★★★
★★★
八月五日午前零時。北緯四二.九二六〇八六・東経一四〇.四〇七三七一地点の手前に、飛白尚と笹呉赤香の二人は立っていた。
そこは札幌市から西へ約七十キロのところにある廃病院。周りは深い森林に囲まれている。道路に沿って四百メートルほど歩けば温泉街があり、その先はもう海である。
二人はその敷地内、門を抜けてすぐの場所にいた。大きな丸い月がすすけた外壁を照らし、森の奥からはフクロウの鳴き声が聞こえてくる。
尚は戦隊指定の黒いスーツジャケットの下に、ベルトを剥き出しで巻いていた。赤香はいつもの赤ジャージを着ている。北国のせいか、尚は肌が震えるのを感じた。
(いや、寒さっていうより……緊張か)
あるいは武者震いか。
かつて味わったことのない感覚に襲われ、ぞくぞくと爪先から背中にかけて鳥肌が立つ。
「大丈夫? なんか緊張してるっぽいけど」
「そういうお前こそ……」
赤香の顔色は夜にまぎれるかのように青白かった。
「と、とりあえず、こういうときは深呼吸だよ深呼吸! ほら、いくよアオくん!」
「お、おう! 深呼吸だな、深呼吸!」
わざわざ繰り返す間でもないことを繰り返す辺り、尚も十分アガっているようだ。
深く息を吸うと、二人はいまだ嗅いだことのない、透き通った空気が肺に満たされていくのを感じた。
それを何回か繰り返し、気持ちを正常へと戻した。
さて、北海道西部の海、という意味では犬捨島が見える町を思い浮かべてしまうが、犬捨島は積丹半島の北側、廃病院は南側となっていて、あまり近い距離とは言えない。
なぜわざわざこんな場所を指名してきたのか、と尚は疑問が呈したら
「アタシに分かるわけないじゃん」
と、考える間も置かずに赤香は返してきた。
「でもまあ、距離って話だと不思議なことがたくさんあるよね。ミミちゃんの話だと、犬捨島には人は近づかないんでしょ? だったらどうやって犬たちは海を渡って来たんだろうね。あんなにデカいのが犬かきして、北海道から本州まで移動するとなったら人目につかないなんて無理だと思うんだけど」
「それを言うなら、商店街に突然姿を現したことだって妙だろ。転送装置とかでも無い限り、あんなもんが誰にも怪しまれずに人間の街に忍び込めるはずがない。蝦……北海道から関東、九州なんて距離を移動するとなると、いくらわんわん団でも人目やスタッフに気づかれないようにするのは至難の業だろうぜ」
尚が腕を組んだその時
「オオオォーーン!」
と、月夜に似合う遠吠えが森の木々を揺らした。
咄嗟に身構えて声の主を探す。前にも右にも左にもいない。先に見つけたのは赤香の方だ。
「あれ!」指さしたのは病院の屋上。四つ足で、満月の光を一身に受けたシルエットは、人間並みの大きさの犬のようだった。
遠吠えの反響が次第に小さくなり、やがて森に吸い込まれてしまうと、シルエットは二本足で立ちあがった。遥か高み、三階建ての廃病院の上から、二人のちっぽけなヒーローを見下ろす影が、芝居がかったような喋り口で名乗りだす。
「私が爬苦俚獅子郎だ。その疑義やもっとも、貴様ら二人への挨拶代わりとして、私の方から答えを言ってあげよう」
「……事前に何度も聞いてたけど、てめえの口から聞かされてやっと確信したよ。爬苦俚獅子郎――ふざけた名前だ」
尚は吐き捨てるようにそう言った。
「……貴様が飛白尚だな、想像していた通りの人物像だ。……クックック、私はガキの悪口程度で怒りはしない。よゥく覚えておくことだな」
「……へえ」
両者の視線が夜空の下で激しくぶつかり合う。
「では、そんな子供たちの質問に答えてあげるとしようか。――まず、貴様らが盛大に勘違いしていることから教えよう。そもそも最初から『わんわん団』なる組織は存在しない」
赤香の目が大きく見開かれる。信じがたい事実に直面したように、口をぱくぱくと動かした。
「た、たしかに、『わんわん団』は戦隊側が付けた呼称だけど……そ、組織自体が無いわけじゃ」
「組織自体が無いのだよ。これはあの勇敢な小娘にも言ったことだが、犬らは犬ら自身の意志で人間を殺している。私が命令しているわけではないのだ。まあ、多少の手助けはしているがね」
「手助け、だと」
尚の眉がピクリと上がる。
「そうだ。人間を殺したい犬など山ほどいる……その中でも力のか弱い、愛玩用として生まれた犬たちなどに私が少々力を貸してあげるのさ。私がやるのはそれだけだ。ここまで聞けば、犬たちが神出鬼没なことについても分かったろう? すべて現地調達だからさ。私一人が出向き、殺意を抱く犬らと交渉し、時限式で発現する能力を分け与える。あとは家に帰り、仕掛けた監視カメラを使って彼らの復讐を見守ってあげる……クックック、私がやるのはそれだけだ!」
「ふざけるなッ!」激昂する尚。「『それだけ』だと……? 直接手を下さず、犬どもを焚きつけといて、今さら責任転嫁してんじゃねえよ」
「クックックック……そう聞こえてしまったか……。まあ私もここに来て言い訳などする気はない。どう言ったところで貴様らの意志は変わらぬだろう、私を殺すという意志は」
尚と赤香、二人は身じろぎせず、その瞳に静かな闘志を滾らせていた。
西から東へ、大きく風が吹き、雲が流れる。
「今宵は満月だ。本音を言うと、この麗しき月光の下で拳を交えたいものだが……野外ではいつ『わんわん団』が襲ってくるとも限らないだろ? それはフェアじゃない」
つい今しがた否定したその名を、爬苦俚は皮肉を込めて言ってきた。
尚は眼球だけを動かして周囲を見渡す。病院の敷地は道路に面した面を除いて、ほとんどが森に囲まれている。そしてこの深い闇の中では視覚・聴覚・嗅覚とも人間を数段上回る獣の方が圧倒的に有利であると、彼は知っていた。
「だから病院なのだよ。犬というものは嗅覚が敏感な分、薬品などの匂いが鼻についてしまうようでね、このような場所には近づけないのだ。そう、この病院内にいるのは正真正銘私一人――フェアにいこうじゃないか」
「今まで予告もなしに人間ぶっ殺してきたテメエが、よくもまあフェアだなんて口にできるもんだぜ」
尚は隣に立つ赤香を一瞥する。
「それにフェアがどうのって言うならよ、こっちは二人でテメエは一人だ。そのことはアンフェアじゃねえのか?」
「そういうものだろう『戦隊』というのは。むしろ他の二人がいないことが不満なくらいさ。――さあ、無駄話はこの辺にして、そろそろ中へ入りたまえ。フェアにやろうじゃないか」
それを聞いた尚の口角が不自然に持ち上がる。顎が震え、頬が痙攣しているようだ。
「ア、アオくん?」と赤香の怯えたような声。
爬苦俚獅子郎の挑発に対し、飛白尚は――キレかけていた。
どこからか泣いていたフクロウの鳴き声が唐突に止む。そして何かが羽ばたいていく音が聞こえた。
「……言うじゃあねえか。あとで泣きごと言っても聞いてやんねーぜ」
爬苦俚はくるりと満月の方へ向き、二度目の遠吠えをした。
それをある種の返答と聞いたのか、尚は大股歩きで廃病院の玄関へと直行する。赤香がその後ろを慌てて追いかけていった。
パタパタと廊下を駆ける音がして、尚の肩が何者かに掴まれた。
「アオくんっ! それじゃ相手の思うツボだよ! そういうのはむしろアタシがハマるポジションでしょ、キャラ的に!」
「キャラ的にって……」しかし、妙に納得してしまう尚だった。
尚は赤香の手を丁寧に外して、呆れたように言う。
「そりゃムカつくこと言われたらイラッとするし、挑発されたら怒るさ。でもそいつはあくまで気合入れの意味で、俺はちゃんと自分の感情は分かってるっつーの」
「えと……じゃあ」
「作戦を外れる行動はしない。頭の半分がキレちまっても、もう半分はいつでも冷静さ」
赤香はその場にへたり込みそうになって
「よかった~~」
おっと、と尚がジャージの袖を掴もうと手を伸ばす。
しかし尚の左手はあろうことか、赤香の襟を掴んでしまった。そのまま力に任せて引っ張ってしまったせいで……
「え?」「うわっ!」
二人の顔は息もかかるほどの至近距離に。
尚の左手は赤い襟を優しくつまみ、赤香の両手はは引き寄せられた弾みで尚の背中へと回っていた。
傍から見ると抱き合っているようにしか――いや、事実抱き合っているのだが――
「背中……案外大きいんだね」
ぽつりと赤香が言った。
その一言で、尚の頭が耳まで紅潮する。
「お前も、思ったよりデカいんだな……」
「…………なにが?」赤香は首を傾げ
一秒後、ぼんっ! と頭を噴火させ
その〇.五秒後
「お、乙女になんてこと言うのさ!」
と突き飛ばしていた。
尚が背中から転んだ先はちょうど階段で、後頭部をその角に思い切りぶつける。
「わああ! だだだ大丈夫アオくん!?」
「……一応な」いつか仕返してやる、と心に決めた尚だった。
そして二人は階段に腰をかけて、すぐ目の前へと差しかかった爬苦俚戦に備えて作戦を再確認し始める。
「――んで、そこをお前が」
「うん大丈夫。絶対にやってみせるから」
大きく頷いた赤香を見て、尚もまた「よし」と覚悟を決めた。
「じゃあ変身しよっか。アオくん、お願いします」
赤香は深々と頭を下げた。尚は拳を握りしめ、彼女の肩を見てふと気が付く。
初めて会った日、痛みを過剰に恐れていた赤香だったが、今の彼女に一切の震えはない。
恐れも緊張も武者震いもなく、腹をくくっている。それを見て尚は
(敵わねえな、こいつには)戦闘前だというのに敗北感のようなものを味わった。
「ああ、いくぜ……」
両手で赤香の上体をあげる。手は後ろに回し、目はしっかりと尚を見ている。
みぞおちの位置を確かめるように手で触ると、変に力んでいる様子もない。
まさにまな板の鯉。今まで彼女が見せたこともない、勇気ある無抵抗だった。
「……んっ」
そのせいか、くすぐったく感じているみたいだ。
尚は拳を固く握りしめ、少し息を吐くと……赤香の胸の下部分、人体の急所、鳩尾を目がけて寸分の狂いもなく打ち抜く!
「ん……が、ッは……う、くッううう……」
悶絶して倒れそうになる赤香を抱きかかえる。額には玉の汗が浮かんでいたが、涙や吐瀉物は出ていない。
直後、燃え盛る炎の輝き――『紅炎の赤』が彼女の全身を包んでいき、その体表が一瞬、太陽のように熱を持つのを尚は感じた。汗が蒸発する。
真っ暗な闇の通路が先まで明るくなり、その熱風で周囲の粉塵が焼失する。笹呉赤香――キズレッドを中心に円を描くかのように、廃病院の床が元の輝きを取り戻した。
そして徐々に実体を持っていく光のスーツは、彼女を足元から順に、そのテーマカラーに違わない立派な『赤』で覆っていく。ラインに沿って、女性らしい丸みが浮き出ていく。
心地よい匂いがした。どこかで嗅いだことのあるこの香りは……そうだ、朝に目覚めて、その日初めて窓を開けたときになだれ込んでくる太陽の匂いだと、尚は直感する。
真っ赤なスーツが首元まですっかり実体化すると、光の奔流は赤香の髪の毛一本一本へと沁み渡っていき、ツインテールを彩っていた栗色は鮮やかな赤毛へと移り変わった。
最後、その頭にすっぽりとヘルメットが被さる。これもうねる炎のような色調で、後ろの方に空いてる二つの穴からツインテールがぴょこんと顔を出した。
よく考えたら、こう落ち着いて変身姿を見るのはこれが初めてかもしれない、と尚は思った。
赤香は咳き込みながらよろよろと壁に寄りかかり、尚に礼を言った。
「にしても……今日のは前二回のよりずっと……すごかったよ」
そう言われても、何と返せばいいのか分からない尚だった。
「そしたら俺も変身しねえとな」
尚もまた、腰に巻いた青のベルトに手を伸ばす。
「変身!」
赤香とは対照的な、見る者の心を落ち着かせる深い蒼。光のうねりが院内の壁に映って、この場が海の底ではないかと錯覚させてしまうようだ。
他の戦隊メンバーと違って尚の場合、全身が青い光に包まれたかと思うと一瞬で鎧が装着されている。ただの青ではなく、青というには幾分か濃過ぎる蒼色。
全身に密着するタイプではなく、たくさんの大小さまざまな金属のパーツが繋ぎ合わさり、特に尚の膝、腰、胸、肩、そして頭部といった急所は硬く守られている。各部はそれぞれ魚の鱗やヒレの形をしており、爪先や指先、そして頭の両脇では角のように鋭利なものとなっていた。しかしここ数日の戦闘で薄く傷跡が付いており、ポメラニアン戦での後遺症により、右手の先だけは失われている。
(これが『青き鎧』なんだ……改めて見ると、確かにアタシたちのより強そう……)
ふむふむ、と感心する赤香に尚が一言。
「いいから準備しろ」
「あ……うんっ!」
こうして二人のヒーローは階段を上がり、三階――おそらく爬苦俚が待っている場所へと歩を進めた。
――そしてこれは、爬苦俚獅子郎と対峙する直前まで飛白尚がとっていた、とある通信ログである。
「思杏」
「……なあに尚くん」
「もしかしたら、これが最後の通信になるかもしれない」
「そっか。残念」
「帰れないかもしれない。スタミナ丼ぶり食えないかも」
「もう腐っちゃったよ。昨日まではあったけど、ゴキ湧いちゃう前に捨てちゃった」
「怪獣退治も、図書委員の仕事も、全部サボることになる。ごめん」
「一方は問題なし。もう一方は……せっかく本を読み返してた私への当てつけかな?」
「ごめん」
「そんなんじゃ足りないねー。土下座して踏まれてくんないと許せないレベルだよ。図書いい……ヒーローってのは責任が重要なんだから」
「あのさ思杏、これだけは聞いてほしいんだ」
「なあに尚くん?」
「別に俺、戦わなくなったわけじゃないから。ただ前までとは違う理由で、違う場所で、なんかよく分かんねーやつと戦うことになっただけ。ていうか、そいつと今から戦うとこ」
「ふーん。まあ頑張って」
「死ぬかも」
「このまま帰ってこれず、通信もできないんじゃ、尚くんが生きようが死のうがどっちでもいいよ」
「そんな言い方ないでしょ」
「好きにしなさい、っていう意味よ。鈍感だねー」
「……最後にさ、一つだけ教えてくれない?」
「なあに、尚くん?」
「『キーワード』……言うまでもなく、『青き鎧』に関するね」
「……本気?」
「命が懸かってるんだ。俺と……」
「彼女でもできた?」
「違う。ただの共闘相手。いいから教えてくれよ、百パーセント死ぬか、九十九パーセント死ぬかの違いなんだ」
「……後悔しても知らないんだからね。まったく、この年になっても問題児なんだから尚くんは――――『*******』――――言ったけど、絶対に使っちゃダメなんだからね。聞いてる尚くん? ……あれ? ちょっとねえ尚――」