一人の決意
「優介、少しよいか」
「なに、エリーゼ?」
昼食を食べ終わった後、僕はエリーゼに連れ出されて空き教室に来ていた。
こんなところで一体何の用だろうか。
「実はな、次の授業は体育だろう? 女子は実技テストなのだ」
「へえ、そうなんだ」
誰もいないのに耳元に近づいてひそひそと言うエリーゼ。
「へえ、そうなんだ、ではないわっ! 緊急事態なのだ、そこで優介の力を貸してもらいたい」
「ただのテストでしょ? ちなみに何の?」
「マット運動、我はあまり得意ではないのだ。練習では一度も成功していない…」
「僕もそんなに得意じゃないよ」
「何もおぬしにコツを聞こうというわけではない。コツを聞いて倒立前転や側転が出来るなら、とっくに我も出来ておるしな」
「じゃあ何すれば良いの」
エリーゼはくっくっくと不敵に笑って言った。
「血を吸わせてくれ」
「はいっ? なんでまた、嫌だよっ!」
「そこを何とか。女の子の前で恥をかきたくないのだっ。いいとこ見せたいのだーっ!」
しょーもない理由だとつくづく思う。
呆れてため息が出てしまうくらいだ。
「あ、もちろん一番好きなのは優介であるぞ。安心せよ」
「な、なな何言い出すんだよ急にっ!?」
心臓の鼓動を確かめるかのように、エリーゼは胸に両手を当てる。
「……優介が我を守ってくれたとき、我はすごく嬉しかったのだ。胸がぽかぽかして、他の人間といるときよりも、温かかった」
「そんなこと言ったって……大体血を吸って何になるのさ?」
訊ねると、エリーゼは胸を張って偉そうに答える。
「我ら吸血姫は、血を吸うことで身体能力がアップするのだ」
「…へえ、そりゃ凄いね」
信じられないんだけど、と内心思ったが。
そういえば、この前紗織がそのようなことを言っていた気がする。
足がとてつもなく速くなったとか何とか。
「ということで、頼むっ。優介っ!」
エリーゼは顔の前で手を合わせ頭を下げている。
ここまでされたら、無下に断るわけにもいかないよね…
「ちょっとだけだよ、エリーゼ」
「! 感謝するのだっ!!」
勢いよく僕に抱きついてくる彼女のアクティブさに、僕はまだ慣れてない。
でも、こういうのも悪くないと、そう思い始めてもきたんだ。
僕の身体にしがみついている彼女は本当に小さくて、触れたら折れてしまいそうなほど細くて。
だからこそ、あの吸血鬼などから守ってあげなくちゃいけない。
いや、守りたいんだ。僕が僕自身の意志で。
「…すん…すん…なんだか良い匂いだのぅ…落ち着く…」
決意が一瞬で壊されるなんて思っても見なかった。この変態めっ!
「はーなーれーろーっ!」
「あぅ~、もうちょっとだけ~~」
金髪の変態を引き剥がそうと四苦八苦するも、思ったより粘り強かった。
その所為もあり、僕たちはもつれ合ってバランスを崩してしまう。
「うわ、ちょっ、わぁぁっ!」
「ひゃぁぁっ」
二人そろって床に倒れてしまった。しかもエリーゼが僕の上に覆い被さってしまっている。
こ、この状況は色々と、恥ずかしい…
目の前にはきょとんとした表情のエリーゼの顔がある。
距離が、近すぎて困る。
しばらくそのままの状態で静止していると、微かな物音を聞いた。
扉がガタっと揺れる音だ。もしかしなくても、これは。
「……エリーゼ、どいてくれる?」
「……う、うむ。すまなかったな優介」
エリーゼが僕の上からどいた後、僕は立ち上がって扉を開いた。
案の定、そこには二人の覗き魔がいた。
いきなり扉が開いたから驚いたのか、二人とも尻餅をついていた。
「このは、蛭賀くん……なにしてんの」
「あ、いやその…二人で何してるのかなーって気になって、つい…」
かなり焦りながらこのはが言う。
「俺はお前が心配で……」
「君は黙ってて」
先に釘を刺しておいた。それにしても野次馬とはよく言ったものだ。
エリーゼはただでさえ目立つから、あまり変なことがないようにしなくちゃいけない。
「二人とも、今すぐここから逃げないと僕の鉄拳が飛ぶけど…いいの?」
笑顔のまま拳をポキポキと鳴らす。二人にはそれだけで十分だ。
「ご、ごめんねゆうすけ。もう行くからーーっ!」
「後でまた会おう、愛しい君」
蛭賀くん、ウインクは本気でキモい。
そうしてこのはと蛭賀くんはその場を去ったのだった。
「……済んだかの。では…」
扉を閉め、再びエリーゼと二人きりになる。
彼女は一度瞳を閉じてゆっくり呼吸をし、そして両目を見開いた。
その眼は、紗織の血を吸った時と同じように、灼熱色に輝いていた。
「おぬしの血を、力を、我に分けてもらうぞ」
「…いいよ」
彼女の真紅の眼を見つめると、自分の身体の自由が奪われるような感覚がした。
「大丈夫だ。これは一時的な催眠、麻酔と思えばよい」
エリーゼがこちらに歩いてきて、肩につかまり背伸びしながら、僕の首元に鋭く尖った歯を当てた。
プツッという何かが刺さる感触はしたが、痛みはなかった。
彼女の言う、麻酔が効いているのだろう。
幾らか吸った後、彼女は満足したのか口を離した。
少しだけ唇に血がついている。
「ふぅ……ご馳走様なのだ」
いい笑顔で言うエリーゼ。眼も元通りの青色だった。
すると少しだけ噛まれたところがひりひりしてきた。
催眠が解けたのかもしれない。
「どうだった? って聞くのも、なんか変だよね」
「ふむ。今までで最高の味だったぞ。文句なしで一番だ!」
「喜んでいいのかな……?」
エリーゼの口元をハンカチで拭うと、彼女は少しだけはにかんだ。
「ふぁ……すまぬ」
「いいんだ」
ハンカチをズボンのポケットにしまうと、エリーゼは何か哲学的なものを語りだした。
「血は繋がりだ。我は厳密にはおぬしと同じ人ではないが、似たようなものに変わりはない。人の血は即ち絆。代々受け継がれ、交じり合っていくモノだ。我と優介の絆のように、な」
「…ははっ、何難しいこと言ってるのさ」
「つまりはだな……」
エリーゼは扉付近に歩いて行って、こちらに振り返った。
「我はおぬしが大好きなのだっ!」
最高に輝いている笑顔だった。僕はこの笑顔を守りたいと、そう思ったんだ。