狂気と理性
一瞬、時が止まったかのような錯覚を感じた。
しかし、妙に意識だけは冴えているのだ。
エリーゼへと近づいていく弾丸の軌道が、はっきりと認識できた。
確実に脳に直撃して、一撃で終わってしまう。
全てが。
無意識のうちに、身体はエリーゼの方へと駆けていた。
ただ"間に合え"と心の中で叫びながら、その後のことを考える余地も無く。
僕はエリーゼを横に突き飛ばした。
「なっ……優介っ!?」
「っつ………!」
弾丸はエリーゼへの直進コースからずれ、代わりに僕の頬をかすっていった。
すぐに焼けるような熱さが込み上がってくる。
傷から滑り落ちるように血液が流れていく。
身体の興奮とは裏腹に、頭の中は急速に冷凍されたかのように冷めてきた。
「姫っ!!」
遅れてラウラさんがエリーゼに駆け寄る。
「ゆう兄っ……どうなってんのこれ……銃……!?」
紗織はパニックを起こしそうになっている。
銃弾がかすった頬を触ってみると、鮮やかな血が手にこびりついた。
「あっ……ああぁっ……」
それは一生の中で初めて向けられた、本物の殺意だった。
僕は思わず発狂しそうになる。死神が首元に鎌を突きつけているような気がした。
「いやぁぁぁぁああっ!!」
「さ、紗織……?」
紗織の叫び声で、僕は無理やり正気に戻される。
「怖いよ……ここ日本なんだよ、なんであいつ銃なんて持ってるの……?」
そうだ、あれは一体誰なんだ。いきなり発砲するなんて、正気の沙汰じゃない。
屋敷の屋根をもう一度見上げると、そいつは正にいま屋根から飛び降りるところだった。
その人物は着地した後、こちらにゆっくりと近づいてきた。
「はずしちまったかぁ。残念」
銃をおもちゃのように扱う、黒ずくめの影。
異様に背の高い見た目と、その声から察するに、若い男に違いない。
男は十メートルぐらいの距離まで近づいて、立ち止まった。
月明かりに鈍く輝く短い銀髪が、とても印象的だ。
蛇のような切れ長の眼が、地べたに尻餅をついているエリーゼを見つめている。
「何者だ貴様っ! なぜ我らを狙うのだっ!!」
「……せっかくサイレンサーまで用意したのに、結構音すんだもんな。こいつよぉ」
男は完全に無視している。エリーゼの顔が混乱に満ちていた。
「まさか、君が姫狩りを行っている吸血鬼か」
エリーゼを守るように、代わりにラウラさんが前に立った。
男は特に驚くこともせず、
「………だったら、何だってんだ? 人間のお嬢さん」
澄ました顔で、肯定と取れる返答をした。
「姫を傷つけることは許さない、私が相手になろう」
「人間はすっこんでなよ。これは吸血鬼と吸血姫の問題なんだからさぁ」
「私も関係なくはない。なんせ姫の唯一のメイドは、この私だからな。メイドは主人を守るものだ、違うかい?」
「はっ……知るかよ。なあそこのお二人さん、あんたらは邪魔なんかしないよなぁ?」
突然こちらに矛先を変える吸血鬼。
圧倒的な威圧感。否定はすなわち死を招くと、その眼は語っていた。
ここで僕たちだけでも逃げ出せば、確かに助かるかもしれない。
でもそれだと、エリーゼとラウラさんを見捨てることになってしまう。
賢い人なら、迷うことなど無いのだろうか。
そうであるなら、僕たちはとことん馬鹿だったのかもしれない。
「……あなたがどうしてエリーゼを狙っているか知らないけど、危険なことはさせません。絶対に」
身体は震えながらも、僕もラウラさんの横に立ちエリーゼをかばう。
「ゆう兄がそう言うなら、仕方ないわね……感謝しなさいよ、あんた」
続いて紗織も僕の隣に立った。
みんながエリーゼを守ろうと必死になっているのだ。
「……ちっ。友情ごっこも体外にしろよお嬢ちゃん。能力使って下僕を操りやがって」
「能力など使ってないっ! 馬鹿にするな吸血鬼っ!」
能力というのは、もしや昨日紗織がかけられたやつだろうか。
エリーゼの眼は青色のままで、その可能性は無いはずだ。
あの時は燃えるような赤色に変貌していたのだから。
「まあいい。人間を巻き込むのは俺としても御免なんだが、この際仕方ないよな」
吸血鬼は銃口を再び僕たちの方へと向けた。
僕は思わず瞳を閉じてしまう。
覚悟なんかできてない。ただこの瞬間だけ、こんな現実から目を逸らしたかっただけなんだ……
吸血鬼は強張っている優介の姿に、何かを見た。
アレは……そう。昔の俺が取った行動と、同じなのだ。
大切な何かを守ろうとするため、力なんか無いのに立ち向かう姿。
自分の時は、それが唯一の肉親だった妹だというだけで。
その根本にある決意と思いは、きっと変わらない。
よほど大切な者で無い限り、こんなことできるはずが無い。
お前は……恵まれているな、吸血姫。
「やめだ。興醒めしたぜ、お姫様よぉ」
その声を聞いて、恐る恐る僕は目を開けた。
吸血鬼は既に持っていた銃を下ろしている。
「……どういうつもりだ、吸血鬼」
エリーゼが不審そうに訊ねた。
「言ったろう? 人間を巻き込むのはフェアじゃねぇのさ。しかもこんな可愛らしいお嬢さん方を、殺すなんてできねぇよ」
「ぼ、僕は男だけどなっ!」
忘れてたけど、僕はまだ着替えてなかったので、つまりはそういうことだ。
「え、お前男なの?」
吸血鬼は驚いた顔をしている。
「あたしの自慢の兄貴よっ」
「我の大事なおもちゃだ!」
おい、なんか聞こえたぞ今。
「はっ……どうやら、お前も愛されてるようだな、坊主」
吸血鬼は持っていた銃をコートの内側にしまい、代わりにタバコとライターを取り出して火をつけた。
長い息と共に、白い煙が虚空へ吐き出される。
「……忠告しておく。吸血姫と関わるってことは、常に危険と隣り合わせだってこと、忘れるなよ」
「…………!」
僕の方を見ながら吸血鬼は警告した。
「それともう一つ。お前らの命を狙ってるのは、俺だけじゃないと思え」
こちらはエリーゼに対するものだろう。
「黒幕がいるというわけか」
「まあ、そういうことだ。精々気をつけな、死にたくなかったらな」
吸血鬼は吸っていたタバコを地面に放り捨て、足で踏み消した。
そして次の瞬間、背を向けて少し屈んで力を溜め、凄まじい跳躍力で一気に屋敷の屋根へと飛び乗った。人間離れした運動能力だ。
「この屋敷に住むのはお勧めしないぜ。ここは人気が少ない、恰好の暗殺場所だ」
「そんな場所でやらなかったお前は何なのだっ!」
「今日はお嬢ちゃんたちに免じて見逃してやる。また来るからな」
「二度と来るなーーーっ!!」
いつの間にか、吸血鬼の姿はどこかに消え去っていた。