開幕の鐘が鳴る
朝になって、昨日の出来事全てが夢だったら、なんて思ったことはないだろうか。
実は僕も少しだけ今そう思っていた。
だってよくよく考えてみると、転校生が吸血鬼(?)で、うちに居候にやってきて、あまつさえ風呂まで(トラブルで)一緒に入ってしまうなんて、どう考えてもありえない。
どこかの世界のライトノベルでも読んでいる気分だった。
しかも、しかもだ。
今その張本人であるエリーゼは何をしているかというと。
「むにゅぅ……はむはむ……」
僕の首元を甘噛みしているのだ。子犬とかがよくやるアレである。
「なんか……凄い勢いで生気を吸われてる気がする……」
僕の朝は、まさかの絶不調から始まったのだった。
「ゆう兄~、ご飯できてるよ~」
一階に降りるとキッチンから紗織の声が聞こえた。
「ふぁ…。おはよ、紗織」
「おっはー」
寝ぼけ眼をこすりつつ、僕はテーブルについた。
あれ、待てよ? 紗織が、料理を……?
「さ、紗織、なに作ったんだ?」
恐る恐る、といった感じで尋ねる僕。
「目玉焼きだけど」
この展開はきっと世間一般に”お約束”といわれるものだろう。
目の前に置かれた皿に乗っかっていたのは、真っ黒い何か。
俗に言うと消し炭だ。これは食べ物ですか。
「早起きして頑張ったんだ~。えっへんっ!」
いや、そんな堂々と胸を張られても。
兄として、食べないわけにいかなくなるでしょうが。
「い、いただきまーす……」
さようなら、僕の平穏な一日……
「おぬし、よくそんなもの食えるの」
口に入れた直後に、エリーゼがリビングまでやってきた。
「そんなものってなによ、あんたの分はありませんよーだっ」
「我はもうおなか一杯なのだ。何でか知らんが」
それはきっと僕の血を吸ったからだろう。心なしか肌もつやつやしているように見える。
「まあまあ、二人とも落ち着いて」
「む、ゆう兄が言うなら……」
「妹君も分かりやすいの~」
「エリーゼ。見た目はアレだったけど、この消し炭、味は普通だよ」
「ゆう兄……今なんて?」
妹に睨まれる。何か失言してしまっただろうか。
「おぬし、顔が真っ青だぞ」
「へ?」
その時、急に箸を持つ手に力が入らなくなり、僕は箸を落としてしまった。
「ぼくは、へいき……」
ぶくぶくと泡を立てて後ろに倒れる僕。
「ゆ、ゆう兄ーーーっ!?」
「まったく、大げさなやつらだ」
くっくっくと笑いながらその場を去るエリーゼ。後にはものすごいダメージを受けた僕と、ものすごいショックを受けた妹だけが残った。
「急いで着替えないと、遅刻しちゃうよっ」
朝から事件続きで、余裕だった時間が大分押していた。
「慌てて制服を間違えるなよ? ククク……」
エリーゼがなにやら意味深なことを言ってきたが、気にしている暇はなかった。
クローゼットを開けると、そこには普段着ている僕の制服がなく、代わりに女子用の制服が掛けてあった。彼女が言っていたのはこのことだろう。
「………ジャージで行こう」
そう決断し、一分で着替えを済ませた。言い訳は後で考えるとしよう。
「ちっ。つまらんの」
気にしない気にしない。
鞄を持って急いで玄関へ降りる。
「紗織、先に行くね」
紗織が通っている中学校は僕が通っている高校より近いため、急ぐ必要がないのだ。
「いってらっしゃい、ゆう兄」
「我も行くぞ」
「あんたもね、吸血鬼」
「だから違うと……」
またエリーゼが語り始めそうだったので、口をふさいで阻止した。
ドアを開け、眩い日差しの中へと歩き出す。
「いってきますっ」
一人の男が、家の屋根の上に立っていた。
朝には似合わない漆黒のロングコートを羽織り、全身を黒ずくめに染め上げている。
蛇のような鋭い眼が射抜くのは、まだ幼さを残す少年と少女。
男は不敵に笑う。咥えていたタバコを、はき捨てながら。
「………日常なんてもんは、ひどく呆気なく壊れちまうもんさ。そりゃあ、このタバコのように、踏まれて潰されてボロボロになあ。お前が一番よく分かってるだろう、飛鳥?」
男は虚空へと呼びかける。すると、いつの間にか男の横に一人の女が立っていた。
「お前がこれから壊す人間に興味はない。私は吸血人種を駆逐するだけだ」
「ひゅ~、相変わらず切れてるねえ」
男は茶化すが、女は一切動じない。それどころか、辛辣な言葉を続けた。
「言っとくが全てが終わったら、私がお前を葬るからな。吸血鬼」
「ふん、俺は元よりそのつもりだよ。飛鳥以外のやつに俺を殺せはしない」
そこには奇妙な同盟関係があった。まさしく不可思議としか言いようのないような。
「さあ、舞台の始まりだ。日常ごっこはもうお終いだぜ、お嬢ちゃん」
声高々に、男は開幕を宣言した。