鬼と姫、対峙す
先に動いたのはゴードンの方だった。
吠えながら全速力で二人に突進してくる。
「うぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
エリーゼは焦らず、ただ静かに目を閉じて、開いた。
その眼は紅に光り輝いている。
吸血姫の能力、催眠が発動したのだ。
「止まれ、犬」
「ぬぐぅぅう!?」
ゴードンの動きが鈍る。速度は急速に落ち、やがて立ち止まる。
それでもしぶとく肉体を動かそうとしている。わずかだが催眠が解けかかっているようだ。
「ラウラ、頼んだ!」
「了解です、姫!」
ラウラは動けないゴードンの懐に飛び込み、勢いよく蹴りを叩き込む。
腹部にクリーンヒットし、ゴードンは苦しげに呻いた。
さらに二連、三連と拳を顔面に強打する。
最後にとどめの回し蹴りを放ち、ゴードンは後方へ吹っ飛んだ。
「ぐぉぉぉぉっ!」
ラウラは服に付いた埃を軽く払い、ゴードンを見据える。
「……呆気ないですね」
しかしゴードンはすぐさま起き上がった。
かなりダメージを与えたかに思われたが、ゴードンはまだまだ健在だった。
「…けっ…こんなもんかよ女ぁ。俺様には痛くもなんともねぇぜ」
「しぶといな。ゴキブリ並みですよ」
「てめえこらっ! 俺様に向かってゴキブリ呼ばわりだとっ!? 許さねぇっ!!」
怒り心頭といった顔で大地を力強く踏みつける。
するとあまりの力に地面が耐え切れず、巨大なひびが入った。
ゴードンはひびの隙間に手をつっ込み、割れた大地を一かけら掴み取る。
「へへっ…こんなもんでも、当たれば痛ぇよな?」
「単細胞だと思っていたが、おぬしも一応考えるのだな」
エリーゼが褒めるが、馬鹿にしているとしか思えない言い草だ。
それがゴードンの怒りにさらに火をつけてしまう。
「なめんな、くそちびぃっ!!」
放り投げられた土の塊は大きく硬い。当たったらただでは済まないだろう。
それでもエリーゼは冷静に軌道を分析し、近くに飛んでくるまで微動だにしない。
ぎりぎりまで接近したところで、彼女はその塊を平手で弾き落とした。
虫を払うように軽やかに、だが実際はとてつもない力で。
「…こんなものか?」
「っちぃ…余裕ぶっこきやがって」
ゴードンは姿勢を低くし再度突撃のために力をためる。
ラウラもエリーゼのすぐ傍に戻りそれを待つ。
「ラウラ、連携出来るか?」
「もちろんです。いつでも」
二人は合図を送り合う。
ゴードンが走り出した。
その巨体の体当たりをまともに受けたら骨が折れるどころではないだろう。
狙われているのはエリーゼのようだった。
二人は彼が攻撃圏内に入るまで引き付ける。
「ラリアットぉぉぉぉぉっ!!」
腕を横に広げてエリーゼの小さな体を打ち抜こうとする。
しかし身長差がありすぎたためエリーゼとラウラは容易にその一撃を屈んで避けた。
「ぬぉおっ!?」
「当たらなかったのが運の尽きだ駄犬め」
ラウラは屈んだ体勢から飛ぶように一気にアッパーカットで顎を打った。
「がぁっ」
少しだがゴードンの巨体が宙に浮く。
「とどめだ」
落ちてきたところにすかさずエリーゼが反動で蹴りを入れた。
その一撃には吸血姫としてもてる力全てがつぎ込まれていた。
ゴードンの重たい身体は軽々と吹っ飛び、屋敷の鉄門へと衝突する。
門はあまりの衝撃にひしゃげ、もはや門としての機能は果たしそうにない。
「なんだ、大したことなかったではないか。優介にあんなこと言う必要なかったかもしれんのぅ」
「全くですね姫。杞憂というものです」
ゴードンは完全に沈黙している。
この戦い、吸血姫の勝利に終わったのだった。
優介と紗織は屋敷のある林の中を進んでいた。
エリーゼに何かある前に彼女を連れ出して逃げる、ただそれだけを考えて。
その後のことは何も考えていなかった。
ひたすらに嫌な予感がして、吸血鬼が言っていたことも気になるのだ。
別の吸血鬼。
それが一体どれほど危険な存在なのか、優介には分からなかった。
「ゆう兄、もうすぐだよっ!」
紗織が先導しているが、走る速さは同じぐらいなのでほぼ並走している。
「うん、急ごうっ」
二人が急いでいる最中に、その音は辺り一帯に響いた。
ドォンと、何かが勢いよくぶつかったような衝突音。
近くから聞こえたその音で、優介たちは焦燥する。
音は明らかに、屋敷の方向から聞こえたのだ。
「何が起きたんだっ!?」
「もう着くよ、ゆう兄っ!」
目の前に広がるのは、前回来た時と同じ巨大な屋敷。
その門に、見知らぬ大男がめり込んでいた。
どんな状況だ!?
「エリーゼッ! ラウラさんっ!」
「なっ……優介! …と妹君」
「なんかあたしはおまけみたいね…」
屋敷の敷地内には、エリーゼとラウラさんがいた。
門にめり込んでる男を見る限り、もしかして…
「もう、終わったみたいね…はぁ~~…疲れた~」
紗織が門の近くで座り込んだ。
ずっと全力で走ってきていたから無理もない。
かくいう優介も疲労困憊だった。まだ何もしてないのに。
「…勝ったの? エリーゼ」
「うむ! 何だかあんな別れ文句を言ったのを後悔しつつあるぞ。結局おぬしら来ちゃったし」
「姫があんなに格好付けてたのが逆に滑稽でしたね」
「むーっ! それを言うな!」
優介は何だか安心していた。いつもの二人が戻ってきたみたいだ。
安心しすぎて、優介たちは気付くことが出来なかった。
ゴードンの眼は、まだ狩人の光を宿していたのだ。
「ふざけやがってぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
「!!?」
ゴードンは雄叫びを上げた。超音波のように頭に響く不快な声だった。
座っていた紗織は、咆哮に怯んでしまって動けない。
狩人はそんな恰好の獲物に目を付けた。
紗織に接近し、掴みかかろうとする。
「紗織っ!!」
優介は紗織を庇うように間に入った。
狩人の眼が怪しげに光る。美食を前にしたときのような、舌なめずりをする。
優介は本能的な恐怖を感じた。
それは食物連鎖において、自分より高いヒエラルキーに位置するものと相対したときの感覚だ。
自分は捕食される、優介は一瞬でそう理解した。
「あ~…本当は女の方が美味ぇんだけど、お前でもいいや。腹ぁ減ってるし」
優介は巨腕に胴を掴まれた。
そのまま天高く掴み上げられ、身体を締め上げられる。
「うぐっ………んぁぁっ………!!」
「ふひっ! 美味そうだぁ~!」
怖い。苦しい。気持ち悪い。
あらゆる負の感情が、優介を押しつぶす。
「ゆ……ゆう兄……」
紗織は身体を動かせないまま、目の前の出来事をただ呆然と見つめることしか出来ない。
「いっただっきまぁすっ!!」
鋭い牙を光らせて、吸血鬼は大口を開けた。
「やめろぉぉぉぉぉっ!!」
エリーゼとラウラが駆ける。だが、もう遅い。
「がっ……あぁ……っ」
牙が突き立てられ、凄まじい勢いで血液が失われていく。
あまりに長い間、その状態が続いたかに思えた。
実際はほんの一瞬の出来事だったが。
優介の意識は、そこで永遠に途切れた。