一直線に繋がっているような感覚がして、尚は眩しそうに目を細めた。
そして赤香は、星空に向かって真っすぐ右手を突き立てた。人差指はナンバーワンを誇示するように先の先まで伸びきって、頭上を見上げると……
「『天に煌めく一番星が、悪を倒せと叫んでいる』ッ!」
世界に、宇宙に届くような声で、笹呉赤香は高らかに叫んだ。
ビリビリと肌が震え、下水道が歓声を沸かすように反響する。背後でカエルたちが飛び込む水音が聞こえた。尚は、彼女の凛とした立ち姿を見蕩れたように凝視していた。いや、「ように」ではない。きっと彼は見蕩れていたのだ。正真正銘のヒーローを目の当たりにして、自分の中の何かが沸々と湧き上がるのを感じていたのだから。
「――『恒星戦隊スペクトル』」
尚はその名前を、無意識のうちに口にしていた。そう、今の台詞は尚が幼少のころファンだった『恒星戦隊スペクトル』のスペクトルレッドが毎回口にする決め台詞だったのだ。
二人は驚いたように顔を見合わせた。
「アンタ、何にも知らないのにスペクトルレッドは知ってるんだ……」
「お前こそ、何で?」
世界の枠を超えても、その特撮番組が存在したことは驚くべきことだった。だが、尚が驚いたのはその事実ではなく、自分がその番組を好きだった記憶――それを今もなお保持していることだった。
尚と赤香はお互いの目を見て、そしてまたも同じタイミングで笑った。とても楽しげに。
こんなに面白いのはいつ以来だ? 尚は笑いながらそう考えていた。思杏と過ごす日々も幸福と言えたが、しかし本心から、ありのままに笑えたのはこれが初めてな気がした。
もしかして、こういうのが友達ってやつなのかもな――。
尚はそう思う自分が馬鹿馬鹿しくなり、また笑った。
しばらく下水道が明るい歓声に包まれたところで、尚はにやけたままの顔で言った。
「ってことは、お前がヒーローを続けている一番の要因は『憧れ』か」
「そうなのかなぁ? 今まであんま考えたことなかったけど、案外そんなもんなのかもね」
「……それ、ヒーローとしては一番馬鹿な理由だぜ」
絶対ろくな目に合わない。理想は幻滅し、敵に嘲笑され、人々からは非難され、味方にも疎まれ、最悪の場合そのせいで死ぬこともありえる。
だが――
「そういうの、嫌いじゃねえんだなァ俺」
尚は来ていたパーカーシャツを脱ぎ捨て、赤香の方に投げてよこした。下水に落とすまいと慌てて受け止めた赤香が見たもの――それは尚の腰に巻かれた、深い海の色をした金属のベルトだった。中心には突起のついた円盤状の部品が埋め込まれており、尚が手をかざすと円盤は高速回転して、青い光の奔流が溢れだす。
「変身」
掛け声と同時に、周囲を照らしていた光が全身に吸い込まれていく。
赤香はただその様子を見つめるばかりで、何が起きているのか理解できていないようだった。
「あ――」
と彼女が何か声をかけようとした瞬間――
光を纏った尚が消えた。いや、移動したのだ――赤香の背後へと。
赤香が振り向いた先には、青い人影。その拳を顔面に受けて、ゼラチンのように変形した大型ダックスフントがいた。
よく見ると、その向こうにはうじゃうじゃと犇めく眼光が見える。闇に浮かぶ光は一見すると蛍の大群のようだったが、そう例えるには少々殺気が強すぎた。
ついさっきまで飛白尚であった人影は、一見すると奇天烈としか言いようのない装備で覆われていた。頭や肩、手足の甲など、至る所に棘が生えた青い鎧。東洋風でも西洋風でもなく、そもそもどのような金属で出来ているのかさえ分からない。
守るため、というよりは攻めるための鎧。
雄々しくもあり、禍々しくもあり、しかしどこか悲しげな色。
彼はヘルメットのバイザーを開き、わんわん団の方を向きながら苦笑する。
「言ったろ、ヒーローなんているわけねえ。ここにいんのは単なる紛いもんだからよ」
ダックスフントは音を立ててその場に倒れた。