とあるSF作家の虚構的日常
樺沢漆はSF作家である。世に名の売れた作家というわけではなく、一部の小説マニアだけが知っている雑誌に細々と連載している、重箱の隅でホコリを被ったような作家であった。
リクライニングチェアの振動で目が覚めた樺沢は、自分が机に向かったまま眠っていたことに気づいた。
「しまった……」
今夜は雑誌の編集と打ち合わせの予定だが、少しもネタが思いつかないまま眠ってしまったらしい。慌てて樺沢は時計を確認する。午前9時過ぎ。まだ余裕があることに安堵しつつ、彼は着替えてリビングに向かった。
「おはよう、漆」
「おはよう、ウル」
リビングには、ウルと呼ばれたヒューマノイドロボットがいた。
「コーヒーかな?」
「うん、頼む」
ウルは人工さを感じさせないスムースな動きで棚からインスタント・コーヒーを取り、カップを用意する。樺沢は椅子に座ると、ぼぅっとしたように壁を見つめていた。まだ少し眠気が残っているらしい。
「今日は早いね」
「ああ、そうだね。仮眠のつもりが本眠になったらしい」
「疲れているんだと思う。睡眠の周期が少し長かったから」
ウルはコーヒーカップを樺沢の右側に置くと、そのまま周りこんで肩を揉み始める。
「ああ、そこそこ。良い感じ……」
「やっぱり肩が凝ってるね。無理してる?」
「無理しているつもりはないよ」
「朝食は?」
「食べよう。僕も手伝う」
樺沢はコーヒーを一口飲んで立ち上がると、キッチンに入り冷蔵庫を開ける。
「何を?」
「ハムエッグとサラダを作ろう。君はサラダね」
「分かった」
数分後、樺沢とウルは一緒に朝食を作り終えた。樺沢はテレビを見ながら食事を始め、ウルは椅子に座り省電モードになった。
「今日中に小説のネタを思いつかないといけないんだよ……」
パンを齧りながら、樺沢はウルに話しかける。
「人間だと思ったら、実はロボットでしたという話はどう?」
「君、そのパターン好きだね。何番煎じだと思う?」
「お気に入りだから」
ウルは軽く口角を上げる。
「それ以外で何かない?」
「ニュースは?」
「今、見ているけど、どれも日常の域を出ないよ」
視線をテレビに移すと、人格をトレースしたロボットが本体を殺す事件が報道されていた。
「ほらね。これで何件目? この事件」
「四十二件目だね。今年だけで」
「理由も《生きている体が恥ずかしい》っていう、馬鹿みたいな理由だしね。端役ならともかく、少なくとも主役に据える話じゃないよ」
「そう」
それきりウルは黙ってしまった。多分、ネタになるような逸話を漁っているのだろう。
ニュースではiPS細胞で作られた食料の話をしていた。更に効率よく食料が生産できるようになったらしい。
「ウル。この肉は養殖だよね」
ハムの味を確かめつつ、樺沢はウルに話を振る。
「違うよ。iPS」
「あれ、そうなんだ。結構おいしくなったもんだね」
「嘘。実は養殖でした」
「……意味のない嘘つくの、止めない?」
「嘘しかつかないロボットなんて、どう?」
「それは本当しか言えないに等しい。ネタにはならないな」
「残念。でも漆。養殖もiPSも味は変わらないのよ。成分が同じだから」
「成分は変わらなくとも、気分は変わる。気分次第で味は変わる。よって味は変わる」
「不便な体ね。訊かないほうが良かったんじゃない?」
「疑問をそのままにして食べる方が味が悪くなる」
樺沢はそう言って、サラダにフォークを伸ばす。
「ああ、そうそう。レタスは人工培養のものよ」
途端に、樺沢の動きがピタリと止まった。
「言わないほうが、良かったかしら?」
ウルはくすくす笑い、
「……」
今度は樺沢が黙り込んだ。電源を落としてやろうかと思ったが、そう思うだけで樺沢は行動に移さなかった。
ニュースはスポーツの話が中心で、ネタになるような面白い話は殆ど無かった。強いて言えば、新しい素粒子モデルが開発されたようだが、これで三十七回目の更新と謳っていたのでセンセーショナルとは言えない。
樺沢は溜息を吐いて、コーヒーを飲み干すと
「午前中は入らないでね」
とウルに一声かけて、自室に戻った。
サラダは残さず食べられていた。
樺沢は午前中いっぱいをかけて、過去のネタ帳を漁り、机をひっくり返し、書棚の本を眺め、友人に尋ね回り、気分転換に筋トレして、ネットの海に潜り、座禅を組んで、ネタが浮かぶのを待ったが、一向にそれらしい気配はなかった。
「漆、入るよ」
それ故、ウルが部屋に入ったとき、彼は半裸で座禅を組んでいるところであった。
「あれ、ウル、どうした?」
「昼食をどうするか訊きに来たんだけど……。なぜ裸?」
「ああ、筋トレしたら少し暑くなってしまってね。うん、食べよう。おにぎりが良いな。シャワー浴びてから食べるよ」
「分かった。掃除は?」
「ああ、頼む」
「お任せを」
樺沢は散らかした部屋を後にし、バスルームに入った。シャワーを浴びながら小説のネタを考えるが、やはりどうしても思いつかない。体を拭いて、ウルが用意した着替えを着ると、彼はリビングに向かった。
テーブルにはおにぎり二つと沢庵、味噌汁が置いてあったが、ウルの姿は見えない。部屋の掃除をしているのだろうか。樺沢はそれらを頬張りながら、脳内通信でウルを呼び出す。
「はい、こちらウル」
「食事が済んだら、ネタ探しにちょっと出てくるから」
「帰宅は?」
「夕飯前には戻るよ」
「らじゃあ」
通信を切って、樺沢は昼食を平らげる。時計を見ると、午後一時だった。まだ時間はあるが、帰宅するまでにネタのヒントだけでも掴んでいないとまずいだろう。絶対に見つけなくては……。
そう思って玄関の扉を開けると、ワニメデ星人の子供が立っていた。
「`#”$”%#”」
「え?」
なんと言ったのだろう。聞き取れなかった。
「`#”$”%#”」
「ごめん、ちょっと待って」
手振りでそれを伝えると、脳内メニューで言語を可視化に設定し、ついでに再びウルと通信を繋ぐ。
「いいよ。何?」
「おじさん、隆君いますか?」
隆は、今年八歳になる樺沢の息子だ。
「いや、いないよ。君、隆の友達?」
「うん。地球名は、太郎って言うの。今日、隆君と遊ぶ約束してて、ここにいるって言ってたから……」
「そう。ちょっと待ってね、場所検索するから……。ああ、今こっちに向かっているね。いいよ、太郎君。家で待ってなさい。もうすぐ隆も来るよ」
「ありがとーございます」
「後はお任せを」
気がつくと、すぐ後ろにウルが立っていた。
「うん、任せた」
「いってらっしゃいませ」
他人行儀にウルは挨拶し、樺沢は少しでも小説のネタになりそうなものを求めて、街へと出かけるのであった。
「さてと、どこに向かうか……」
思案しながら樺沢はクロスバイクにまたがり、街へとくりだす。とりあえず目的地を近くの公園に定め、彼はペダルに力を込める。視界は軽やかに加速し、運動と景色の淡い刺激が脳内へと伝わる。それがトリガーとなり、次々と意識を思考が巡る。
(うん、良い感じだ……)
ギアを一つ上げて、さらに速度は加速する。思考も一緒に加速するようで、彼はサイクリングが好きだった。
目の前に交差点があったが、迷わず彼はそこを突っ切る。すぐ横に自動車が迫っていたが、接触しないことは分かりきっていた。
駐輪場にクロスバイクを留め、彼は公園のベンチに座った。公園では多くの人が思い思いに時間を過ごしていた。自前のロボットを戦わせて遊ぶ子供たち、ロボットスーツを着て楽器を鳴らし即興で曲を創る若人、感覚リンクしてスポーツに興じる青年やオバサンやロボット連中、池の上を歩きながら自由に語らう恋人たち。
そこには、普通の光景しか転がっていなかった。
「うーん、もちっと非日常的な景色はないもんかねぇ」
掃除ロボットがくれたジュースを飲みつつ、樺沢は呟く。というか、非日常を求めて公園に来たこと自体が失敗だったことに、遅ればせながら樺沢は気づいた。
仕方ない、場所を移そう。
そう思ってジュースを飲み干し、カップを掃除ロボットに渡して、樺沢は駐輪場に戻った。クロスバイクを引き出し、どこへ行こうか考えながらそれを押し歩いてていると、一抹の悲鳴が聞こえた。
声の方向を見ると、複数の掃除ロボットが人間に集っているのが分かった。その中心で、金髪の青年が黒光りするナイフを振りかざしていることも。青年の近くには女性が一人いる。悲鳴は彼女のものだろう。
「やめて下さい。あなた、自分が何してるのか分かってるんですか?」
「分かってるんですか? 分かってるんですか、だって? ぎゃっはははは!」
金髪の青年は唐突に笑い出した。
「分かってないわけねえだろうが! 分かってないほうが問題だろうが! そして何より、分かってない奴を野放しにしている社会は大問題だろうが! ええ、ええ、もちろん、ちゃーんと俺は理解してますよ。俺は今、皮膚がスパスパ良く切れる鋭利なナイフを、ただこの道を歩いていただけの不運で幼気な女性に向けているんですぅ。状況も理解できない子供と一緒にしないで下さいー。ぎゃっはははは!」
掃除ロボットは《警告! 警告!》と信号を発しながら、青年の周りをちょろちょろと動き回っている。しかし、青年はそんなことは意に介さずにナイフを手の内で弄んでいた。
「……。今ならまだ引き返せますよ。こんなことはやめて下さい」
「やめる? 何をやめるってんだい? 言っただろう? 理解してるってよ。後先考えず感情をぶつけ合う豚共と一緒にすんなよ。後先考えて同情心を媚びる小動物と一様にすんなよ。俺は人間だぜ? 人間様だぜ? ロボット様とは言わねーけどよ、ちゃんとした脳みそ持ってんだから、そこんところはきっちり認識しておいて欲し―ぜ。淋しくなるだろ?」
「……」
「そうそう、そうだよ。黙りこむのが正解だ。言っても聞かねえ馬鹿には黙るのが正解だし、言っても効かねえ天才は放っておくのが正論だ。今はそれが許される世界だし、だからちょっくら試してみたくなったんじゃねえか。百聞は一見に如かず、されど百見は一考に如かず、それ故百考は一行に如かず。良いねえ言いねえ、ラッキーだねえ。そこのお前、奥にいる見物人! お前が一番幸運だ!」
金髪の青年はナイフで樺沢は指す。
「間近で見るのは初めてだろう? 俺様だって初めてだからな。それでは特と御覧じろう。これがこの街の姿である!」
青年はナイフを振りかぶり、全速力で女性に向かって突進した。それはまさに全身全霊の特攻であり、いくらクロスバイクとはいえ跨ってすらいない樺沢が止められるほどの時間は無かった。
女性はその気勢に思わず目をつぶり、ハンドバックを体前に身構える。
しかし、青年のナイフは女性に届かず、彼の体はその手前およそ一メートル、一足一刀の間合いで停止していた。
街中に配置された噴射孔から紐状の粘着ゴムが飛び出し、彼の体に絡み付いたのだ。
青年は一歩はおろか、一指すら動けなくなっていた。
「うおー。全ッ然、動かせねー。まだゴムが若干、暖かいぜ、っははは、気持ち悪いー」
青年は相変わらず笑顔のままで固まっていた。女性は身を翻して樺沢の脇を走り抜けると、そのままどこかへ行ってしまった。
「何でこんなことしたの?」
樺沢は青年に歩み寄って尋ねた。
「おお、幸運なる通行人。気分はどうだ? 最高だろ?」
「いや、そうでもないけど。思ったことが思った通りになっただけだし。長いスパンで見ると、今は最低の部類に入るしね」
ネタが思いつかなくて。
「なんだよ、連れねえなぁ。俺は最高だけどな。思ったことが思った通りになってよ」
ぎゃははと青年は笑った。
「何でこんなことしたの?」
「さっき言ったろ? 幼気な女性をナイフで殺そうとしたらどうなるか、試してみただけだよ」
「無理だって分かってたろ?」
「分かってたよ。だから、そうなるか試したんじゃないか」
「理解できないね」
「そりゃあ、そうだろうな。俺みたいな奴を百人が百人理解できたんなら、そんな世界はとっくに破滅を迎えてるぜ」
嘲る青年を、樺沢は軽く睨む。
「……そうさなぁ。他に理由を挙げるんなら、刑務所に入ってみたかったんだ」
「それだけ?」
「それだけ」
「ふうん。分かった。ありがと」
樺沢は礼を言ってクロスバイクのところまで戻ると、それを押し歩きつつ青年の横を通り過ぎた。彼はまだ笑顔であった。
青年が刑務所に入りたくて女性をナイフで襲う。結果、街の防衛機能に阻まれ、彼は刑務所に入る。
うーん、SFとしての面白みはどこにもないな。
彼は溜息を吐いて、クロスバイクに跨る。背後では金髪の青年が雁字搦めのまま、警備ロボットの手でトラックに積み込まれていた。
時刻は午後三時を回ろうとしていた。樺沢は街の中央ホールにある《宇宙の水槽》を眺めていた。《宇宙の水槽》は実世界に忠実な宇宙のモデルであり、世界の動向を予測するために使われていた。
「やあ漆。またネタをパクリに来たのかい?」
大柄のアロハシャツを来た男が樺沢に話しかけてきた。
「ああ、今日はアランが当番の日か。違うよ。参考に来たんだ。けれど、《宇宙の水槽》は壊れてるのか? さっきから全然動かないんだけど」
アランと呼ばれた男性は快活に笑いながら肩を竦める。
「アハハ、それはそうさ。なんたって、この水槽はさっき洗い流したばかりだからね。たった今、再起動をかけたところさ」
「え、本当に? 間が悪いな。どうした? また、太陽に飲み込まれたか?」
「いや、資源の使いすぎだ。小人ら、新資源が採れなくなって、過去に使った資源を再利用し始めたんだけどな、それが遅すぎたんだ。資源の再利用技術が未熟だったせいで、再利用するほうがコストが高くついてんだよ」
「ああ、やってしまったね。それで?」
「そっからはいつも通りさ。残った資源の奪い合い。拡大する戦争と、衰退する技術と文明。挙句の果てに水が飲めなくなってな、絶滅したよ。ペットボトルより大きい生物は」
「何だ。宇宙戦争の時代まで伸びなかったのか」
「そうだな。そこまで伸びてれば、まだ残す余地があったかもしれんが、どちらにせよ無理だっただろうな、この水槽は」
「それで? この水槽はどうなるの?」
樺沢は水槽に視線を移して言う。
「新しい世界が容れられるな。とりあえず、資源再利用技術が必要だという知識のパラメータは少し高くなる。が、それでも要因によっては同じ道を辿る。会議するだけで行動に移さなかったり、その場凌ぎの分野に金を注ぎ込んだりしてな。大抵、問題が表面化するときには世界は終わってる。そんなもんだ、俺らが住んでる世界は、ハハハ」
アランは腹を抱えて笑うが、何がそんなにおかしいか樺沢には分からなかった。
「まあね。じゃあ、この水槽は暫く待ちか。他の水槽は? 何か小説のネタになりそうなの、ある?」
《宇宙の水槽》は世界の至る所、特に研究機関には多く備わっているし、そちらのほうが精度も高い。こんな街のホールにあるようなものは、おもちゃに近い。
「うーん、そんなネタになるような大きな変化は無いな。家族や一族のようなクラスタが残ってるケースはままあるけど、ネタにならんでしょ? 絶滅エンドは戦争以外にロボットや宇宙人、細菌とかによる人間支配と、後は天変地異ぐらいかな。ああ、特異的な天変地異で、働かなくても良くなった世界ならあるぞ?」
「それは僕達も一緒だろ。最低限の生活は保証されてる」
「まあな。そっから自分に付加価値をつけるために、俺は漆の相手をしているわけだが」
首から提げた学芸員のネームカードをアランは弄る。
「そして、僕は小説を書いている。あまり受けてはいないけどね」
「ハハハ、違いない」
またもアランは腹を抱えて笑い出す。まあ、読んでくれているだけで有難いから紳士的な僕としては腹を立てたりはしないが、面と向かった笑われると少々気分が悪い。少しぐらい殴っても問題無いだろう。
そう思って拳を振り上げるが、アラン左手でそれを制して、右手の人差し指を自分の口に当てる。
「ん? ……何だ?」
指を三本突き立ててスリーピース。アランはその指を一本ずつ折っていく。
三、二、一、……零。
ぐらり、と軽い振動が建物全体を襲う。揺れはすぐに治まった。
「なんだ、地震予報が出てたのか」
「ここらだと震度五。マグニチュードは5.5だな」
「チェックしているのか? 豆だな」
「これでも学芸員だからな。震源地の特定だけなら予報を見なくても揺れの方向だけでできるぜ。小説のネタにならん?」
「その特技を使って世界を救えるのなら書いてもいいよ」
「古墳時代まで遡ればあるいは……」
「過去に戻ってどうすんだ。SFだっつの」
「タイムマシンで俺を過去に戻せよ。SFの定番だろうが」
「原住民に殺されるが良い。それにタイムマシンは扱いが難しいんだ。入念に造り込まないと何でもありとご都合主義のオンパレードになる。昨日今日で書けるネタじゃないの」
「へん、ヘボ作家が」
「うるさい。研究員崩れめ」
暫く、樺沢とアランは睨み合っていたが
「あ、そうそう」
と思い出したようにアランが柏手を打った。
「近くにあるゲームセンターで銀河大戦に参加できるぞ。実機を使ったリアル戦争だ。今日の夕方五時からだから、参加したら何かネタが得られるかもしれんぞ」
「え、本当に? よし、すぐに行こう。ありがとう、アラン」
「いいってことよ。そのうち、俺が主役の物語を書いてくれな」
「気が向いたらね」
樺沢はアランと別れると、中央ホールを出てクロスバイクに乗り込み、一路ゲームセンターを目指すのであった。
銀河大戦は遥か彼方にある銀河の国々と闘う戦争である。といっても互いが互いにロボットを使い、互いが互いに遠距離のポイントを戦場にしているので、その被害が両陣営に届くことはまず無い。だからこれは戦争というよりゲームに近く、一般人が遠隔操作で実機を操ることが可能である。
樺沢は午後五時に実機の操縦を始め、その十五分後、敵陣母艦の広域砲台に巻き込まれ戦死した。残留時間は今までで最高だったが、撃墜数がそこまで多くなかったので、《チキン野郎》の称号を得てしまったのが残念でならない。もっとも、小説のネタ探しにフィールドのあちこちを逃げまわっていたのだから、《チキン野郎》と呼ばれても仕方が無いのだが(司令の作戦も無視した)。
「それで、結局、何のネタも見つからなかったしな……」
はあ、と樺沢は溜息をつく。
宇宙はその昔、その深遠さから思いを馳せる場所であった。行くのも命がけ、戻るのも命がけであり、そんな夢と情熱とロマンが溢れる、非日常に満ちた空間であった。
ところが現在は情報なら数瞬で、生身でも日帰りすらできてしまう時代である。宇宙の非常識も日常となり、もはやありふれたモノとなってしまい、《宇宙》というワードそれだけでSFを冠することは難しくなってしまった。
「昔は楽だったんだよなぁ。ロマンがそこかしこに溢れてて」
ゲームセンターを出て、クロスバイクを走らせながら樺沢は考える。
一つ望みが実現するたび、世界からロマンが消えていく。宇宙は身近になり、ロボットは街に溢れ、世界の未来は水底に沈む。街は生き物のように恒常性を備え、地震を緩和し、危険を察知し、社会悪を排除する。
ふと天を仰ぐと、空を覆う星々のようにジェットカーが走っていた。その遥か向こう、大気圏の外には地球に絡まる宇宙ステーションと、軌道エレベータが交差している。
ポーンと、脳内にメッセージが届いた。地表にいる全ての人民に宛てたメールである。
それに拠ると、七年後に地球に衝突する巨大隕石を回避するため、地球の公転軌道を少しずつずらしていくらしい。その影響が僅かながら地表に見られるので、突風や気候変動に注意して欲しいということだった。
目に見えるほどではないが、少しずつ地球周りの宇宙ステーションが回転する。加速は力を生み、公転軌道すら任意の軌道へと変換されるのだろう。
突然、風が吹く。クロスバイクが煽られるが、走れない程ではない。問題なく樺沢は車体を立て直す。この突風は、自然が作った大いなる流れだろうか。それとも人の手でつくられた、予測されうるモノなのだろうか。
肉体は機械に置き換わり、脳は電脳へと変換される。自身の分身がクローンの如く産み出され、ともすればそのクローンの手で肉体は破壊される。世界の流動は監視下に置かれ、未知は既知へと塗りつぶされて、
そんな世界に、僕らは生きている。
多分きっとこんな日常も、過去の人類からしてみれば、酷くSFじみた虚構の世界なのだろう。遠い昔のどこかの誰かが思いを馳せて創った世界が、今の世界なのかもしれない。
そう考えると、なぜだろうか。こんな日常ですら、虚構の世界だと思えてしまう。
「ああ、そうか」
と樺沢は呟いた。
漁るまでもなく、求めるまでもなく、ネタは凄く身近なところにあったのだ。
クロスバイクを加速させながら、一方で思考は小説の枠組みを形作る。次々と思い浮かぶ情景に、樺沢は笑みを隠せなかった。
「いける……、いけるぞ……」
夜天に笑いながら猛スピードで樺沢は走りだす。並走する掃除ロボットが《警告》信号を発するまで、彼はクロスバイクを止めようとしなかった。
息を切らせて帰宅した樺沢を、ウルが出迎えた。
「漆、おかえり。遅かったね。太郎と隆は帰ったよ」
「ああ、分かった。ウル、夕飯は自室で取るよ。後でサンドイッチを部屋に持ってきてくれ」
「分かった。ネタになりそうなもの集めておいたけど、見る?」
「念のため、後で見よう。同期しておいて」
「うん」
自室に引っ込んだ樺沢は椅子に座って目を瞑る。外界の情報をシャットアウトし、意識を集中する。さっき作った枠組みに収まるよう、思考の断片を言語化しつつ適当に配置し、レイアウトを調整しながら全体の筋道を構成する。矛盾点をチェックしながら自己評価を行い、ようやくプロットが完成した。
大きく息を吐いて、樺沢は目を開く。時刻は午後十時前。何とか、間に合った。プロットを送って、樺沢はウルの作ったサンドイッチにがっつく。後は編集からokが出れば、とりあえずは一段落だ。
サンドイッチを食べ終わり、コーヒーで一息ついていると、編集から連絡が来た。
「樺沢さん、どうも戌塚です」
「こんばんは、プロット遅くなってすいません。どうですか? 個人的には結構良いと思うんですけど……」
「うーん、過去の人視点で現在の日常を綴る話ですか……。SFとしては少しパンチが弱いですね」
「え、そうですか?」
「このコンセプトですとSFよりむしろ啓発系の小説になりますよね。うちの読者は純粋にSFを求めているので、ちょっと毛色に合いませんね。うちには載せられないでしょう」
「そう……ですか」
これは事実上のボツ宣言であった。辛いことだが、まあ仕方がない。自信のあった物語が雑誌の反りに合わないことは良くあることだ。問題は次のプロットをどうするかだが、とりあえずウルの集めたネタから何か引っ張ってくることにしよう。
「あ、でも一部は良かったですね。あの部分を使って別のを練りなおしてくださいよ。そっちのほうが面白いと思います」
「え、どれですか?」
「ほら、会話で出てた震源方向を推定してた奴です。タイムマシンで過去に戻る奴」
「え、あんなのが面白いんですか?」
「別に一人じゃなくていいんですよ。ある特殊な能力を持った未来人を過去に送り込んで、歴史を修繕するストーリーです。思い通りの未来を得ようとする悪の組織対、主人公達の構図ですね」
「でも、タイムマシンは扱いが……」
「それはこちらでも考えますから。その案で進めて下さい。きっと面白いですよ!」
「……分かりました」
「宜しくお願いします。それでは失礼します」
通信は切れた。樺沢は盛大に溜息をついて、暫く椅子から動こうとしなかった。やがておもむろに立ち上がった彼は、脳内回線でアランを呼び出した。
「おう、どうした漆」
「おめでとう、アラン。小説デビューだ」