覚醒の時、決着の空
世界は深い海だった。
暗く重たい水が身体にまとわり付いて離れない。
泳ぐことも、息をすることも出来ない。
段々と海の底に沈んでいく。
意識の底に沈んでいく。
僕はどうすることも出来ずに、ただ身を任せる。
このまま消えて無くなってしまうのだろう。
僕が、沈んで い く…
「*****……*! **………*!」
どこからか声が聞こえてくる。
海の上からだ。でも水の音でよく分からない。
ただただ遠いだけだ。
手をのばすことも、掴むことも出来ない。
ざぶん、と何かが海に入ってきた。
幾つもの音が連なって、海がざわめく。
僕の周りに集まってきたのは、見知らぬ女の人たち。
どこか神聖な雰囲気を身にまとう女性たち。
「……****、*********?」
その中の一人が僕に問う。海の中でも明瞭に聞こえた。
あなたは、それでいいのですか、と。
「……よくない、よ。でも、僕はもう……」
僕の命は、もう尽きる。
何も出来ないまま、何も守れないまま。
「***?」
今度はもう聞こえなかった。
僕は抗うこともしない。この海は、あまりにも冷たすぎる。
さらに沈んでいくと、そう諦めたとき。
一滴の雫が、海に落ちた。
世界は一変する。
僕を捕らえていた海が霧散するように消え、僕は宙にゆらゆらと揺蕩う。
目の前の女性たちの姿が、はっきりと見えた。
「あなたは、どうしたいの?」
全員がそろえて問いかける。
僕が今まで考えて、ずっと答えを出せなかった問い。
僕自身に迫られた、決断。
僕ははっきりと理解する。いま僕が出せる最高の答えを返す。
僕はエリーゼとどうなりたいんだろう?
――――――僕はエリーゼを守れる存在になりたい。
僕はエリーゼと、どうしたいんだろう?
――――――僕はエリーゼと共に、生きていたいんだ。
女の人たちは拍手をする。優介の出した答えに満足する。
「あなたを認めましょう。我らの力を貸してあげます」
女性たちが優介の中に飛び込んでいく。
彼女らは優介の中で溶け合い、同化し、やがて融合していく。
優介は芯から湧き出る力を感じていた。
なんだ、答えはもう出ていたんじゃないか。
僕は今まで何をそんなに悩んでいたのだろう。
早くみんなの元に帰ろう。
あの子が待っている、あの世界へ。
後は、このまどろみから目覚めるだけだ。
優介は覚醒した。閉じられていた目が開く。
目の前には、泣きながら優介の身体にしがみついているエリーゼの姿があった。
それは初めて目にした、エリーゼの弱さだった。
……許さない。
彼女の後ろで愉快そうに笑っている男を、許さない。
――――倒す。
「……っ!? ゆ、ゆうすけぇっ…!!」
エリーゼが起き上がる僕に気付いた。
涙で腫れ上がった目が痛々しい。
よく見ると彼女は体中に傷があった。
僕はエリーゼの頭を優しく撫でる。なだめるようにゆっくりと。
「うぁぁぁぁぁぁぁーーーーんっ!」
エリーゼが声を上げて泣き叫ぶ。こんなにも彼女は脆かったのか。
僕は彼女を安心させようと片手で抱き寄せる。
「あぁ? てめぇ生きてたのかよ」
吸血鬼がこちらを睨んでいる。
振り上げられた拳は、そのまま僕とエリーゼを押し潰そうと放たれた。
「………っ」
エリーゼが目をつぶる。彼女は震えていた。
僕はもう片方の手でそれを受け止める。
いとも軽々と、重い拳は停止した。
「……ぁあ?」
吸血鬼は首をかしげる。ありえないものでも見たかのように。
僕は拳を押し返す。
相手はそれでバランスを崩し、後ろによろめいた。
エリーゼが恐る恐る目を開けると、彼女はやっと自分がまだ生きていることに気が付いた。
吸血鬼の圧倒的な力を防御した、優介の力に驚く。
優介はエリーゼを地面に残し、立ち上がった。
彼の身体は仄かに光を帯びている。
「……なっ……優介……っ!?」
優介の短い髪が大地に近付こうとするように伸びだす。
肩辺りから腰まで、ちょうどエリーゼのように。
漆黒の長髪は漆器のように深い夜を連想させ、美しく長い絹のように光り輝く。
元から細かった体の線はさらに緩急をつけるように変化していく。
胸と腰回りが成長し、豊かな体型に変貌する。
放り捨てられた時に破けた服の隙間からそれが垣間見える。
「エリーゼはここで待ってて。……僕がかたをつけるから」
それまでよりも若干高い声になっている。
優介は身体に不思議な力が満ちていくのを感じていた。
温かい。今ならどんなことでも出来そうだ。
さっきの女の人たちが、僕にこの力を分け与えてくれた。
絶対に無駄にはしない。
「優介、おぬしは……」
エリーゼは驚愕する。こんな現象は見たことがない。
「な、なんだ!? どうなってんだお前っ!!」
吸血鬼のゴードンですら、初めて遭遇した状況だった。
遠くで様子を見ていた吸血鬼ハインツは、感動さえ覚えていた。
「これが、奇跡か……!」
優介は、吸血姫の奇跡を勝ち取った。
勝ち目のない賭けに打ち勝ったのだ。
「姫の血が混ざったことによる人間の吸血姫化、といったところか」
詳しい原理や過程は分からない。
一瞬で体構造を再構築し、男の肉体を女のそれに変化させるのは、まさしく神の業だ。
それでもハインツは高揚せざるを得ない。
彼は吸血鬼になって久しく感じていなかった期待をする。
未知の出来事への期待を。
優介の身体は黄金に輝く光の粒子を纏っていた。
その姿はまさしく、金色の吸血姫―――――
ラウラも、そして紗織も、その信じられない光景を目の当たりにした。
互いに声も出せないほど衝撃を受けている。
特に紗織のショックは深刻なものだった。
「……ゆ、ゆう兄が……女の子に、なっちゃった……」
ぶくぶくと泡を吹きながら気絶してしまう。
ラウラも同じくらい動揺していたが、身体に残るダメージで緩和された。
「…少年、負けてくれるな……!」
ラウラはただ祈る。
全員が無事に生きて帰れることを。
優介は自分の手を見つめ、握る。
確かな力がみなぎってくる気がする。
僕は、一人なんかじゃない。
この身体の中に、共に戦ってくれる人たちがいる。
だから、負けない。
優介は地面を蹴る。
光の速さでゴードンの元まで到達する。
「うぉぉっ!?」
ゴードンはその速度に対処出来ない。
「一、」
速度を殺さずに優介は拳をゴードンの腹に叩き込んだ。
拳はありえないほどめり込み、背中を貫通するような勢いで突き刺さる。
「がはぁっ…!!」
持ち上げるように振り抜き、ゴードンは紙切れのように吹っ飛ばされる。
天に舞うゴードンを追撃するように優介は飛ぶ体勢になる。
背中には光の粒子でできた翼が華麗に生え、一度羽ばたいただけで一気に高度が上がる。
「……綺麗だ」
エリーゼは優介の飛行姿に魅入っている。他の者も同様だった。
飛んでから重力で落下する反動を利用し、すかさず蹴りを放つ。
「二、」
「ぐぁぁぁぁっ!!!」
ゴードンは隕石のように大地に落下し、地面を陥没させた。
彼は満身創痍で天を仰ぎ見る。
「うっ……何だよ、何なんだよぉぉぉっ…!!」
そこにいたのは、天使か悪魔か。
ゴードンには悪魔に見えただろう。
巨大な翼を広げ空に浮いているその者は、闇を映したかのような漆黒の髪を揺らしていたのだから。
ゴードンは恐怖する。もう二度と味わうことのないと思っていた、死の恐怖を。
優介は茜色の空を背にしていた。
屋敷に着いたときは確かまだ青空だったはずだ。
…いつの間にか夕方になっていたようだ。あまり遅くなると母さんが心配するだろう。
これで最後にしよう、全てを。
優介は左手を虚空に差し出す。
背中に集中していた光が、その手に収束し再び形を成していく。
優介はラウラの持っていた弓を想像し、その場に具現化する。
想像を、創造へ。光の弓を構え、優介は弦を引く。
弦には同じく光の粒子でできた矢が装着された。
優介は限界まで引き絞る。
照準を見誤らないように。一撃で終わるように。
ゴードンはもはや避けることが出来なかった。
その神々しい姿に目が釘付けにされる。
「…ぁぁあああアアアアッ!!」
ゴードンは最後の咆哮を上げる。
獣のように叫び続ける。
「――――三」
その瞬間、光の弓矢が放たれた。
風を切り、音すらも切り。
ゴードンの身体を、魂を刈り取るような鋭さで射抜いた。