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みぞおちヒーロー  作者: 藤本乗降
第一話 ミニチュアじゃないダックスフント
2/19

★★

       ★★


「ア、アタシ実はヒーローなんだ。そういうわけで、今すぐ至急に――」


「みぞおちを殴れってか? ごめん全ッ然意味わかんねえ!」


 そもそもヒーロー……だって? そんなの現実にいるわけないだろ!

 尚には少女の言葉を信じることなんてできなかった。だからといって、彼女が自分よりもこの世界に詳しいことに違いはない。尚は街に人がいない理由を尋ねようと、マウントポジションをとる少女に向かって口を開いた。


「なあアンタ……ッ!?」


 そこで尚の動きが止まる。

 少女は泣いていた。声も出さず、口元も歪めず、頬も濡らさず、けれどもその瞳は月明かりを反射して星のように光っていた。

 なぜ泣いているのか? そう思う尚に少女はもう一度「みぞおち……」とだけ言う。先ほどよりも弱弱しい、絞り出すような声だった。


「……とりあえず落ち着けよ。ほら、いつまでもこんな恰好してるわけにもいかねえし」


「……? わわっ!」


 ようやくこの姿勢に羞恥心を覚えたのか、少女は飛び上がるようにして尚の上からどいた。頬は火に染まり、両手を口元に当てている。

 尚は打ちつけた後頭部を押さえながら起き上がった。そして今度こそ理性ある話し合いをしようと少女に向き合った、その時。

 状況を整理する暇を与えるほど、この世界は余所者に甘くないらしい。

 少女の走ってきた方向――明かりのついたままの居酒屋の角から『何か』が飛び出してきた。

 それは四足歩行で、毛むくじゃらの生き物に見えた。提灯の明かりに照らされる、黒と茶色のふわふわした寸胴。くりくりした目とひくついた鼻はそれだけで人を癒すようで、耳は顔の両脇にペタリと垂れていた。

 どことなく間抜けそうで愛嬌のあるそいつは、どこからどう見ても犬だった。それも、イヌ科の中でも人気の高いダックスフント。特にミニチュアダックスフントなどは室内犬として絶大な支持を得ていると聞く。

 それが五――いや、もっとだ。十、二十、三十、数えているうちにどんどん増えていく。

「逃げてっ!」少女が怒鳴った。見ると首筋には滝のような汗。目は血走り、膝と肩はガクガクと痙攣している。


「逃げるって……あの犬たちから?」


「なに当たり前のこと言ってんのさ! ほら早く!」


 少女は尚の手を掴み、犬たちとは逆方向に走り始めた。尚は急激な状況変化に対応しきれず、少女に引きずられるような形で夜道を駆けていく。

 逃げるって、怪物や殺人鬼じゃないんだから……。

 背後から走ってくるダックスフント集団を見ながら尚はそう思った。視界に捉えるその群れは、勢いよくこちらに向かってきていた。毛の一本一本までよくトリミングされているようで、野良というわけではなさそうだ。首におもちゃの鎖を引っ掛けているものまでいる。

 ――おもちゃの鎖?

 犬に付けるのは普通の鎖だろう。ペットには鎖を『付ける』か『付けない』かの二択があるだけで、わざわざ小さいおもちゃを飾らせるなんて理解できない。

 ここで尚はあることに気付いた。

 犬たちとの距離は三十メートルほどある。それなのに、ダックスフントなんて小型犬の外見、数をここまで把握することは簡単だろうか?

 そう、離れた距離にいる尚の目からすればダックスフントの大きさは標準通りだと思えた。遠近感というものがありながら、何故通常の大きさで見えるのか?

 答えは小学生でも分かる。

 その犬たちは、ダックスフントのくせにミニチュアでもスタンダードでもなかった。

 体長およそ四メートル、高さ二メートルほどの、大型ダックスフント。

 そのうち二匹が、今も男達がバカ騒ぎしているコンビニへと入っていく。突如、悲鳴、驚愕の叫び。喉を切り裂くような声はこちらまで聞こえ、あっという間に止んだ。


「な、なんだよあれぇ!」


「わんわん団だよッ! アンタまさか知らないの!?」


 振り返ると、コンビニから出てきた二匹は口元に血を垂らしている。牙と牙の隙間からは学生服とおぼしき布と、だらりとぶら下がった一本の腕。その腕もまた、燃え盛る炎のような舌に呑まれて見えなくなってしまった。


「ヒッ……!」


 と、恐怖の悲鳴をあげたのは尚ではなく少女である。引っ張る力が急に途切れ、尚は小さな背中に激突しそうになる。


「うわ! なんだよ危ねえな…………って、おいおいおいおい!」


 前方。さっきまで何もいなかった道路を一匹のダックスフントが横切った。尚たちは隠れる間などなく、ギラリと光る両眼が、尚と少女をその場に縛り付けるように睨んだ。

 改めて感じる、普段可愛がっているものが人並みの大きさになっただけで、これほどまでの恐怖感を宿すものなのかと。デフォルメされた漫画調の犬ではない、現実に存在する、歴然とした種と種の差。背後からも道路を踏み鳴らす足音が容赦なく近づいてくる。

 絶体絶命の挟み撃ち。

 だが前は一匹だけだ……なんとか脇をすり抜ければ退路はある!

 だが、そんな決心を踏みにじるかのようにダックスフントは宙を仰いで――



「 わ ん っ ! 」



 街全体が震え上がった。

 ケヤキはざわざわと揺れ、ビルの一部は共振してビイインと鳴いた。その一声で、ドドドドと土石流のような音がどこからかやってくる。

 いや、どこからか、ではない! どこからも、だ!

 一匹のダックスフントの後ろから、横から、ビルの隙間や建物の入り口からぞろぞろと犬の軍団が顔を現した。

 その数、控えめに見ても五十。

 背後から迫る群れと合わせて、およそ八十匹!

 二人の頭に浮かんだのはもはや絶体絶命の四字ではなかった。

 絶望。

 シンプルな二字だけが、二人の感情の全てだったと言っていい。

 津波のように押し寄せる犬たちの牙と爪。獣臭さの中に確かに漂う血と肉の臭い。


「だ、だれか……」


 少女は小さく呟いた。尚が目だけを動かして表情を伺うと、少女の目から宝石のような涙が一粒、青くなった頬をつたっていた。


「だれか、じゃねえだろ」


「……え?」


「ヒーローなんていねえんだよ。どんな状況だろうと、奇跡を願うってのは馬鹿のすることだ」


 尚は吐き捨てるようにそう言い「逃げるぞ!」

 少女の手を取って、右手にあるレンガ造りの建物へと走り出した。

 戸惑う少女を引き寄せて、覆いかぶさるように抱きしめると、ウインドウを破って中へ飛び込む。猛ダッシュしていた犬たちの、互いの肉と骨がぶつかり合う音がした。


「――ぐ!」「ヒィッ!」


 飛び込んだ先は大型玩具店のようで、電灯は点いているものの店主はやはりいなかった。主人のいない中で静かに座るおもちゃたちはどこか不気味で、その中にはもちろん犬のぬいぐるみも置いてあった。


「これからどうするの!?」


「知らねえよ! こちとら迷子の迷子の子猫ちゃんだっての!」


 そう、こんなの一時しのぎにしかならない。ガラスを破った衝撃で尚は腕と背中を切っていたし、少女は足首のところから血を流していた。それを見て尚は舌打ちをし、「つかまれ」といって右手を差し出す。


「だ、大丈夫。さっきは油断してただけで……アタシだってやろうと思えば」


「やろう、と思ってんのか?」


 少女は口をつぐませる。目を逸らしブツブツと何かを呟きだした。何を言っているかは分からないが、微かにヒーローがどうのこうのと言っているのは分かる。


「……ああもう! ぐちぐち五月蠅え女だなあ!」


「ひゃあっ!」


 ぐい、と強めに腕を引き、少女を自分の背に乗せる。傷が痺れるように痛んだが、この程度どうでもなかった。

 もう一度少女を背負い直したとき、先ほど割ったショウウィンドウがより大きな音をたてて破壊された。


「う、上に逃げて!」


「馬鹿野郎。そんな自殺行為誰がするかっての」


「でも外に出たらまた……」


「死ぬのを待つよりゃマシだ。……それに、ほれ」


 尚は壁際に立てかけてあるスケートボードを顎で示した。


「あー畜生! コナンくんみたいにはいかねえなあ!」


「変なこと言ってる場合じゃないよお!」


 裏口から店を出たあとも逃走を続けていた尚たちは、下り坂を見つけてダックスフント軍団から距離をとることに成功していた。スケボーの二人乗りなど初めてだったが、意外とバランスはとれている。しかしスピードではやはり負けていて、かつ世の中に下り坂が限られた数しかない以上、彼らが胃袋に収まるのも時間の問題だった。


「後ろはどうなってる? まだ余裕あるか……えーっと」

「レッド」


 後方を見つめながら少女は答えた。そしてもう一度


「アタシは《悪は許しま戦隊キィズダラー》が一人、『紅炎こうえんの赤』キズレッド!」


「……えーっと」


 尚がもう一度聞き返すと、またも一字一句違わない答えが返ってきた。

 こいつは頭がイカレてる、ちょっとどころじゃなく、かなり根元の部分まで。尚は頭を抱えようとしたがスケボーに乗っていることを考えて腕を下ろした。

 いきなりみぞおち殴れと命令するわ、かと思ったらビビッて動けなくなるわ、いったい何なんだコイツは?

 尚の中で彼女は『いい歳してヒーローを信じるネジ無しロリ巨乳』ということになっていた。


「いいか、ヒーローなんてもんは存在しない。よく覚えとけ」


「そ、そんなことないよ! 現にアタシはヒーローだもん! 《悪は許しま戦隊キ……」


「もういい、名乗らなくていい。キズダラーだかなんだか知んないけど、妄想も大概にしろよ」


「違うっ、キズダラーじゃなくてキィズダラー! KじゃなくてQの発音! 間違えないで」


「どうでもいいわそんなの!」


「よくなんかない! アタシはちゃんとしたヒーローなんだから! それが誇りなの!」


 アタシはヒーローなの!

 少女――レッドはもう一度訴えるように言った。尚はそれを聞いて、出かかっていた言葉を止めた。


「あッ!」


 後ろを見ていたレッドが息をのんだ。「近いのか!?」と尚が問う。


「……ううん。まだ距離はある」


「じゃあ何が起こったんだ!」


 レッドは少し黙ってから、囁くような大きさで「シェルターにいない方が悪いんだ……警報は出てたのに」と呟いた。尚の背を掴む手に力がこもる。


「……誰かやられたのか」


 無言。


「お前さっき、自分をヒーローだって言ったよな。妄想でいい。それ本気で言ってんのか?」


「……うん、そうだよ。アタシはキズレッド。わんわん団に対抗するための組織の一員」


「だったら……」


 尚はスケボーを止めた。背中にぶつかって驚くレッドは、徐々に近づいてくる犬たちと尚を見比べ、あたふたと身を揺らす。

 そんなレッドの方を向き直り、尚は上から睨みつけた。それは宿敵を前にしたような、見る者すべてを震え上がらす目だった。


「だったらそんなこと、思っても口にするんじゃねえッ!」


 拳が入る。傷一つない、幼さを残した顔に。

 どさり、と倒れるレッド。何が起こったのか信じられないという風に茫然自失している。

 手加減はできなかった。その攻撃は条件反射に近かったからだ。尚は固く握りしめた右拳をブルブルと震わせ、犬軍団が唸りをあげるのも気にせず言う。


「俺はヒーローなんて大っ嫌いだけどよ、それをヒーローが言ったら終わりってことは知ってるぜ! たとえ自業自得だとしても、人が倒れて死んで喰われて――それを、どんな形であれヒーローが肯定しちゃあ…………    駄目だろ」


 最後の部分は弱弱しく、口では平常でも、心は泣いているような話し方だった。

 頬を押さえていたレッドはハッと目を開き、尚の目を見た。二人の目と目がしばらく見つめ合い、ほとんど同時に光が宿る。


「乗れ!」「分かってる!」


 勢いよくアスファルトを蹴り出し、スケボーは無人の街を駆ける。犬たちの追跡は止まるところを知らず、一直線に差を縮めている。

 現在差は、距離にしておよそ十五メートル。

 そのときレッドが「あっち!」と左手前方に指を差した。「下水道がある!」

 尚は一度だけレッドに笑いかけ、体を傾けた。ギャリギャリギャリ! とスケボーのタイヤから火花が散る。傾く尚の背中に合わせて、レッドもその身を倒した。


「次は右!」「おうッ!」「そのまま真っ直ぐ!」「了解!」「あともうちょい!」「よっしゃあ!」


「そこっ!」「うらああああッ!」


 そして二人はブレーキをかける暇さえ惜しむように、稲妻のようなスピードを維持したまま用水路へと飛び込んだ。反動で空中に翻るボード。真っ逆さまに落下する二つの影。

 尚は空中でレッドを抱きかかえ、着水点を睨む。

 黒い水面には犬たちの影が揺れていて、尚は口の動きだけで言った。「あばよ」



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