★★★★
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廃病院三階。階段を上がり切ってずっと左にいった北端の病室に、爬苦俚獅子郎はいた。
「やっと来たか。貴様らのことだから挨拶もなしに九州へ帰ったのかと心配したぞ」
穴の空いたベッドに腰掛けていた彼は、チワワ頭を上げてそう言った。
実際に目の当たりにして、尚たちは気圧されそうになる。愛らしい頭に不釣り合いな長い手足、着ぐるみの下からでも分かる強靭な筋肉、そして全身から立ち込める禍々しい雰囲気。
爬苦俚は立ちあがる。二メートルを超す巨躯が、ここでも二人を見下ろした。
「どうした赤いの? 足が震えているぞ」
尚は咄嗟に赤香の方を振り返った。ここで怖気づいてんじゃねえ、と喝を入れるために。
だが……赤香は怯えてなどいない。むしろ気丈な眼差しを向けている。
どういうことだ? と思う尚の耳に
「アオくん後ろ!」
しまった! と体を反転させる前に、背中に衝撃が走る! 尚は受け身をとる余裕もなく、正面から病室の扉に叩きつけられた。
「があッ!」
「集中力が足りんなァ……まだ目が覚めぬか?」
尚はヘルメットのバイザーを開き、ぷ、と床に何かを吐く。窓から漏れる月明かりが、血のついた歯を映し出した。
「焦るなよ……こっちも思いっきり暴れてやっからよォ!」
そう言って尚は勢いよく赤香の肩を叩いた。
「いいだろう。お手並み拝見といこうじゃないか」
尚の拳が、蹴りが爬苦俚の顔面、心臓、わき腹へと、曲線を描いて繰り出されていく。
だがその全ては長い二本の腕にさばかれ、一向にダメージらしいダメージが与えられないでいた。
右手が露出しているから、本来の自分の腕じゃないから、というレベルではない。
「クックックック、それが『青き鎧』の力かァ? そんなものがお前の本気か飛白尚ォ?」
爬苦俚の相手は今のところ尚一人である。
赤香はというと、現在のフィールドであるところの病室、その一番外側を走りながら、しかし手出しはしていなかった。彼女は普通に、人間が走るのとほとんど変わらない(とはいえ『超スピード』の恩恵で、通常状態でも陸上選手並みの素早さだが)スピードで駆けまわり、様子を伺っている。
「今度はこちらから攻めるとしようか!」
爬苦俚獅子郎による猛打のラッシュ。目で追うことなどできない、分裂したような白い拳が鎧を砕かんと猛威を奮う!
工事現場の掘削機のような連続音が鳴り、尚を壁際へと追いやる。
ダメージの大半は鎧が防いでいるものの、これでは呼吸も満足にできない。
「クククク――ハハハハハハハ!」
終わらない、拳の豪雨。
(だが、こんな柔らかい毛皮じゃ直接的なダメージはほとんど……)そう思うが
「ッぐ!?」内臓がせりあがる感覚に、胃液が一気に逆流してくる。
(な、なんだこれは?)
尚は知らないが、毛皮に包まれた拳によるパンチングは鎧を砕きこそしないものの、その内部にある人体に多大なる影響を与える。
目にも止まらぬ速さで繰り出される爬苦俚のラッシュは一つ一つが岩をも砕く威力である。その力は毛皮を通したところで失われるものではなく、むしろ毛皮、鎧、そして皮膚や骨格をも通過して内臓――人体の最も無防備な部分へ強烈な衝撃を与えるのだ。
ボクサーがグローブをつけたところで弱体化などしない――むしろ彼らにとってグローブは『拳を傷めない』という意味が大きい。その役目は爬苦俚の毛皮にも同じことが言える。
ダメージを確実に相手の肉体に与えつつ、自分の拳に返る衝撃は吸収される。
拳が痛まないおかげで、彼の攻撃には瞬き程度の隙間さえ生まれない!
「――――おっと」
そんな彼の拳が、止まった。
そして俊敏なフットワークで尚の右側へと移動する。
「それが貴様らの作戦か……陳腐だなァ、小童のように陳腐だぞ。それがヒーローの実力かァ?」
爬苦俚の目が捉えていたのは、尚の体の向こうに見える赤香だった。
彼女はヘルメットの下で小さく舌打ちをした。
「飛白尚が私の注意を引き、その隙をついて貴様の『スピード』で決定打を打つ気だな。そんな甘い考えが、この爬苦俚獅子郎に通用するとでも?」
今の状態では、赤香と爬苦俚の間に尚が入ってしまっている。笹呉赤香の十八番であるスピードは強力な分、細かなルート調整は効きづらいのだ。まして、このような室内では特に。
赤香は思い出す、先日の柴犬戦を。
(あのときは相手が動きづらい空間で戦ったけど、狭さが命とりなのはアタシも同じ……)
それでも諦めず、わずかな隙を見逃さないように目を凝らすが――
(……ダメだ、どんなに動いても、見定めたときにはもうアオくんの陰に隠れちゃってる!)
爬苦俚は余力を残しているのように見える。対して尚の方は、やはり元の世界から離れた影響か弱体化の傾向にあるようだ。
だが、爬苦俚の蹴りを脇に受けながら尚は実感していた。
(全盛期の俺でも、間違いなくコイツには勝てない!)
「どうしたどうした、『青き鎧』に守られてばかりだなァ、飛白尚! お次はこれだ、歯を食いしばれ!」
爬苦俚はその巨体からは考えられない動きで、尚の視界から姿を消した。下にしゃがんだのである。
予想外の行動であったが、尚も負けじと後ろへと飛びあがる。
だが――
チワワの下に見える口が、ニタァっと笑ったのを、尚は見た。
無意識に、尚は歯を食いしばる。鎧に包まれた足はまだ地についていない。
爬苦俚はしゃがんだ勢いを逆に利用し、飛び上がる!
二メートルの体は一瞬で天井に達し、さらに両腕が壊れた蛍光灯を激しく叩いた!
「――――ッッ!」
床から天井までの距離×二。
それだけの勢いをつけた爬苦俚の体が、着地前の尚にのしかかった! タイルに亀裂が走る。鎧の軋む音とともに、バキン! と継ぎ目が外れるような音がいくつも聞こえて来た。その中には、尚の肋骨があげる悲鳴も紛れていたはずである。
「おおっと、危ない危ない」
赤香の殺気を感じ取り、爬苦俚はすぐにその場から離脱する。
「しかし、『青き鎧』もこの程度で音を上げるとは……期待外れにも程がある。聞いていた話と違うぞ……?」
尚の方を見ながら、爬苦俚は嘆息した。
「……へへ、痛えことするな。プロレスラーかよ、筋肉超人かよテメエは」
その視線の先で、尚が生まれたばかりの小鹿のような動きで立ちあがる。ヘルメットの下で血を吐きながら、折れた肋骨を押さえながら、両目だけはしっかりと爬苦俚を睨んでいた。
「つーかさ、誰が言ったのよ」
「……何のことだ?」
「『青き鎧』だよ」
その情報のリーク元が知りたいのか、と爬苦俚は解釈したのだろう。
「すまんがそれを教えることはできんなァ。しかし貴様が勝てたらサービスに教えてやってもよいぞ。私がどうして、別世界の武具について知ったのか」
「……そうじゃなくてさ、誰が俺を『鎧』の担い手だなんて言ったのかって聞いてんだよ」
「知らないのか? それは貴様の信頼すべき仲間、あの月弓鳥海が親切にも教えてくれたのだよ。そのおかげで、私と貴様は今こうして相まみえることができているのだ」
尚も当然そのことは知っていた。知っていた上で質問していたのだ。
「……か、はははは」渇いた笑いが出る。
「何が可笑しい?」
「俺、一言も言ってねえんだけどな。今着ているこれが『青き鎧』だなんて!」
その時、青のヘルメットの下、血走った尚の目が、爬苦俚に初めて『恐怖』に近い感情をもたらした。
赤香にとっては爬苦俚を仕留める絶好の機会――だがまた彼女も、尚から発せられる凄味のようなものに足を止められていた。
尚は口の中の血液を残らず吐き散らし、大声で言い放った!
「神変!」
それは先ほどの笹呉赤香の変身とも、飛白尚の変身とも違った。
一目見た限り、何がどう変わっているのか、それとももう変わってしまったかすら判別に困るほど、尚のもう一つの変身は『地味』なものであった。
夜闇の中、月明かりしか無い廃病院の室内において、赤香の目には直立する尚の影しか映らない。
尚はそのままの姿勢で固まって動こうとしなかった。鎧から滴る液体が足元に水溜まりをつくり、ピチョンと音を立てた。
(どうしちゃったのアオくん……? 見た感じ、何も変わってる感じはしないけど……)
と、ここで赤香は気が付く。鎧から出る液体が、尚の血ではないことに。
その液体は鎧の隙間からではなく、鎧の表面からじかに溢れていたのだ。
金属自体が発汗しているように、ドス黒い水滴が滲み、月光を鈍く反射する。
(よ、鎧が……融けてる!?)その分析は正しくもあり、間違ってもいた。
着る者に死という災いをもたらす『青き鎧』。尚のいた世界で科学者たちはその装備を直接纏うことのできる人間を探し出そうとした。しかしどんな優れた肉体を持つ人間でも『鎧』の毒からは逃れられなかった。
そこで彼らはある一つの案を採用した。
それは『鎧』に鎧をつけること。要するに『鎧』を特殊塗料でコーティングする計画である。
それで軽減される毒の量は約三割。それに反し、発揮される運動性能は四分の一以下。それだけではなく装甲値も五分の三に減少するという奇妙な結果をもたらす。理不尽な数値であったが、そこに文句を言えるほど当時の人類に猶予は残っていなかった。
しかし、そうまでしても適合者は現れない。彼らが『鎧』だけでなく、人間の方も自分たちが手を加える必要があると断定するまでに大した時間はかからなかった。
そしてとうとう創りあげたのだ――三割まで軽減された『鎧』の毒に、時間制限付きで耐えることのできる改良人間。
掠れた毒から治りうる『飛白尚』を。
黒い鎧だ、と赤香は思った。
「……ほう、それが真の『鎧』か」
月光が割れた窓から射しかかる。コーティングの下から剥き出しとなった金属に月が丸く反射した。
(……違う! 紺だ、紺色の鎧!)
そう、『青き鎧』の真の姿は、青と言うよりはむしろ黒に近い濃紺である。
ぽたり、という水音と共に、欠損していた右手の断面がぶくぶくと泡立つ。
泡の奥では徐々に鎧が再生されていき、五秒も待たずに濃紺色の手甲が出来上がった。
全身から毒々しいまでに、腐臭をまき散らす尚。
「クサいな……だが、悪くない臭いだ」
爬苦俚は豪勢な料理を前にしたときのように、じゅるりと舌なめずりをした。とても人間並みの長さではない、尖った舌である。
何も言わず、尚は爬苦俚へ近づく。一分の無駄もない、流れるような動きをされて、爬苦俚は懐に入られるのを許してしまった。
そして、顔面に一撃。
先ほどまでの尚とは段違いの左フックが爬苦俚の体を吹っ飛ばした。壁にぶつかり、大きな亀裂が上下に走ったかと思うと、音を立てて中央が崩れた。
「クックックックック……こうでなくては。私と貴様の死闘はこうでなくてはなァアア!」
爬苦俚の方からも狂ったような吠え声が鳴る。
ぐるるる、という唸りも聞こえる。瓦礫から起き上がった爬苦俚は、一回り大きくなっているように見えた。四肢に血管が浮かび上がり、体長も五十センチほど伸びているように思える。
チワワの口から涎を垂らしながら、爬苦俚は低い声で言う。
「そういえば私の能力を紹介していなかったな……クク、ここまで来たら徹底的にフェアにやらねばな……今さら言う必要もないかもしれんが、私は『獣化』の力を使う。犬たちを強化させたのも、こうして肉体を強化しているのもこの力のおかげさ。シンプルだが、なかなか使い勝手のいい能力だよ」
赤香はアジトで聞いていた話を思い出す。戦隊の情報網がいくつか漏れていて、戦力を把握されているという話。
(あれはきっと、ミミちゃんと似た力を使ったんだ。獣になれるってことは、筋肉だけじゃなくて感覚まで自由に操作できるはずだから)
動物というものは時に人知を超越した力を見せるものである。
スポーツカーに並ぶ速度で草原を駆け抜け
鉄をも容易にへし曲げる腕力を誇り
銃弾を跳ね返す鱗に身を包んで
少し鼻を鳴らしただけで数キロ先の匂いを探知する。
そんな獣の能力を自在に操る男――それが爬苦俚獅子郎なのだ。
「いいパンチだ……貴様に敬意を表し、私もそろそろ本気を見せるとしようか」
爬苦俚の手から着ぐるみを突き破り、五本の爪が出現した。うち一本は手首あたりから伸びている――犬の第一指は他の指から離れた位置に生えているのだ――その一本一本がサーベルのような輝きで、月光をキラキラと反射させていた。
「『六割』だ」
「……さっきまでのテメエが、か?」
新たな『鎧』を装備してから、初めて尚が口を開いた。
「クックック……先ほどまでの私は『三割』さ」
その言葉を口火に、尚と爬苦俚は同時に飛び出した。砕けた穴を通って、隣の病室へと躍り出る!
交わされる拳の応酬! 爪と『鎧』が散らす火花!
どちらかが壁にぶつかり、どちらかが窓を蹴破る。
「がるるるるる!」爬苦俚が唸る。
「らあああああ!」尚が叫ぶ。
白と紺、正反対の色と色が狭い室内を縦横無尽に飛び交い、そのスピードはもはや人間が追える範囲から大きく逸脱していた。
そして笹呉赤香は、両足にエネルギーを充填させながらも未だ突進するタイミングを掴めないでいた。
先のポメラニアン戦でもそうだったが、赤香の目は自分のスピードについていくことが出来ない。巨大犬の口が開くのを待つのも、爬苦俚の隙を見計らうのも、すべて人並みの感覚なのだ。だから彼女は、先ほどから室内を走るのにも能力を使っていない。そんなことをすれば敵の姿を見る以前に、自分がどう移動しているのかも不確定だからだ。
だから赤香は足を止めた。
爬苦俚から「小童の考え」と言われた作戦は軌道を外れ、今や戦闘は彼ら二人だけのものとなっていた。
(もし私が飛び出して、偶然でもいいから爬苦俚に当たれば……いや、そんな攻撃が今のアイツに、アイツらに通用するの?)
ドゴオオォン!
土煙が舞う。おそらくまた別の壁が崩壊したのだろう。
二つの影は示し合わせたわけでもないのに、まったく同じタイミングで穴へと飛び込んだ。
赤香も追うように、隣――つまり北から二番目の病室へと入っていった。
「七十パーセントォ!」爬苦俚の声が響く。
着ぐるみは筋肉でパンパンに膨れ上がり、足からも四本の爪が生えた。
爬苦俚はもはや人間としてではなく獣としての戦い方を選択しているようだった。すなわち四足歩行である。
すでに彼の腕は足として使っても問題ないほど発達しており、その敏捷性は単純計算で倍となる。
床、壁、天井、壊れたベッドやカーテンリール、そのすべてが爬苦俚の足場と化す!
「ハッハッハ、どうだ、四方向から無作為に繰り出される我が凶刃は!? いくら『青き鎧』といえど、これをすべては避けきれまい!」
獣化比率を増し、より堅固となった爬苦俚の爪は尚の『鎧』に爪痕を残していた。削れた部分が白くなることはなく濃紺色のままであったが、尚のヘルメット、腹部、ベルトの脇など至る所に四本の線が刻まれていく。
強化されていく爬苦俚の成長に、尚の反応速度がついていけなくなっているのだ。
その証拠として、今度は『鎧』の背が深く抉られる。
「これでも届かぬか……さすがは『青き鎧』だ。ならば私も奮起しなければいかんなあ、さあ見るがよい、これが獣化八十パーセントだ!」
膨張する肉体にとうとう着ぐるみが限界に達し、風船が割れるような音がした。小さな皮のクズとなった着ぐるみはハラハラと廃病院の床に落ちていった。
四肢は丸太のような太さとなり、着ぐるみの下から現れたのは、まったく同じ色をした濃い体毛。
そして頭部はというと、そこだけは弾け飛ばずにチワワのまま残っていた。
見た目だけなら、そう、チワワの顔をしたグリズリーという表現が一番近いかもしれない。
だが、それを見ても尚は
「『鎧』『鎧』って……それしか言うことねェのかよオッサン」捨て台詞を吐いただけだった。
――だが、七十パーセントの爬苦俚の動きについていけなかった尚が、今の爬苦俚のスピードを追える道理などない。
戦いの差は開くばかりだ。
爬苦俚獅子郎も、そこで手加減するほど紳士ではなかった。
そこから先の戦闘は、まさに蹂躙という言い方が適当だろう。
なすすべもなく爪痕だけが増えていく『鎧』。切り傷だけは避けているものの、〇.一秒単位で蓄積されていく尚へのダメージ。特に内臓器官への衝撃が、ついに臨界点を突破した。
「が――――はあッ!」
身体の中で爆薬が点火したような衝撃があり、焼けるような熱い液体が喉から湧き上がる。そして一気に口から飛び出し、ヘルメットの内側にこべりついた。
バイザーの内側も赤い血で濡れる。だが尚は、それを拭う体力もないまま膝から崩れ落ちた。
がくがくと震える顎。急激に冷えていく体温。思うように動かない手足。
(爬苦俚からのダメージだけじゃない……これが『鎧』の副作用ってやつか)
本来、使用者の肉体に危険が迫った段階で自動解除される設定になっているのだが、それはいつもの『変身スーツ』としての機能である。『鎧』が真の姿となったその時点でパージ機能や通信設備も毒に汚染され、使い物にならなくなっている。
動かない尚を見て、爬苦俚が大きく唸りながら胸を叩いた。
その仕草はゴリラのドラミングのようでもあった。
(動物なら何でもありだっての!?)
赤香はそれを見て背筋を凍らせた。それはもう、本当に『何でもあり』じゃない――と。
尚はかろうじて動く左手でバイザーを上げた。そして何が起こっているかだけでも把握しようとしたが……
爬苦俚が尚の足を掴み、力任せに壁の方へ放り投げる。豆腐のようにあっさりと壁は壊れ、尚はベッドのフレームに頭から突っ込んだ。ちょうど、視界を確保しようと露出させた額がぶつかる。そのまま『鎧』は音を立てて床へ崩れ落ちる。爬苦俚は穴をくぐり抜けると、倒れた尚の傍へ近づき、拳を高く上げて、振り下ろす。
拳を高く上げて、振り下ろす。
拳を高く上げて、振り下ろす。
拳を高く上げて、振り下ろす。
拳を高く上げて、振り下ろす。
拳を高く上げて、振り下ろす。
拳を高く上げて、振り下ろす――――
「やめろおおおお!」
赤香の絶叫。
そして突撃が、爬苦俚の胸へと突き刺さる。それは現状、赤香にできる最大の攻撃手段であった。己の力を両足にのみ集中して放つ、笹呉赤香の『超スピード』突進。
わんわん団の体内を容易に突き破るそれは、しかし爬苦俚には通用しなかった。
彼は防御する様子も見せず、ただ皮と肉だけで赤香の必殺技を受け切ったのだ。
その事実に、彼女の頭は白紙と化す。爬苦俚の懐に入ってしまった、と気づくのは右腕を掴まれてからだった。そのまま持ち上げられる。付け根の部分が痺れるように痛んだ。
「…………あ」
千切られてしまうのだろうか、そのまま投げ飛ばされてしまうのだろうか。
「『鎧』も持たぬ小娘が、こんな力でヒーローなどと名乗る気か?」
(いや、投げ飛ばされても多分腕は千切れちゃうだろうなあ……。でも、ミミちゃんの受けた傷に比べたら、どうってことないかも)
そんなことを考えてしまう赤香の目の前で、一つの影が立ちあがる。
「……忘れてた。戦隊ヒーローってのは仲間と戦うもんだよな」
影は、尚だ。
「俺の名は《悪は許しま戦隊キィズダラー》が一人、『蒼海の青』キズブルー。そしてこちらは『紅炎の赤』キズレッド。キズダラーじゃなくてキィズダラーだからな、そこんとこよろしく」
「……何をいまさら」爬苦俚は壊れた玩具を見るような目つきで、赤香を尚の方へ軽く投げやった。それを両手で受け止めて
「してなかったと思ってさ、自己紹介」
ヒーローのお約束だろ? と言って尚は、赤香の肩を二回トントンと鳴らした。
それを合図に、左右に広がる二人。
「『天に煌めく一番星が、悪を倒せと叫んでいる』ッ!」
「……軽口を叩く余裕があると思わなかったぞ、飛白尚」
爬苦俚は気が付いていなかった。尚の右目の端、度重なる爬苦俚との戦闘で古傷が開いてしまっていることに。
そして尚自身も気が付いていなかった。初めて赤香と出会ったときに言われたこと。
ただ頬をつねっただけで『あ、アンタもヒーローなの!?』と言われたこと。
この世界で、ヒーローとは特定の傷を負って初めて実力を発揮する。
そんな事実に誰も気が付かないまま、赤香と尚は両側から爬苦俚を追い詰める!
「く……小癪な」
つかず離れず、ヒット&アウェイを自慢のスピードで繰り出す赤香。
ダメージは無いまでも、爬苦俚の気を逸らすには十分だった。
二人のヒーローと、一匹の獣の戦いは激しさを増す。粉塵が舞い、窓ガラスは砕け、空ぶる拳が壁を壊す。ときには床が悲鳴をあげ、隣の病室へ移動する事態にもなった。
そしてどれだけの時間が過ぎただろうか……。
最初に戦いを始めた病室は穴の遥か向こうになっていた。
時間とともに焦りも増す。尚は毒に蝕まれ、赤香の肉体もあちこちから激痛が走っている。そんな中、とうとう苛立ちに支配された爬苦俚の頭を、尚の渾身の一撃が貫いた。
(――入った!)
全長三メートルの巨体は、よろよろと後ずさる。爬苦俚の乱れた息遣い。
「……フ、クククク」
ボロ布になりつつあるチワワの覆面。拳のヒットした右目の部分が削り取られていた。
そこから見える、爬苦俚本人の眼光。
「……そうか。それがお前の強さの秘密ってわけか」
そこに浮かぶ、深海のような孤独の色を見て、尚はそう言った。
この世界における、《傷》を持つ者が力を宿すというルールを尚は密かに感じ取っていた。
それがヒーロー以外にも通用するとしたら、きっと爬苦俚獅子郎の傷はこの瞳の奥……
誰よりも深い、すべてを飲み込むような『孤独』なのだろう。
「貴様になら分かるかもしれんな……飛白尚」
しゃがれた声で爬苦俚は言った。
「だが、死に行く者に理解されたところで仕方あるまい……」
「誰が死ぬって?」
「言わねば分からぬか?」
巨岩のような爬苦俚の拳が振り下ろされる。尚はそれに対し、自らも拳をもって応えた。
そして二つの拳が交差する刹那――――
「九十九パーセント」
ぞわり、と寒気のよだつ声だった。
尚は目を見開き、回避行動をとろうとする。
だが振り抜かれてしまった腕を止めることは、相手の拳を止めることより難しい。
手甲が粉々に砕ける音がした。皮膚が破け、骨が割れる。
獣化九十九パーセントの爬苦俚の拳は、四トントラックを一点に凝縮したような重量だった。
『鎧』の左腕はひしゃげ、噴水のように血飛沫が上がる。尚はそのまま背後の壁に向かってぶっ飛ばされた。壁は砂糖菓子のように崩壊し、尚はとうとう病棟の果て――最も南の部屋へと行き着いてしまった。
「貴様もだ」
「ッ!」
爬苦俚は、背後から延髄を狙う右足を掴んだ。
そして赤香の体も、尚と同じ部屋へ放り投げる。
「ここまでの力を出すつもりはなかったが、しかし能力を最大限に発揮すれば『鎧』といえども耐えきれぬか。……ふむ」
爬苦俚は二人が転がる部屋を一瞥した。
「まだ死んではいないな……おい貴様ら、何か最後の言い残すことはないか?」
返事はない。
「そうか、それもまた答えだ。……では行くぞ、これが貴様らの同胞から耳を奪った我が必撃技……」
爬苦俚は息を吸う。ただでさえ巨大な体が腹部を中心に膨らんでいき、体積は二倍、三倍、どんどん増えていく。
病室中の塵や埃、窓の外からは木の葉が爬苦俚の鼻腔へと飛んでくる。彼はそれらを意に介さず、己の体内へと取り込んでいった。外では木々が大きくざわめいている。
やがて爬苦俚の体は病室いっぱいに広がって行った。天井がミシミシと音を立て初めて、扉は蝶番を外して倒れる。
巨大な風船となった爬苦俚は、二人が倒れる病室へと顔を向けて
そして、息を吸うのを止めた。
(これが真なる獣の『咆哮』というものだ)
「 わ ん ッ ‼ 」
振動、いや震動であった。
廃病院全体が地震にあったかのように震え、反響は雷雲のような轟きとなる。
病室中の壁全体にヒビが入り、北の方で天井が崩れ落ちる音がした。
爬苦俚自身さえ、かつて出したこともない規模の『咆哮』は廃病院だけに留まらず、のちの話によれば旭川まで届いたという。
彼の最大の武器、最後の最後まで残った切り札は強靭な肉体ではなく、『音』という不可避の兵器。
「ククク……さすがの私も、自分の声に潰されてしまうところだったな。九十九パーセント、やはり負担は免れんか……ぐうッ」
爬苦俚は力を使い果たしたのか、元の人間サイズへと戻っていた。
胸を押さえながら、冷たい瞳で尚を見下ろし、それから窓の外へ顔を向けた。
「一番星……そんなものは存在しない」
暗闇の中に爬苦俚の声が響く。
夜空の満月は厚い雲の群れに隠れ、外は肌寒い風が吹き荒れていた。
元は共同の病室であった部屋には至る所に落書き、陥没、蜘蛛の巣が見られ、ベッドのいくつかは真っ二つに割れている。部屋同士を遮る壁には巨大な穴が空き、その向こうの部屋にも同じ穴、その向こうもまた、という風に棟の北端から南端までの部屋が一つに繋がっていた。
爬苦俚がいるのは南から数えて二番目の病室であった。風に合わせ、天井から骨が軋むような音が鳴る。
端の部屋で埃と瓦礫だらけの床に転がる尚と赤香を見て、爬苦俚は一切の抑揚がない声で言った。
「貴様が信ずるものなど、所詮は主観に塗れた幻覚に過ぎない。星などというものは我らにとって何ら意味を持たぬ、ただの光る点なのだからな」
だが、横たわる尚と赤香はその言葉に幻滅などしなかった。
なぜなら二人にはもう――音というものが知覚できなかったからだ。
爬苦俚はゆっくりと歩く。ペタ、ペタ、という足音とともに、大柄な影が穴をくぐる。そして彼はピクリとも動かない尚たちを見下ろし、流れるような動作で腕を振り上げた。
その時、雲の切れ間から星たちの明かりが壊れた窓を通って射し込んできた。
薄明かりがぼんやりと輪郭を浮かび上がらせる。
男は実に奇怪な、人間とは思えない恰好だった。そしてその振り上げた手には、血に濡れた十五センチほどの鋭い爪が備わっていた。
赤い異形の口が、その牙とともに闇に浮かぶ。
「では改めて、貴様らを殺そう」