決めたんだ
母さんが作ってくれた料理はスパゲッティのカルボナーラにサラダだった。
うちでは普段母さんがよく作るメニューだ。
母さんとエリーゼ、そしてラウラさんは他愛もない世間話で盛り上がっていた。
クラスでの出来事とか、僕との出来事とか(過激なものは省かれていた)、それをいつもとは違い丁寧な標準語で話すものだから、僕と紗織はやっぱり違和感を拭いきれなかった。
我、とか、である、とか言っていたエリーゼと同一人物だなんて信じられない。
僕の知らない彼女の一面は、僕に不安ばかりを与えてくる。
「優介くんとは親しく付き合わせてもらっています」
これも、
「私はドイツから日本にやってきまして…」
これも、
「ご馳走様でした。美味しかったです、お母様」
これも。
エリーゼがエリーゼでなくなる。僕の中の彼女といま目の前の彼女が乖離する。
それはとても恐ろしいことだった。僕は身体の震えを抑えられない。
やがてエリーゼとラウラさんが揃ってその場に立ち上がる。
それから僕たちに向けてお辞儀をした。
「今日はとても楽しかったです。私たちはそろそろお暇しようと思います」
「あら、もう帰るの? まだまだ居ていいのよ?」
…待てよ? 帰る、どこに?
まさか、あの屋敷に?
「エ、エリーゼ? 帰るって本当?」
「ええ、お世話になりました。また機会があれば誘ってくださいね」
そんな、居候できるようにみんなで説得するのではなかったのか。
一体どうして。
「気をつけて帰るのよ~」
母さんののんきな声が響く。
二人は迷いのない足取りで玄関へと向かった。
僕はやりきれない思いで一杯で、二人を追いかける。
紗織も後からついて来た。僕はエリーゼに問いかける。
「エリーゼッ、なんでさっ!」
「…優介」
エリーゼは立ち止まり、振り返った。その顔からは何も読み取れない。
「あんた、いい加減ママに本性見せなさいよっ! じゃないと帰さないからっ」
紗織は怒っているようだ。
普段は傍若無人なくせに、手のひらを返したような今のエリーゼの態度に怒っている。
紗織は多分普段のエリーゼを好きではない。でも、嫌いでもないんだと思う。
だからこそ、媚を売るような態度が我慢できなかったのだ。
エリーゼにはエリーゼとして在って欲しいと、それは僕も同じだ。
「…エリーゼ、君はここにいていいんだ。もちろん、ラウラさんも。僕が両親を説得してみせるから、そうすれば…」
「そうすれば、屋敷に戻る危険を冒さずにすむ、と?」
「そうだよ」
「…それは、すなわち現実から目を逸らしているだけに過ぎぬ」
エリーゼはぴしゃりと言い切る。
「永遠に逃げ続けることは不可能だ。いつかは向き合い、対峙するときが来る」
「でも、まだ…」
「おぬしの親に会い、確信した。おぬしらは日常に帰れ。我らには我らの世界があるのだ。おぬしらが足をつっ込む必要のない世界がな」
僕は言い返すことが出来なかった。元々はエリーゼたちが招き入れてくれた世界だが、今は自分の意志で入ろうとしている。そしてそれはあの吸血鬼が言っていたように、常に危険が身近に存在する非日常の世界でもある。
彼女は最後の警告をしているのだ。
それでよいのか? と。
「ふふ、優介よ。別に今生の別れというわけでもあるまい? 我にかかれば吸血鬼など一捻りよ」
「……エリーゼ」
彼女はいつもみたいに笑っていた。それは僕のよく知るエリーゼの笑顔だった。
このときエリーゼが小さく発した一言は、今でも忘れられない。
「…さよなら」
波打つかのような黄金色の髪を翻し、金色の吸血姫とその従者は僕の家から去っていった。
後には力なき僕を残して。
「ゆう兄っ! 追っかけなくていいのっ!?」
紗織が叫ぶ。エリーゼの一言で、僕は一瞬にして足枷をはめられてしまったようだ。
身体が動かない。再びその言葉を言われたら、今度こそ僕は凍りついてしまうだろう。
「あーもうっ! ていっ!」
紗織が強い力で僕の頬を引っぱたいた。
あまりの衝撃に数秒意識が飛ぶ。
「いったぁっ!! なにすんのさっ!?」
「男ならしゃきっとしなさいよっ! あたしが大好きなゆう兄は、こんなことで諦めたりしないんだからっ!」
「―――紗織…」
紗織にぶたれたところが熱を帯び、徐々に身体の凍結が解けていく。
そうだ、紗織の言うとおりだった。
僕は、僕には、まだやれることがあるはずだ。
行き当たりばったりでもいい。行動しないより、よっぽどましだ。
「紗織、エリーゼを追いかけよう!」
「そうこなくっちゃ!」
僕たちはエリーゼの住む世界に飛び込むことを決意した。
それが正しいかどうかなんて関係ない。
だって僕たちが選ぶ道に後悔なんて必要ないのだから。
母は陰で兄妹が決意し家を出るまでの一部始終を見ていた。
詳しい事情は分かるはずもないが、母は陰ながら我が子らを応援していた。
「少年よ、青春せよってね~」
勝手に名言を作り、鼻歌交じりにリビングへと戻っていく。
今夜はごちそうを用意して待っていてあげよう、母はそう思った。