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「一番星……そんなものは存在しない」
暗闇の中に男の声が響く。
夜空の満月は厚い雲の群れに隠れ、外は肌寒い風が吹き荒れていた。
元は共同の病室であった部屋には至る所に落書き、陥没、蜘蛛の巣が見られ、ベッドのいくつかは真っ二つに割れている。部屋同士を遮る壁には巨大な穴が空き、その向こうの部屋にも同じ穴、その向こうもまた、という風に棟の北端から南端までの部屋が一つに繋がっていた。
男がいるのは南から数えて二番目の病室であった。風に合わせ、天井から骨が軋むような音が鳴る。
端の部屋で埃と瓦礫だらけの床に転がる二人の人間を見て、男は一切の抑揚がない声で言った。
「貴様が信ずるものなど、所詮は主観に塗れた幻覚に過ぎない。星などというものは我らにとって何ら意味を持たぬ、ただの光る点なのだからな」
だが、横たわる少年と少女はその言葉に幻滅などしなかった。
なぜなら二人にはもう――。
男はゆっくりと歩く。ペタ、ペタ、という足音とともに、大柄な影が穴をくぐる。そして彼はピクリとも動かない少年らを見下ろし、流れるような動作で腕を振り上げた。
その時、雲の切れ間から星たちの明かりが壊れた窓を通って射し込んできた。
薄明かりがぼんやりと輪郭を浮かび上がらせる。
男は実に奇怪な、人間とは思えない恰好だった。そしてその振り上げた手には、血に濡れた十五センチほどの鋭い爪が備わっていた。
赤い異形の口が、その牙とともに闇に浮かぶ。
「では改めて、貴様らを殺そう」
第一話 ミニチュアじゃないダックスフント
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七月第三月曜日といえば海の日であり、国民にとって貴重な休日である。
わざわざ海まで出向かなくとも、歓楽街では学生グループが人の迷惑も考えず歓声をあげ、駅前ではあふれんばかりの笑顔を咲かす親子連れが歩いていた。
そんな日の夕方、国民の多数が精神の休息を終えて、そろそろ明日のことを考えて憂鬱になってきた時。
飛白尚は一人、電車で帰路についている最中だった。
一人、である。車両内に彼以外の人影はなかった。それどころか、両隣の車両にさえ誰かが乗っている気配はない。
にも拘わらず、尚はそのことに疑問を覚えている様子はない。彼はひどく疲れ切った顔で、つまらなさそうに左手で携帯電話をいじっていた。右手は癖なのか、右の目尻にある傷跡を撫でるように掻いていた。夏だというのに厚手のパーカーを纏い、薄手の長そでシャツの裾からは引き締まった腕が見える。
「次は~待鳥~待鳥~。お出口は右側です」
このひどく殺風景な空間に、聞き慣れた車掌のアナウンスはどこかミスマッチだった。
尚はまだ携帯の画面を見つめている。そして、まだ時間はたっぷりあるなと思い、咳をして声を整えてから、意を決して番号をプッシュした。
三回のコール音が鳴り
「お疲れ、尚くん」
挨拶もなしに労いの言葉をかけたのは、尚と同じ十代半ばぐらいの女性の声だった。
「お疲れ様、思杏。今日の晩飯なに?」
尚は乗車中のマナーなど気にすることなく、疲労混じりの声をなんとか張っていた。
「スタミナ回復、滋養強壮、ニンニク&オクラ入りの特製豚バラ丼だよ」
「いいね、楽しみにしとく」
「しとけしとけぃ、私の名誉に賭けて失望なんてさせないからさ。……てか、今どこにいるの?」
「もうすぐ待鳥」
「なら、こっちに着くのは七時ってとこか。寝たら? 今日キツかったでしょ」
「うん。どうせ終点まで乗るんだし、ちょっくら寝ることにするよ」
「そうしなそうしな。それにこっち方面の電車なんだから、横になっても迷惑じゃないでしょ」
隣車線を電車が通り抜けた。ごうんごうん、と空気が唸るように揺れて、尚は細い目でその中に疎らな人影がいるのを確認した。
「あ、寝る前にさぁ尚くん。明日図書委員あるでしょ、レポート書いた?」
「……なんか一冊読んで感想書けってやつ? やってるわけないじゃん」
「だろーねー。ちなみに題材は決まってるの?」
「一応ね。狼に育てられた女の子の話」
「あー、それ聞いたことある。たしかガセなんじゃなかったっけ?」
「え、そうなの?」
「詳しくは分かんないけどね。――あ、もしかして机の上に置いてあるこの本?」
「そう。……それでさぁ、悪いんだけど……なんかテキトーに書いといてくれないか? 俺もうヘトヘトで」
「こーらっ。仮にも年上に向かってそんな頼み方しないの!」
頼み方の問題なんだ……と尚は苦笑いした。向かいの窓に映った尚の顔も笑う。夕暮れのせいか、窓の中の方が明るい表情をしているように見えた。
「ちなみにお風呂の誘いはどんな頼み方でもオッケー☆」誰もそんなことは訊いていない。
「そんな真似しないって」
「今なら期間限定無料サービスで、お背中お流しいたしますよー?」
「ねえ聞いてる?」
「まあまあ、たまには家族水入らずでさあ」
「姉と弟じゃないんだから」
「あなた、お風呂にする? シャワーにする? それとも――」
「カップルでもないっての」夕日が尚の顔を染める。
「それとも、た・き・ぎょ・う?」
「僧侶でもねえよ!」
「あはははは! どう今の?」
「……つまんない」
「えー! そんなぁ、尚くんキビシ~」
そのとき、ブレーキ音が寂しげな車内に響き渡り、アナウンスが鳴って電車は停車した。尚の上体がガクンと傾く。降りる人も乗ってくる人もおらず、相変わらず車内は一人だった。
乗降口は呆けた老人の口のように開いていて、やがてアナウンスとともに再び閉じられた。
会話は中断され、少し気まずい間が空いてしまった。
「……そういや疲れてるんだったね。帰るまでに少しでも休んどきなよ」
「え! いや、でも」
「じゃねー」
静止の言葉も聞かず、電話は切れた。尚は捨てられた子犬の表情を浮かべた。
……ったく人の気も知らないで。
尚はそう思い、携帯を乱暴にポケットに入れてから座席に横になって、そして数秒後には泥のように眠っていた。
……火が見える。
高層ビルのフロア、デスクや観葉植物が炎の塊となり、歪曲する光と朦朧とする意識の中で、ビルの柱が崩れゆく音が響いている。表面が溶けかけた窓の外からは判別できない叫びがひっきりなしに聞こえてくる。
頬にツツゥ、と何かが垂れてきているのが分かった。
右側の視界だけが黒い。自分の鼻の左側だけが見える。
赤と黒を明滅させる眼球が捉えたのは、一人の少女の死体。胸元からは、周囲のどの炎よりも鮮やかで熱い血流が、泡を立てて蒸発していく。
目を逸らそうとした、しかしどうしてか、眼球は少女に釘付けとなって動かない。瞬きもせず、足も動かさず、ただ視界だけが少女の体をクローズアップしていく。
音も、臭いも、温度も感じなくなっている。まるで元より存在しなかったかのように。
時が止まった世界の中、少女の体だけがそこに存在している。
それを見て
それを見て、尚は――
「――っは!」
電車での睡眠というものは自宅でのとは違い、プツンと糸が切れるように覚醒するものだ。
大きなサイレンのようなものが鳴った気がして尚は目を覚ました。閉じていた目はぱっと開かれ、反射的にビクンと筋肉を震わせる。
キョロキョロと辺りを見回し、そこがさっきまで自分が乗っていた車両であるのを確かめる。太陽は背後からわずかに紫の光を漏らすだけで、ドアからは夏特有の熱気に満ちた風が流れ込んできていた。
「やっと終点か……」
やっと、とは言っても眠っていた尚に時間の感覚などなく、これは憶測から出た言葉だった。
軽くストレッチをしながらホームに降り立つと、案の定人の気配はなかった。電車が完全に停車し、アナウンスが鳴り終えると、人の言葉がピタリと聞こえなくなる。
(……おかしい)
尚にはあまりにも静かすぎるように感じられた。駅裏から度々聞こえる恫喝や狂ったような笑いが、この日はカラスの声に取って代わられていたのだ。だけどまあ、それらの雑多な音は無垢な動物にかき消されて上等だ、と尚は思い、もう一度大きく伸びをした。
それにしても暑い……。尻のポケットから財布を出し、コーラでも買おうと自販機に二百円玉を投入する。チャリィン。
その金属音はある種の風鈴にも聞こえ清涼感を与えてくれる。尚は疲労と熱気を少しでも鎮めるためにボタンを――
「あ?」――ボタンは何の反応も示さなかった。
試しにもう一度押してみる。……反応なし。
押す。……反応なし。
押す。押す。押す。反応なし。反応なし。反応なし。
「てっめえ、このやろおぉぉお!」
煙が出るほどのプッシュ攻撃に、自動販売機必死で耐える!
(いや耐えるなよ! 何がお前をそこまでさせてるんだよ!)
心の中でツッコミを入れながら、息を荒げていく尚。
いったん落ち着き、財布を確認する。残る小銭は十円玉一枚。ダメだ、戦力にならない。
札入れには五百円札二枚と千円札が三枚。
これは……賭けだ。尚はホームに鎮座する自販機を睨む。
「野郎……俺に喧嘩売るとどうなるか、思い知らせてやるよ……!」
そう言って中指を天に突き立てた。
三分後。
「うわああああああ!」
自販機相手に泣き崩れる十代半ばの男子高校生。飛白尚、文字通りの完敗であった。
開戦当初から微動だにしない自販機は、心なしか勝ち誇っているように見える。
「手も足もない相手に手も足も出せず負けた……。こんなのってねえよ……あんまりだ……」
バトルによってシャツは幾分か重くなっていた。額にも汗が浮かんでいる。
尚は重い足取りで改札まで行き、沈没寸前のテンションをなんとか切り替えることにした。
そう、喉は渇いたし肩も凝ってるけど、俺には家があるじゃないか! この世で唯一リラックスできる安息の場所! 宇内園思杏が待っているマイホームが!
「今日は確か豚肉だったっけ……腹ごなしもいいけど、気分的にはそれよりも風呂に入りたいよなぁ」
その独り言に、電話でした会話を思い出す。風呂。そういえば昔一度だけ思杏と一緒に……。
何を回想したのか、頭ブンブン振る尚。俺は疲れてるんだ、さっさと帰ろうと、尚は歩くペースを速めた。だが――。
「………………どこだ、ここ?」
駅から出た尚を待ち受けていたのは、今まで見たこともない景色だった。
入り口から一直線に大通りが敷かれ、ケヤキと思われる木々が物言わず佇んでいる。通りからは細い道路が蜘蛛の足のように伸び、ビジネスホテルや年季の入った居酒屋たちが窺えた。すぐ左を見るとコンビニの明かりが見えたが、赤い蛍光色は尚の知らないチェーンのようだった。
知らない道路。知らない並木道。知らない店の看板。
そしてここもまた、人々の息遣いは感じられない。尚は目の前の現実に対し、大きく狼狽していた。
「お、降りる駅間違ったか? いやでも終点だろ? まさか逆に折り返していったとか? だけどそれにしては時間は経ってねえし……。ていうか、なんで街にまで人がいないんだよ!」
頭を抱えて混乱する尚。無意識のうちにか目尻の傷を強く擦っている。
(おかしい。いくら何でも変だ。まだ夢を見てんのか?)
しかし肌は、夏風が夜の湿り気を帯びていくのをはっきり感じていた。少なくとも尚は、ここまでリアルな夢は見たことがない。
頭を悩ませたまま、尚はあることを確認するために駅へと引き返す。恐怖と不安に襲われた足取りは速く、疲れなんてどこかに消え去っていた。
そして、すぐにそれを発見した。発見してしまった。心のどこかで予感していたことが的中し、思わず膝を落とす。
「う、嘘、だろ……?」
切符売り場にある路線図には尚の住む町の名前も、あの待鳥駅の名前すら存在しなかった。
それだけならまだ何とか正気を保てたものの――まるで駄目押しとでも言うかのような情報が、もう一つ。
路線の名前は違うが、経路図の形は尚が知っているものと丸っきり同じだったのだ。
――パラレルワールド。
それは平行する別世界、別宇宙で、それら全てはあらゆる可能性を網羅していると言う。
もしもあの時こうしていれば――。もしもあの時こちら側を選んでいれば――。
そんな妄想を具現化した世界もどこかに存在し、我々の想像を遥かに超えた次元で無限の自分が今、この時を生きている。
同じようで異なる世界。似た者同士の隣り合う世界。特別SF好きでもない尚だって、このくらいは知っていた。知っていたからこそ「んなの絶対ありえねえ」と文句を言えるのだった。
日は沈みかけで、街を照らす多くの光は店やホテル、会社ビル、マンション等から漏れる照明だった。そのいずれも尚が知らない名前で、入ろうにも店員や受付の姿はなかった。
「どういうことだ、これは?」
そんな台詞も何度目か、言う度に歯がゆい気持ちが強まっていく。
ふと、右手に一軒のコンビニが見えた。駅の傍にあったのと同じ、赤いテーマカラーの店だ。そこも例外ではなく、店員の姿はない。
しかし、店の奥の方、陳列棚の向こうから何か声が聞こえる。あまり聞きとれないが、やけに汚い笑い声をあげる、二十代かそこらの男達らしかった。ほ、と安堵する。
よかった、第三次世界大戦で人類が絶滅したとか、そういうのじゃなかったのか……。
胸を撫で下ろし、道路を挟んだコンビニへ行こうと足を踏みだしたその時――
「そ、そ、そこの人ぉーー!」
「え?」
声のした方を振り向くと、何故かこちらに全力疾走してくる女の子がいた。
尚の来たところとは別の方向から、こちらに手を振ってドドドドォ! と土煙を上げて向かってくる。
ラビットスタイルというのか、隆起する形のツインテールを揺らし、お世辞にもお洒落とは言い難い赤ジャージを纏った彼女は予想よりもずっと早く近づいてきていて
「ちょ、ちょっと待っ……うおおっ!?」
疲労困憊の尚に突進する形で、止まった。
いや、正確には止まったというより押し倒したと言う方が正しい。
アスファルトに思い切り後頭部をぶつける。シャツが破れる音がして、一瞬だけ意識が遠くなった。
「ご、ごめん、ぶつかる気はなかったんだ! あとでいくらでも謝る! だから起きてアタシの話を聞いて!」
意識を呼び起こすのは彼女の声。定まらない視界でなんとかピントを合わせると、ツインテールがよく似合う童顔が見下ろしていた。ちょうどヘソの辺りに少女が座る形で。
大きな瞳に、林檎のように赤い頬。慌てた様子で言葉を繰り出す口も赤く、そこから覗く歯並びは丁寧に整っていた。美少女……という言葉は似つかわしくない、だが小動物のような愛くるしさを持つ顔である。
ジャージで体型はよく分からないが、中学生か? いや、小学生ということも……と考えた時点で、それを改める。服の上からでもはっきり分かるその胸は、十二やそこらのもんじゃない。発育が良いにも程がある。
その後ろには低い月が見える。まん丸い満月と彼女の顔はどことなく似ていた。
「話って……俺の方も聞きたいことあるんだけど」
「ごめんそっちは後回しで!」
パラレルワールドに迷い込んだことを後回しにされた!
これで下らない内容だったらぶっ飛ばす、マジで――と尚は拳を握りしめる。
電車を降りてからの混乱で尚のストレスは極限まで高まっていた。こめかみに青筋を立てたまま無言で了解すると、少女は大声で言った。
「アタシのみぞおちを殴って! できるだけ思いっ切り!」
風の音。
コンビニから聞こえる馬鹿笑い。
その二つ以外の音が世界から消失したんじゃないかと思うほどの沈黙が流れ、そして
「はああっ!?」