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みぞおちヒーロー  作者: 藤本乗降
第三話(前) 豆どころじゃない柴犬
12/19

★★★

       ★★★


 岩場と岩場に挟まれた、島全体からすると猫の額ほどしかない小さな砂浜。

 ボートの先が乗り上げて揺れがおさまると、鳥海は浜へ降り立った。首筋から冷汗を垂らす髭モジャはボートから離れようとしなかったが、しばし唸ったあとで、鳥海の背後に立った。

 砂浜の境目からはカシワ林が茂っていて、海風を受けてざわざわと騒いでいた。その音はどこか不気味で、来るものを残らず拒否しているようにも聞こえた。

 その奥で、丸い二つの光が揺れた。近づいてくる。カシワの葉の隙間から太陽が照りつけ、その正体を緑色の闇に浮かび上がらせる。犬――何の変哲もない雑種犬だ。


「ヒッ!」


 大の大人である髭モジャは、そんな情けない声をあげて後ずさる。


「や、やっぱり引き返すんだ! やつが一吠えすると一気に仲間が集まってくるぞ、さあ早く!」


 言い終わらないうちに「わおおーん!」と遠吠えが響き渡る。髭モジャはボートに飛び乗ってエンジンの紐に手をかけた。


「何してんだ、早く!」


 林の奥から、岩場の陰から、ぞろぞろと犬たちが集まってくる。どれも鳥海の腰ほどの高さしかない、ごく一般的な雑種ばかりだが、その眼光は町外れで目にするものと明らかに違う色をしていた。屍肉を食らう、獣本来の目である。

 そんな何十もの視線を一身に浴びながらも、それでも鳥海は動じなかった。この程度で怯む覚悟なら、最初からこんな島には来ていないだろう。

 砂浜に、最初の一歩を踏みだす。


「お、おいおい!」


 髭モジャが鳥海のもとへ駆けようとボートから降りたとき、それまで沈黙していた犬たちが一斉に吠えたてた。


「うわああ!」と尻もちをつく髭モジャ。


 彼がボートに戻ると再び犬たちは口を閉じる。鳥海は一歩、また一歩とカシワ林に近づいていき、幾数もの鋭い眼光はその様子をただじっと観察していた。

 やがて砂浜と林の境目を超えたとき、尻尾のない一匹の犬が彼女の前に歩いてきた。そいつは鳥海を見上げると、小さく「おんっ」と催促するような声をあげた。


「おじさん……ありがとね」


「あ、ああ……」


「んーは、動物……嫌いじゃない」


「そうみたいだなァ」


「だいじょうぶ」


「そうみたい、だなァ……」髭モジャには苦笑いしかできなかった。

 鳥海は軽く手を上げると、尻尾の無い犬の後ろに付いて、闇の中へと姿を消した。



 木々の隙間を縫うような獣道を進んでいくと、五分も経たないうちに目的の場所が見えてきた。あちこちを蔦で覆われた立方体の建物である。蔦の緑と腐食の黒が壁中を這っているが、もとは染み一つない外壁だったのだろう、かすかに白い色が残っている。

 ここが敵のアジトだと事前に知っていたわけではないが、鳥海の十八番である第六感と、先導していた犬が立ち止まったことがその事実を告げていた。どうやら犬は建物の中に入るつもりはないらしく、入り口とみられる扉の前で『待て』をされたように動かなかった。


(ここに入れ、ってことか)


 鳥海はごくりと唾を飲み込み、錆びついた金色のノブを捻る。ぎいいい、と不吉な音を立てて扉は開かれ、土足のまま中へ踏み込んだ。

 正面には綿のはみ出た待ち合い席。すぐ横にはガラスの割れた受付らしき窓口。ムカデを乗せた大型テレビに、赤い十字マークが描かれた何年も前のカレンダー。この建物はどうやら元診療所のようだ。

 神経を張り巡らせながら、奥の『診察室』と書かれた部屋へ向かう。そこから特に、獣独特の臭みが漂っていたからだ。

 わんわん団のボスが、その中にいる……。

 この時点でなら、まだ引き返すという選択ができた。診療所から海岸まではさほど離れておらず、ボートのオヤジも遠くへ行ってはいない。大声をあげて逃げれば無傷で帰れる可能性は極めて高い。目標である敵状調査なら、この島と診療所を発見できた段階でほとんど成功と言ってもよいのだ。

 砂浜に着いたときから、鳥海という侵入者の存在は犬たちを通じて敵に知られている。ここで正面からその戸を開けるのは、わざわざドッグフードに志願するようなものだ。

 これが尚なら、大人しく引き返していただろう。

 だが鳥海は、それよりずっと大きな『役に立つ』という目的を胸に、板張りの戸を押した。


「これはこれは、遠いところからわざわざご苦労。はじめまして、私は爬苦俚はくり獅子郎ししろう――貴様らヒーローと敵対するものだ」


 低い、重量感のある壮年男性のような声色だ。

 回転いすに足を組んで座る影がひとつ、まっすぐ正面を向いていた。

 部屋に入るなりいきなり挨拶をしてきた爬苦俚と名乗るソレを見て、


「……なにもの?」と鳥海は問わざるをえなかった。


 目の前にいたのは、一見すると犬なのか人なのか判別できないモノだった。

 身体は頭から爪先まで、汚れ一つなき純白の体毛――いや、『着ぐるみ』に包まれている。これまで人を襲ってきた奴らほど規格外の大きさではなかったが、人間としては十分すぎるほどの巨躯だ。長い手足を見たところ、立てば二メートを超えるだろう。その先端も五指を露出しておらず、毛と肉球になっている。そして頭は、三角形に尖った耳と純粋無垢な瞳、小型犬としてナンバーワンのシェアを誇る犬種『チワワ』のものだった。

 爬苦俚は、ガラス製らしきつぶらな瞳から鳥海を舐めまわすように観察して、口の部分をまったく動かさずに言う。


「言った通りだ、私は爬苦俚獅子郎。貴様らが『わんわん団』と呼ぶ犬たちの創始者であり、創造主だ。……どれ、立ち話もなんだ、そこに座りたまえ」


 爬苦俚は丸い手で小さな丸椅子を指し、鳥海は言われるがまま腰を下ろした。


「さあ、私は名と素性を明かした。貴様もそうするがいい」


「……んーは………………ん……」


 元々口下手であるせいか、鳥海は俯き気味にボソボソと言うしかできなかった。目を逸らし、苦い顔をする。


(こんなんじゃ駄目……! 怖気づくな……!)


「はっはっは! なかなかユニークな自己紹介だな、キィズダラーの緑色――いや、戦隊『最強』を誇る女、月弓鳥海よ」


 そこまでバレているのか、と鳥海は心の中で舌打ちをした。グリアを中心とする戦隊の運営メンバーが尽力する秘密保持も、相手になっていないということか。


「して、こんなところまで何の用だ? まさか独りで海水浴に来たわけでもあるまい」


「……聞きたいことが、ある」


「諜報員ということだな。ふむ、それにしては警戒心が足りんな……いや、その余裕こそが『最強』たる由縁か? クククク、なら自慢の戦闘スキルを使って、この島を武力制圧するなり、私を拷問するなりして、情報なり死体なり好きなだけ持ち帰るがいい。安心したまえ、ここには五メートル級以上の犬は一匹も住んでおらんよ」


 爬苦俚は着ぐるみの下でそう笑うが、その言葉を真に受けるほど鳥海も馬鹿ではない。


「戦う気は、ない……」


 鳥海はウインドブレーカーのジッパーに手をかけた。爬苦俚の顔を睨んだまま、その手を一気にずり下ろす。


「……ほう」


 そこに現れたのは少女の白い柔肌と、それに似合わぬ無骨な黒い箱であった。ちょうどヘソ辺りに巻き付けられている箱からは電極付きのケーブルが何本か出ていて、それぞれ心臓と首元へ二か所ずつ伸びていた。


「んーは、戦わない……けど、死んだら……んーが、どかん」


「さっきから物騒な臭いがすると思えば、それが原因か。ククク、ますます面白い。……無論、貴様自身の意志で爆発させることもできるのだろう?」


 その通りだった。黒い箱の中にはグリアの改良したプラスチック爆弾が埋め込まれていて、その発火装置は鳥海の心臓が一定時間停止するか、本人の声で特定の数字コードを認識させたとき、あるいは強制的に体から外された場合に発動する仕組みとなっている。


(武器庫を開けたってバレたら、大目玉かな……)


 クックックック、と着ぐるみの下から笑い声が聞こえる。それはまるで「貴様にそのコードを口にする覚悟はあるのか?」と試しているかのように、鳥海には聞こえた。


「例のジャージは着ていないのだな。あえて戦う意志を持たず、抑止力をもって交渉に臨むその姿勢、他のヒーローにはないものだ」


「……こたえて……くれる?」ジッパーを上げる。


「いいだろう。私はそれしき爆薬で死にはしないが、この島はわりと気に入っているのでね、無粋な火薬で汚したくはない。さあ、言ってみたまえ」


「……んーは、何者? どういう、人?」


 はたして人間かどうかも定かではない相手は答える。


「なんとも大雑把な質問だなァ。それゆえ答えようがない。私は爬苦俚獅子郎だ、とだけ言っても貴様は納得しないのだろう?」


 鳥海は無言で返事する。


「しかしながら、私にはそうとしか言えないのだよ。……私を爬苦俚獅子郎だと証明する証拠は住民票にも、人の記憶にすらないのだから」


「どういう……こと?」


「個人を個人として決定づけるものを知ってるか? 月弓鳥海」


 唐突な問いかけに鳥海は面を食らった。ごくり、と唾を飲んで声を絞り出す。


「……誰か。ほかのひと」


「正解だよ。やはり貴様は賢明だな」


 褒められても嬉しくない、と鳥海は感じた。

 爬苦俚獅子郎には関係者がいない……いないというのは『すでに生きていない』という意味だろうか? それとも本当の意味で、最初から存在しない?

 そう尋ねようとしたところ、爬苦俚が先に口を出した。


「よって、名前以上に語ることなどない。この回答はこれにて終了だ」


「ま、待……」


「このまま続けても堂々巡りだぞ? 腹に爆弾を抱えたところで、回答に対する強制力にはなりえないのだからな」


 そんなことは鳥海にも分かっていた。これはあくまで殺されないための、あるいは人質にされないための保険でしかない。


「……んーはそもそも……人間、なの?」


 爬苦俚は沈黙し、天井を仰いだ。数秒間、着ぐるみの下から深い息遣いが聞こえた。


「『獣』だ」


「『獣』……喋る、のに?」


「ああ。むしろ私こそ聞きたいのだが、化け物じみた力を使う貴様らこそ、人間と呼んでもいいものか?」


「……それは」


 彼女の中にかつての記憶が甦ろうとした。それを慌てて振り払う。呼吸が荒くなっていた。


「ククク、そういうことだ。貴様らも私も、人間から見ればそう変わらんよ。いずれ貴様自身も知ることになるがな」


 爆弾という切り札を抱えながらも、鳥海はこの会談が自分にとって不利であると実感していた。わんわん団、獣の王とも言うべき爬苦俚獅子郎――彼の性格も、口調も、迫力も、すべてが想定を遥かに上回っていた。

 対して人間側代表、月弓鳥海はと言うと、いくら覚悟と勇気を持っていてもコミュニケーションスキルが上達しているわけではなかった。

 ペースが相手に掌握されている、もっと情報を集めなければならない。

 どんな挙動も見逃さない、彼女の能力を使って。


「……じゃあ、どこで……生まれたの?」「覚えておらんな」


「……何歳?」「それも知らぬ」


「……親は?」「いるならいると、先ほど述べていたさ」


「好きな……食べ物」「生きるための営みに好きも嫌いもない」


「け、血液型……」「分からん」


「特技、とか……」「だんだん面接じみてきたなァ。……ふむ、闘争だろうか。逆に苦手なのは頭を使うものだな。文才などは無きに等しい」


「……ここに来る前」「白神山地だ。だが調べたところで、何も出て来んぞ」


 着ぐるみの下に隠れる表情までは読めない。だが鳥海の超感覚は告げていた、爬苦俚の言動に嘘は無い、と。


「終りか?」爬苦俚は顎でうながす。


 ここまでに有益な情報は得られていない。

 次は鳥海にとっては最後の質問。そして彼女自身が最も聞きたいことでもあった。


「……なんで、んーは……んー達を、食べる、の?」


 答える前に、爬苦俚は含み笑いをした。


「食べる? それは違うな月弓鳥海。彼らはただ殺しているだけだ。あくまで殺す手段として咀嚼し、消化し、結果的に養分として摂取しているが、それは副次的なものだ。犬畜生だからといって、肉のことしか頭にないと思ったら大間違いなのだよ」


「じゃあ……なんで殺すの?」


「今言っただろう、殺すためさ――殺し自体を目的とする生物は人間だけだと思っているのか? 口うるさく『動物は食べるためにしか殺生をしない』などとほざく輩もいるが、それこそ人間本位の考えだと思わんかね? 実際には、食事と自己防衛以外の目的、つまり遊びで殺戮を行う動物は大勢いるというのに。私に言わせれば、動物愛好家なんぞは一人残らずおこがましい妄想に支配され、自分たち以下と断定したものを三大欲求の塊と決めつける自己本位な生き物だよ。その生き様は、奴らの言う『食うことと寝ることと子づくりしか考えない下等生物』よりもずっと醜い。動物は素晴らしいと口では言いながら、圧倒的上位から優越感に浸っていて、じつに不快だ…………まあもっとも人の世には、おこがましさで言えばずっと上、自らを『ヒーロー』だとのたまう、身の程知らずの女もいるようだがなァ」


 鳥海の眉がピクリと反応した。奥歯を噛みしめるが、表情の読めない爬苦俚を睨んでも仕方ないと思い直し、息を落ち着かせる。


「ただ殺すためだけなんて……信用、できない……。他に、目的がある……んじゃ?」


「私が嘘をついている、と言いたいのか?」


 ぞくり、と鳥海の背を悪寒が駆けのぼる。カエルを睨むヘビのように、射抜くような視線が着ぐるみから刺さる。

 だが爬苦俚の『凄み』は一瞬で毛の中に隠れ、もとの紳士的な口調に早変わりした。


「私は嘘など言わないさ。貴様らが蔑む獣にだって、それくらいの礼節はあるのだよ」


 笑いかけるような声音だったが、鳥海は脱力もできない。着ぐるみの奥に、得体の知れない何かを感じているから。その何かが鳥海を押さえつけて離さない。――いや、彼女を押さえつけるものはそれだけではなかった。

 自分は相手を知らないのに、相手は自分を知っているという事実。

 今まで訪れたこともない孤島。診療所の外から時折聞こえる獣の足音。

 なにより、近くに赤香がいないという孤立感。


(情報が少ないのは分かっていたけど、一人はやっぱり無謀……?)


 胸中に不安が堆積していく。


「聞きたいことはそれだけだな。では今度は私の番か」


 爬苦俚は足を組みかえてそう言う。


「え……?」


「おいおい、自分だけが質問できる立場だと勘違いするほど、貴様も子供ではないだろう?」


 その台詞一つで、鳥海は押し黙ってしまう。


「そうだな、今話したことと同じだけの価値がある情報となると……『青き鎧』について、知っていることを話してもらおうか」


「青き……鎧?」


 初めて耳にする単語だった。


「その様子だと、どうやら『鎧』については何も知らぬようだな……だが心当たりはあるのだろう? そんな目つきをしている」


 慌てて目を逸らすが、当然その行為に意味など無い。鳥海はしぶしぶと向き直り、しばらく間を置いてから答えた。


「飛白……尚……」


「飛白尚――それが『青き鎧』の持ち主なのだな?」


「分からない……そんなもの、んーは、知らない……」


 ただ、ここで一つ分かったのは、爬苦俚は最近現れた尚の情報までは調べきれていないということだった。どうして彼が尚に固執するのかは不明だが、爬苦俚も戦隊の全容を把握しているわけではないらしい。

 それに尚という異世界人については、鳥海達でさえ知らない部分が多い。本来この世界に存在するはずのないイレギュラーなのだから。


「飛白尚。飛白尚。飛白尚。飛白尚…………クククク……」


「それ以外……名前以外は、んーも、よく……」


「十分さ……クククククク……飛白尚、か。飛白尚。飛白尚。飛白尚。飛白尚。飛白――」


 爬苦俚は着ぐるみを小刻みに震わせ、その名を何度も何度も、壊れたラジオもように繰り返し呼んでいる。チワワの顔の下から、えも言われぬ不気味な笑いが恐怖を助長していき、鳥海は耐えきれずその場から立ち上がった。


「悪くない響きだ、飛白尚……『青き鎧』を纏う者……あの男の名が、カスリナオ……」


 爬苦俚がどんな顔をしているのか、読むことはできない。わずかな変化すら許さない犬の仮面は天井を向いて、恍惚とも言うべき溜め息が隙間から漏れた。


(こいつは、やばい、かも……)


 本能的に危機を察知した鳥海は、これ以上の対話よりも自分の安全を優先させた。

 彼女の目的は敵の殲滅ではない。敵の名前、行動目的、本拠地……これらの成果を持ち帰って、早く作戦を立てなくてはならない。


(『臭い』も覚えたし、これからは戦隊も『攻め』にまわれるはず……!)


 そう思って、後ろを向いた鳥海の背中に、爬苦俚が呼びかけた。


「月弓鳥海……貴様の瞳の奥、様々な色に隠れてはいるが、深き青色があった。この島の犬たちと同じ目だ。私はそのような目がたまらなく好きでね……どうだ、私の仲間に加わる気はないかね?」


 振り向く鳥海の網膜に、一人の着ぐるみ男が映る。

 動く様子はない。


「あいにく……んーには、んーより大事な、んー達がいるから」すり足をしながら。


「まあ待ちたまえ、聞き足りないことはまだあるだろう? その大事な仲間とやらに少しでも多くの情報を伝えてやるのが、貴様の勤めではないのか?」


 鳥海は不審に思いながらも、一番気になっていた疑問を口にした。


「その着ぐるみの、中身……どうなってるの?」


 答えは返ってこなかった。代わりに、ヒュウッという旋風が鳥海の頬をかすめる。


「――!」


 それを皮切りに、部屋の風向きが瞬間的に変わった。突風が診察室を吹き荒れ、落ち葉と埃を舞い上がらせる。

 外からの風ではない。髪が引っ張られる、部屋の中央、風の渦へと――。

 小台風の中心には爬苦俚がいた。着ぐるみの腹は張り裂けんばかりに膨張し、大きく開いた鼻腔には、土煙が渦を巻いて吸い込まれていく。足が滑る、ブラックホールと化した爬苦俚の方へ、体がどんどん引き寄せられていく。


「こ、この……!」


 なんとか手を伸ばし、診察室のドアを押した――が、何者かに押さえつけられているのか、ドアはびくともしない。


(や、やられた!)


 愕然とする鳥海が振り返ると、部屋いっぱいまで広がる巨大な風船――爬苦俚獅子郎の変貌した姿が。

 天井近くでチワワの顔が、ニッと笑みを浮かべたように見えた。


「は、はちさんきゅう――」


 鳥海が数字コードを言い終わらないうちに――

 大気の流れがピタリと静止し

 着ぐるみの下から、皮を引き裂いて真紅の大口が開かれた。



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