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短編

あなたへと綴る言葉

作者: 純太

「暑い・・・・。」


 よくも悪くも夏真っ盛りの今。ねたつく湿度の中、流れる汗を拭い俺はパタパタとTシャツの襟元を扇いだ。


「やっぱさ、部室にクーラーは必需品だよ。それがダメなら扇風機。」


 机に伏せて溶けている嶋田に俺は同意を示した。

 そしてチラリと部長を見やる。その視線に気づいた女部長は知的眼鏡を光らせた。


「クーラー付けてもいいけど自腹ね。」


 彼女が悪魔に見えた瞬間だった。


「何でだよー。部費から出ないの?」

「備品をそろえるのに使ってるからそんな余裕はない。」


 ズバッと言われ、それ以上反論する事もできず、俺は「ちぇっ。」と言いながら便箋を開いた。


「なになに?また深窓の姫君から?」


 嶋田のそのセリフに俺は眉間に皺を寄せた。


「何だよそれ。」

「日高の文通相手の呼び名。」

「まてまて、別に彼女は閉じ込められている訳じゃないぞ。ただ病気で勝手に出歩けないだけだ。」

「似たようなもんじゃんか。」

「全然違う。」

「はいはいそうですか。」


 嶋田の投げやりな言い草にムッとしつつも、俺はそれ以上言い返さず彼女からの手紙を開いた。

 俺は大学に入って何か人の役に立とうと思い、ボランティアサークルに入った。その理由はいたって単純で、昔荒れていた俺はただいな迷惑を回りにかけていたわけで、しょっちゅう警察にもお世話になっていた。そこで知り合った刑事がまたいい人で、根気強く俺を更生の道に導いてくれた。俺はその刑事がくれた言葉達に救われ、その刑事の存在に救われ、今までの償いの意味をこめて、生涯人の役に立とう!と決意した。そして、更生した俺の一歩としてボランティアサークルに入るという結果に至った訳だ。

 ありきたりな物語のようだが、これが俺の真実だから仕様がない。

 それでボランティアの一環として、俺は今一人の少女と文通していた。そこはメール等の現代利器を使わずあえての手紙で。

 彼女は病院に入院していて、そんなに体がいい状態ではないそうだ。だから出歩く事どころか歩行すら自分の意志ではままならないとか。

 便箋を見るとまず、『拝啓、あなた様』という彼女の綺麗な字が俺の目に飛び込んできた。

 あなた様は俺のことで、俺と彼女は素性を明かさず手紙のやり取りをしていた。何故かというと、正直分からない。この匿名での手紙のやり取りは彼女の希望だから、俺はそれにただ従っているだけだった。

 なので俺は彼女の事をほとんど知らないと言っても過言ではない。年齢は大体俺と同じくらい、性別は女、ただいま入院中ということくらいだろうか。あと知っている事と言えば彼女に身寄りがないということ。

 最初、この手紙のやり取りのボランティア自体が身寄りのないお年寄りを対象にしたものだった。年賀状を送ったり、暑中見舞いを送ったり、そんな事をしてコミュニケーションをはかろうというものだった。所謂地域ネットワークのようなものだ。

俺の出す分の住所録にどうやら手違いで彼女のも含まれていたらしく、病床の彼女に間違って送りつけていたようだった。

そんな縁がって彼女と知り合い、楽しみが欲しいから文通をしませんか?と言う彼女の申し出で始めた関係だ。



拝啓 あなた様

 最近日差しが今までに増して強くなってまいりました。

 あなた様はいかかがお過ごしですか?体など壊していませんか?

私はいつも通り、良くも悪くもありません。

すっかり夏になってしまいましたが、もう海に泳ぎに行ったりなどしましたか?

暑く火照った体で入る海はきっと気持ちいいのでしょうね。

 お勧めしていただいた本、読みました。

とっても面白かったです!もうページを捲る手が止まらなくって、ついつい夜更かしをしてしまいそうになりました。(途中で看護士さんに見つかってしまったので未遂です。)

 最近熱中症や日射病がまた流行だしてきたそうです。あなた様もお体には充分お気をつけ下さい。



これといって何の変哲も無い内容だが、俺は彼女の手紙が大好きだった。きれな字で書き綴られた文面は、一つ一つ俺の心に響いた。実のところ、眺めているだけでも嬉しい気持ちになる。

読み終えると俺は元通りにたたみ直し封筒にしまった。そして新しい便箋を出した。彼女への返事を書くのだ。



拝啓 あなた様

 真夏日と言ってもいいほどの暑さが続く中、お変わりない様で一先ず何よりです。

 俺は、俺も相変わらずの毎日を過ごしています。 日々の課題に追われる毎日です。

 海にはまだ行っていませんが、行く機会があったら海の写真でも撮ってきましょうか?

あとお土産も。その時は宅配便になるかもしれませんね。

 本、気に入ってもらったみたいで良かったです。でも夜更かしなんてしないで下さいね。早寝早起きは三文の得です。(あれ?違うか。)

 日向で寝たりして日射病になったりしないよう、気を付けて下さいね。

 それではまた。



「よし。」


 書き終えた文面を見て俺は頷いた。たいして上手い字ではないが読めるような字で書かれていることを確かめ封筒に便箋を入れた。

 あとはこの手紙をもう一回り大きな封筒に入れて病院の住所を書いて切手を貼り投函するだけだ。


「じゃあ俺帰るな。」


 手紙片手に自分の荷物を持ち俺は立ち上がった。


「あ、今日はバイトだっけ。」

「そ。」


 嶋田の問いに俺は短く答えた。

 週三回俺はバイトをしていた。時給もそこそこ良く、それなりに仕事もある良いバイトだ。


「じゃまた明日。」


 そう言って俺は部室を後にした。



「あのさ、日高は会いたいなとか思はないの?」


 大学の第六講義室。講義と講義の合い間、彼女への手紙を書くと言う至福時間になりつつある時を満喫している俺に、隣に座る親友は頬杖をつきながら訊いてきた。ちなみに彼女からの手紙を読むのも俺にとっては至福の時だ。


「会いたいって、誰に?もしかして彼女?」


 俺は手紙を掲げて示した。


「そう、手紙の彼女。一年くらい文通続けてんだろ?会いたいとか思わないわけ?」

「うーん。難しい質問だな。彼女と約束で身元は明かさない事になってるし。」

「それはそれで置いといてさ、ぶっちゃけどうなのさ。」

「まあ、ぶっちゃけると会ってみたいかも。でも今はいいかな。」

「なんでだよ。」

「この関係に満足してるから。それ以外に理由なんて無いだろ?」

「あっそうですか。それはご馳走さん。」


 親友は溜息をつくと教科書を開いた。



拝啓 あなた様

 期末試験も無事に終り、夏休みに入りました。

 期末は無事に通過する事ができました。応援有り難うございます。

 もうすぐ検査なんですね。今度は俺があなた様を応援します!

 ファイト―!一発!

 このかけ声って意外に力が出るんですよね。叫ぶと効果は更なりですよ?お試しあれ。

 あ、そうだ。海行く予定が立ちました。何かお土産の希望とかありますか?

 今財布に結構余裕があるのでたぶんご希望に添えるかと。

 それではまたの機会に。



「まったく、なんでそうなるかなー。」


 気まずそうに笑う嶋田のベッド横の椅子に座り俺は呆れた。


「いやーちょっと予想外の事態が起こったとしか言えないと。」


 嶋田はギブスを嵌められた自身の足を見つめ頭を掻いた。

 夏休みに入ってすぐ、大学の階段踊り場でアイドルの真似して踊った嶋田は見事に転落した。親友と遠巻きにそれを見ていた俺は、アホだなとは思っていたが、ここまではとは思わなかった。嶋田は階段から落ちる時池田屋事件の階段落ちのように、フィギア選手も真っ青の素晴らしい回転と勢いを見せて階段を転がり落ちてきた。バキバキッ!という痛々しい効果音付きで。

 その時の嶋田の顔はホラー以外の何者でもなかったし、見ているこっちもホラーな気分になった。


「アホだアホだといつも思っていたけど、これほどとは思わなかったよ。」


 立って嶋田の足を眺めていた親友は溜息混じりに言った。


「だけど足の骨折だけでよかったよな。」


 嶋田の凄い事は、あれだけ派手に落ちておいて右足骨折だけで済んだ事だ。奇跡としかいえない。まあ、右足の骨折具合は酷いものだが。


「学校では嶋田が奇跡の御技を使ったって専らの噂だぞ。」

「うわ、マジで?俺キリストを超えた?ジーザス!」

「んなわけねーだろ。格が違いすぎる。お前じゃ宗教は創れねーよ。」

「日高ひでー。」


 俺の容赦の無い一言に嶋田は泣く真似をした。


「はいはい。」


 俺の投げやりな対応に不満を持った嶋田は頬を膨らませむくれた。正直いい年になった男がやっても全く可愛くない。


「そろそろ帰ろうぜ。」

「ん、そうだな。」


 親友に言われ、俺は立ち上がった。


「明日なんか暇つぶしになるもとか着替えとか持ってきてやるよ。」

「マジで?助かるー。」


 眉を下げて笑う嶋田に俺も笑い返した。


「あと課題もな。」


 親友のこの一言に嶋田は唸った。新学期までには復活するのだから、入院していても課題はこなさなくてはならないから、あたり前の判断だ。腹をくくって課題もやれ、嶋田。


「じゃあ、また明日な。」


 そう言って嶋田の病室を俺達は後にした。

 病院のロビーを歩いている時、俺はある事を思い出した。


「嶋田の部屋の鍵貰うの忘れた。」

「あ、しまったな。」


 嶋田は実家から出て一人でアパートに暮らしていた。なので嶋田から鍵を借りない限り部屋に入ることはできない。

 幸い病院から出る前に気付く事ができたので、俺は嶋田の病室に戻る事にした。


「俺、嶋田に借りてくるよ。先帰ってて。」

「おお、悪いな。」

「いいって。じゃまたあとでメールする。」

「分かった。じゃまた。」

「おう。」


 そこで俺は親友と別れ、もと来た道を戻った。



 島田の家の鍵を無事入手した俺は本日二度目の帰路についた。まだ今日の彼女への手紙を投函していなかったので、帰りにするつもりだった。しかし嶋田池田屋高速スピン階段落ち事件が起こってしまったので、この事を手紙に書き加えようかなと思う。

俺にとっては面白いけど、彼女にとっては縁起でもないだろうか?

 そんな事を考えて歩いていたせいだろうか。俺はどうも彼女のことを考えていると違う世界に飛んでいるらしく、ボーとしてしまっていて前方から突進してくるモノを避ける事ができなかった。

どん!


「っつー。」


 思いっきり尻餅をついてしまい俺は静かに痛さを訴えた。

 不本意ながら突進物を受け止めてしまった俺は、自分の上に乗るものを見た。

 突進してきたのはどうも長い黒髪の女の子で、俺とぶつかった衝撃の痛さをうめいていた。さらりとした黒髪を少女がかきあげ起き上がると、彼女の顔を見ることができた。

 長い黒髪に透けるように白い肌。大きく黒目がちな双眸は長い睫を有していた。細く華奢な体つきの少女は誰がどう見ても美少女で、彼女を目にすると一瞬時が止まる。

 しかし俺は彼女にぶつかられ押し潰されたのだ。何か一言くらいあってもいいはずだ。そのあたりは美少女だからと言って許される事は無い。

 しばらくうめいていた少女も現状を理解したらしく、さっと顔を赤に染めると慌てて立ち上がった。


「すみません!」


 清んだ声音でそう言われれば、許すしかないじゃないか。しかも言葉には誠意がこもっているし。なんだ、良い子じゃないか。


「いいよ。俺もボーとしてたし。君こそ怪我無かった?」


俺は立ち上がりながらそう言い、埃を払った。この病院は土足なのでそれなりに廊下は汚い。


「あ、いえ、私は何とも。」


 少女は顔を染めたまま俯き、着ている服の裾を握った。なんだなんだ。恥ずかしがっちゃって。可愛いじゃないか。


「そ。それならいいんだ。あ、汚れてるよ。」


 そう言って俺は少女の着る寝巻きの肩についた埃を払った。

 ん?寝巻き?もしかしてこの子・・・・。

 そのときだった。


「いた!シエちゃん!」


 焦った様子の女性看護士がこちらに向かってずんずん迫ってきた。白衣の天使もあったもんじゃないって形相だ。

 ぶつかってきた美少女はその看護士の姿を見て、おろおろとしていた。今までの状況を察するに、少女は病室を抜け出してきた入院患者といったところだろう。

 俺は少女が逃げ出さないようにしっかりと彼女の両肩を掴んだ。


「!」


 突然の俺の行動に少女は驚いたように目を丸くした。訳が分からない様で、少女は俺と看護士を交互に見比べた。

 この場から逃げたいんだろうけど、やっぱりそういう訳にはいかないよな。


「ごめんね。」


 と俺が謝ると、少女も俺の行動の真意を理解したらしく、残念そうに項垂れた。


「ご迷惑おかけしてすみません。」


 息を切らした看護士が近づくとそう言った。


「いえ。困った時はお互い様ですから。」

「もう、シエちゃんたら。急に居なくなってビックリするじゃない。」


 項垂れる少女は俺の服の裾を掴んだ。力の入った手は少し震えている。最後の抵抗と言うやつだろうか。


「ほら、シエちゃん。部屋に戻りましょう。」


 そう言って看護士が脱走美少女の肩をたたくが、彼女は何の反応も示さなかった。


「シエちゃん。」


看護士が少女を再度促すと、何という事だろう。彼女は俺の服の裾を掴んだまま、荒く不規則な呼吸をしてずるずると床に膝をついてしまった。


「シエちゃん!」





俺は今、シエという少女の病室に居る。それは何故か。その理由は巻き込まれた以外の何ものでもない。

 あの時発作を起こした少女は、すぐさま彼女の病室に運ばれる事になった。しかし彼女は俺の服を予想外な握力で握り締め、離そうとしなかった。そのため一枚しか着ていないTシャツを脱ぐ事も出来ず、ここまで俺は巻き込まれ、思いもしなかったか彼女の病室へ来訪することになった。


「重ね重ねすみません。」


 すっかり発作のおさまった少女はベッドに座り深々と頭を下げた。


「気にしないで。」


 俺は用意してもらった椅子に座り、彼女を安心させるようにへらりと笑った。彼女はまだ少し青い顔をしているが、今は大丈夫そうだ。人が発作を起こすところなんてはじめて見たものだから、俺はかなりビックリした。つられてこっちまで発作を起こしそうにさえなった。

 少女の部屋は個室で、彼女の私物とかも結構あり、ほぼ住んでいるようだった。その様子は長いことこの病室にいることを主張しているようだったので、俺は訊いてみる事にした。


「結構長く入院してるの?」

「はい。小六からなので六年くらい。」


 そんなに長く。

長くてせいぜい一、二年程度だろうと思っていた俺は正直驚いた。そんなに長い期間入院しているということは、相当難病なのではないだろうか。

ちらりと少女を見ると、彼女は視線を伏せ、どことなく物悲しい顔で微笑んでいた。

どうもこれは話題にしてはいけなかったようだ。

そうすると必然的にお互いに黙ってしまい、気まずい空気が漂った。

どうにかしてこの空気を回復しようと俺は必死に話題を探した。光ファイバーの如く高速で思考を巡らせていると、少女が今十七歳であるという事実に気づいた。

だとすると俺の二つ下か。意外に近いな。何の手も施されていない少女の顔は同年代の子達よりも幼く見せており、その上線が細く華奢な体つき、というかまだまだ未発達なので幼さをより際立たせた。


「年近いね。俺今大学二年なんだよ。」

「そうなんですか。」

「うん。」

「・・・・・・・・。」

「・・・・・・・・。」


 会話終了。

 やっとのことで捻り出した話題もあっけなく終わり、また気まずい空気がこの部屋を支配した。

 何か他に話題がないか探していると、次は彼女が口を開いた。


「病院にはどんな用できたんですか?」

「あ、友達の見舞いに。」


 と、そこで俺は閃いた。嶋田の池田屋(以下略)を話題にしてしまおうと。

 早速嶋田のことを話すと大うけ。このときばかりは嶋田の馬鹿さ加減に感謝してしまった。

 それからこの嶋田の話をきっかけに俺達はすっかり打ち解けあい、いろいろな話をした。

 そのときに少女の事も沢山聞いた。身寄りがないことや長い年月病床にあることなど、彼女の境遇も話し、俺に匿名の文通相手を思い出させた。そこで俺は「あれ?」と思った。

 この病院の名前は何だっけ?彼女の病院と同じではないか?と。

 答えは「正解。そのとおり。」なわけで。

 ふと、どういう気が向いたのか俺は視線をベッド横に設置された台にやった。そこには『あなた様へ』と見慣れた下手な字で書かれた封筒が一つ置かれていた。

 これはまさかの展開。

 いったい誰がこんな安っぽい物語のようなことを予想しただろうか。こんな形でまさかの文通相手に会えるだなんて!黒船来航並みの衝撃が俺に走った。

どうする?どうするよ、俺!

 もう脳内パンク寸前だ。ぐるぐると考えていると、面会時間終了の放送が流れた。


「あ、じゃあ俺帰るね。」


 名残惜しくはあるが、そう言って俺は帰り支度をして立ち上がった。この問題は帰ってから考えよう。すると立ち去ろうとする俺に、彼女は声をかけた。


「あの、よかったらまた来てくれませんか?」


 おずおずといった様子で彼女は眉を下げて訊いてきた。

 彼女の申し出を断ることなんてできるわけがない。

「明日入院してる友達の荷物を持ってくる予定なんだ。その後でよかったら。」

 彼女はパッと顔を明るくさせた。それを見て俺もつられて微笑む。


「じゃあ、またね。小林詩依ちゃん。」

「え?」


 突然名乗ってもいない名前を呼ばれて、彼女はこれでもかと言うくらいに目を丸くした。それを見て俺は、悪戯に成功したという気分で彼女に笑いかけ、彼女のいるベッドのネームプレートを指し示した。


「あ。」


 ネームプレートに書かれた自分の名前を見つけ、彼女は苦笑した。


「俺は日高一哉。じゃあね詩依ちゃん。」


 俺は軽く手を振ると彼女の部屋を後にした。





 それからというもの、俺は何かと理由をつけては毎日のように彼女に会いに行った。彼女も笑顔で迎えてくれる。そして時間になるまで沢山のことを話した。来る日も来る日も。

彼女と過ごす時間はとても心地がよく、すぐに時間が経ってしまった。このときばかりはなんて時間が経つのは早いのだろうと思ってしまう。

文面だけでなく直に会って話す彼女は、俺が思っていた以上に可憐で心優しい少女だった。しかも美少女。

彼女が俺のことをどう思っているかは分からないが、少なくとも俺はリアルの彼女に好意を持った。もちろん下心などない意味で。



拝啓 あなた様

 海の写真、有り難うございます。水平線を見るのは初めてで地球は丸いんだなって感激しました!

 夕日の写真もとっても綺麗で感動しました。

 あとお土産も有り難うございます。もう、宝物です。大事にしますね。

 それではお体に気をつけて。





「はい海のお土産。」

 そう言って渡すと、彼女は少し驚いたような顔をしてからにこりと微笑み、俺が差し出したものを受け取った。


「有り難う。」


 すっかり仲良くなった俺達は、お互いに敬語を使うことを自然と止めていた。

 そこへ詩依ちゃんの担当の看護師がやってきた。


「あらー詩依ちゃんプレゼント?誕生日だものね。よかったわね。」


 ん?誕生日?

 すっかり顔なじみになってしまった看護師は自分の仕事をさっさと終わらせ出て行った。去り行く看護士の背中を見つめた後、俺は詩依ちゃんを見た。


「誕生日なの?」と問えば彼女はなんとも気まずそうな顔をして、視線を逸らし頷いた。


「言ってくれれば良いのに。」

「なんだか申し訳なくって。」

「何言ってんの。詩依ちゃんが生まれためでたい日だよ。祝わないでどうすんの。うわー何にもプレゼント用意してないや。」


 彼女は少し頬を染めるとはにかんで笑った。

 そうなればプレゼントだ。どうしようかと考えてみて、良い案がふと浮かんだ。

早速俺は鞄から紙とペン、それと鋏を取り出し作業を始めた。視界の端で詩依ちゃんが不思議そうに窺い見ていた。紙を切りその上に文字を書く。


「できた。」


 そう言うと俺はできたばかりの十枚の紙を詩依ちゃんに手渡した。


「『お願い券』?」

「そ。この券を使えば俺を自由にこき使うことができるって券。」


 所謂お金の無いときの『肩たたき券』の様な物だ。良い案だとは思ったが、自分の考えって案外貧相だなとしみじみ思ってしまった。


「即興でしかもこんな物で悪いんだけど、誕生日おめでとう。」


 詩依ちゃんはしばらく『お願い券』を見つめたかと思うと、大事そうにぎゅっと握り締め潤んだ瞳で俺を見上げた。


「ありがとう。」


 そう言って微笑む彼女はまるで淡い色彩の華のようだった。

 そんな彼女に対し俺は少し頬を染めてしまい、照れ隠しに頬を掻いてにやけてみせた。


「来年はちゃんと用意するから期待しててね。」


 その俺の言葉に彼女は曖昧に笑って頷くだけだった。





『お願い券』が使われたのはそれから数日後。詩依ちゃんの始めのお願いは「二人で出かけたい。」というものだった。

 俺はその願いを承諾し、彼女の外出許可を取りにいった。事態は難航するだろうと思われていたが、なんともあっさり許可は下りた。病室を抜け出しただけで追われる身と彼女はなっていたので俺は正直驚いた。何でもあの時の彼女は体調があまり良くない状態だったらしく、安静にしていないといけなかったらしい。しかし今回は彼女の体調も頗る良く、外出してもいいだろうとの判断だった。

 俺が詩依ちゃんの主治医からいくつかの注意を受けてから、二人で街へと出かけた。



寝巻き姿以外の彼女を見るのはとても新鮮で、俺はなんだかドキドキした。元々彼女はとても綺麗なのだが、少し化粧を施した横顔はいつもより大人っぽくて、それがさらに俺の心臓を高鳴らせてしまう。彼女の顔がまともに見れない。

 それにしても今日は人が多い。休日だからだろうか、家族連れやカップルがやたらと目立つ。

 俺達は他人から見るとどんな風に見えるのだろうか。

 そんなことを思いふと、隣にいる詩依ちゃんに視線をやると、彼女は人混みに揉まれ必死になって歩いていた。その姿がなんとも愛らしかったが、詩依ちゃん本人にしては、それどころじゃないという感じだった。

 俺は緩んだ顔を引き締め、詩依ちゃんの手をとった。すると彼女は驚いた顔をしてバッと俺を見上げた。


「逸れそうだから。それに、こっちのほうが詩依ちゃんはきっと歩き易いよ。」


 俺の言い分に少し戸惑ったような顔をしていたが、すぐに彼女は俯き頬を少し染めた。

 今まで俺が彼女の手を一方的に掴んでいる様なものだったが、キュッと彼女の小さな手が握り返してきた。


「じゃあ、お言葉に甘えて・・・・。」


彼女のその言葉を聞き、俺は微笑むと彼女の腕を引いて再び歩き出した。

 この一日の外出で彼女は『お願い券』を使うことを決めていたらしく、彼女は次々と券を使っていった。しかし彼女のお願い事の内容は他愛もないもので、一緒に映画を見て欲しいや一緒にあの店に入って欲しいや、プリクラを撮ろうといったような可愛らしいものだった。

 俺にとって、彼女のお願いはそんなに難しいものではなかったが、彼女にとってはとても勇気がいることだったらしい。

 彼女の『お願い』で入った店で、彼女は目を輝かせて色々な物に目移りしていた。やはり彼女も女の子なだけあって、こういうキラキラとしたアクセサリーや可愛らしい小物が好きなようだった。

 俺は男なので彼女の様な反応はしなかったが、楽しそうにしている彼女を見ているだけで俺は満足だった。

 しかしそれだけでは彼女に気を使わせてしまうので、俺も適当に店内を眺めてみた。そうやってしばらく眺めていたら、俺の目が店の壁にディスプレーされたネックレスに止まった。

  可愛らしく上品に仕立てられたそれは彼女をとても連想させ、似合いそうだなと思った。

 そうだ、これを詩依ちゃんにプレゼントしよう。さすがにあんな即興で作り上げたものでは忍びない。

 思い立ったが吉日。それからの俺の行動は早かった。まず目当てのネックレスを手に取ると、詩依ちゃんに見つからないよう、細心の注意を払いながらレジへと向かい会計を済ませた。そのとき詩依ちゃんは幸運にもキラキラとした世界に夢中だったので、俺の極秘ミッションは上手くいった。

 ミッション成功後はそ知らぬふりをして店内を少し見て回った後、詩依ちゃんに近づいた。


「何かいいのあった?」

「うーん。見ているだけでなんだかお腹いっぱい。」


 くすりと楽しそうに笑って言う彼女につられ俺も笑って「そっか。」と返した。それからしばらく二人で店内を見て回った後に店を出た。

 病院にいて話しをしているときもそうだが、二人でいる時間はどうしても早く過ぎてしまう。この日も例に漏れず、気付いたときにはもうじき日が沈み始めるという時間で、帰らなくてはいけない時刻だった。


「ここまででいいよ。」


 病院の玄関前に着くと、彼女はくるりと俺のほうを振り返ってそう言った。


「今日は有り難う。とっても楽しかった。」


 彼女の顔には明るい笑みが広がっており、その顔から満足してもらったということが分かった。


「俺も楽しかったよ。」


 俺がそう笑顔で返すと、彼女の華のような微笑が広がった。

 俺は彼女のこの華のような微笑が好きだった。まるで淡く上品な色彩の美しい花のようで、日なたの様に優しい温かさがあり、その顔を見ているだけで彼女に感化され心が温かくなった。そんな彼女の顔も、今は夕日に照らされ少し艶やかに見えドキリとした。

 そこまで考えて俺は「そうだ」と思い出した。

 俺にはサプライズが一つあったのだ。


「詩依ちゃん。ちょっと後ろ向いてもらっていい?できれば目閉じてて欲しい。」

「え?何?」


 と首を傾げつつも彼女は目を閉じ後ろを向いてくれた。

俺はポケットから昼間買ったネックレスを取りだすと金具をはずし、彼女の首にかけた。


「もういい?」

「うん。いいよ。」


 目を開いたであろう彼女は胸元の異変に気付きそちらを見ている。後ろ姿なので今彼女がどんな表情をしているのか俺には分からない。しかし、次の瞬間振り向いた彼女の顔は俺が予想していたものではなかった。

 彼女の瞳が涙で濡れていたのだ。

 それを見た俺が慌てたのは言うまでもない。


「ど、どうしたの?」


 まさか彼女の涙を見てしまうとは予想だにしていなかったので、どうしたらいいのか全く分からなかった。泣くほど嫌だったのだろうか?


「ごめん、あの、これは嬉し泣き。」


 だからそんな顔しないで。と彼女は涙を拭いながら俺に訴えた。俺今どんな顔してた?そうとう情けない顔だったとは思うけれど。

 涙を拭ってしまった彼女はもう一度ネックレスを見て、手で覆い、胸に手を当てるようにして俺に向き直った。


「ありがとう。」


 そう彼女は美しく咲き誇る華のように微笑んだ。その微笑みはあまりにも綺麗で、俺はその笑顔に思わず見惚れてしまい、その笑顔は俺の心に自然と焼きついた。

人ってこんなに綺麗に笑えるんだな。

本当にそう、漠然と思った。


「今日最後のお願い。屈んで目を閉じて。」


 彼女は伏目がちに視線を落とし俺にそう言った。心なしか頬が赤い気がする。

 俺は彼女の言う通りに従った。一体何をする気なのだろうか。

チュッ。

 何が起こったのか俺はいきなりの事で理解できなかった。何か柔らかく温かいものが俺の頬に一瞬だけ触れて離れていった。

 驚いて目を開けると、彼女は赤面して目の前に立っていた。


「今日のお礼。」


 そうとう恥ずかしかったのか彼女の声は少し震えていた。

 俺はそんな彼女の姿を呆然と見つめた。彼女の恥ずかしさが最高値に達したのか、彼女は回れ右をして駆け出した。


「またね!」


 と去り際に叫んで。

 俺は頬にそっと手をやった。一体今のは。彼女はお礼と言っていた。あの柔らかく温かい感触は。もしかして、あれは、あれは、キス?

気付いてしまった俺は顔にカッと朱が差すのが分かった。何故か力が抜けてしまい、ずるずるとその場に俺は蹲ってしまった。

今のは反則だろう。こんなことするなんて。あー。もう。ヤバイ。

夢に見そう。





拝啓  あなた様

残暑見舞い申し上げます。

季節の変わり目となりましたがあなた様はいかかがお過ごしですか?

長いと言われている大学の夏休みももうすぐ終りです。

終わってしまう前に一度実家の方に帰ろうと思っています。正月に帰って以来です。

今回新婚の姉夫婦と帰省の時期がかぶってしまったので、すっかりお腹が大きくなってしまった姉と久々の対面です。姉はなんでも出産のために実家に戻ってくるのだそうです。

それではお体に気を付けて。また。



「実家に?」


 そう言った詩依ちゃんの顔は少し驚いているようだ。


「そ。明日から一週間ほど。帰って来いって煩くてさ。一度帰ろうと思うんだ。」

「ここが地元じゃなかったんだ。」

「うん。地方出身なんだ。」

「そっか。」


 詩依ちゃんは神妙に頷きながら編物の続きを始めた。まだ暑いのにもう編物か?と正直思うが、彼女に言わせれば今から編めば使う時期にはできるから丁度いいのだそうだ。


「姉さんが出産準備のために帰省してきてるから帰って来いって。帰ったら帰ったで俺きっと手足のように使われんだろうな。」


 うちの家族はいつも容赦がない。特に姉などはその筆頭だった。俺を何か便利屋だと思っている。あれは絶対そうだ。そう言い切る自信がある。

 はあ、と俺が溜息をつくと彼女はくすくすと笑った。


「せっかくだから孝行しておいでよ。」

「簡単に言ってくれるな。そうだ、お土産買ってくるよ。うちの県の特産物。食事制限とかかかってる?」


 詩依ちゃんは首横に振った。


「特には。」

「よっしゃ。じゃあ楽しみにしててよ。」

「うん。」


 俺たちはにこりとお互いに微笑みあった。至福の時間だ。だがこの至福の時間も俺が実家へ帰ることでしばらくお預けだ。

 ふと詩依ちゃんの編物の手が止まった。彼女は何かを考えるように一点を見つめ、それからベッド横に備え付けられている台の引出しから『お願い券』を出した。

一緒に外出したあの日、彼女が使った『お願い券』は八枚。結局彼女は全てを使い切らなかったのだ。

彼女は思い詰めたような顔をすると、姿勢を正し俺のほうを正面から見据えた。『お願い券』を差しだし静かに言葉を紡いだ。


「お願いです。キスして下さい。」


 ・・・・・・・・。

 俺の思考は一時停止してしまった。まさかのまさかな『お願い』だった。考えどころか一ミリも想像しなかった。一緒に出かけた日の夜に見た夢でもそんな事起きなかったぞ?まあ、それなりの夢は見たけれど。いや、いたって健全なやつだぞ!

それにしてもキスって、キス・・・・。それは、


「ホッペでも?」

「ココとココで。」


 そうはっきりと述べた彼女は自分の唇と俺の唇を交互に指した。

 あー、何て言うか、やっぱり?でもだ!それはいかんだろうさすがに。うーん。

俺はしばらくそんな事を悶々と思案した。その間も彼女は真剣な眼差しで俺を窺い見てくる。そして小さく口を開いた。


「だめ?」


 そんな可愛らしく小首を傾げて訊かないでくれ!俺だって男なんだ。据え膳だって喰うんだぞ!

 う、と俺は思わずたじろいでしまった。ちょっと距離をとったお陰か、俺は彼女の異様な空気を感じ取ることができた。

 なんと言えばいいのか、切羽詰ったような顔で懇願するように見つめ、それでいて今にも泣き出しそうな淋しい、哀しい顔をしていた。それだけじゃない。何だかこのときの彼女の雰囲気は今にも消えてしまいそうだった。

 急に恐くなった俺は思わず彼女の手を掴んでいた。消えてしまわないように。

 彼女は俺のいきなりの行動に少し目を丸くした。


「どうしたの?」

「・・・・いや。」


 そう声を振り絞るだけで俺は精一杯だった。これ以上しゃべってしまったら泣いてしまいそうだったから。

 変なの。と彼女は笑うが、俺は本当に恐かったんだ。それこそ心臓が止まるかと思うほどに。

 俺はむくれたフリをして視線を逸らしぶっきらぼうに彼女に言い放った。


「目、閉じて。」


 彼女は一瞬固まったかと思うとすぐさま意を解した様で俺を見つめた。俺も彼女をきちんと真直ぐ見つめ返した。


「できれば恋人同士がするよなやつを。」


 なんて彼女は真摯な眼差しで言うが、それって結構熱めでは?

 しかし俺も男だ。据え膳喰わぬはなんとやら、一度腹をくくったんだ。


「了解。」


 そう言って俺はゆっくりと彼女との距離を詰めた。それを見て彼女も瞳を閉じる。

 近づく距離。それと同時に分かるお互いの息遣い。俺の心臓は今までに無いくらい早く大きく脈を打っていた。勿論嶋田の池田屋(以下略)を目撃してしまった時の心拍数とは比べ物にならない。嶋田のも、あれはあれで中々心臓がバクバクしたが。しかし今回は心臓の音が彼女に聞こえてしまうんじゃないかと思ったくらい俺の心臓は激しく跳ねていた。

 彼女の閉じられた瞳に影を作る長い睫を見つめたあと、俺も瞳を閉じた。

 二人の距離が「0」になった瞬間だった。





 実家に帰った俺は案の定手足のように、それこそ働き蟻以上に酷くこき使われた。これで無給だなんて、なんて不条理な世の中なのだろう。ゆっくり何てしていられない。

 しかし、今回のこの家の扱いには助かったところもある。詩依ちゃんとキスをしたその日、俺は夢を見てしまった。とても言えたもんじゃないが、それについては言い訳をさせてくれ。俺だって健康な男なんだ!

それいらい俺はちょっとでも休む暇があるとあのときの事を考えてしまう。

 彼女のあの唇。頬の時には一瞬だったしそんなに分からなかったが、彼女の唇は思ったよりも柔らかく気持ちよかった。そして触れ合った時のあの幸福感・・・・・。

 ・・・・・・・・。

 俺はなんてことを考えてるんだ!もうダメだ。彼女に合わせる顔がない。だが会えないのは俺として辛い。でも、どうすれば。あー!


「あんた何、百面相やってんの。」


 たまたま俺の悩ましい現場に出くわしてしまった姉が呆れたように俺に吐き捨てた。


「げ、顔に出てた?」

「うん。それはそれはどこぞの少女漫画の妄想癖のある主人公のように。」

「うわー。最悪。」


 俺は本気でへこたれそうだ。もしかして詩依ちゃんの前でもこんな事してしまうんだろうか。そんなことしたら確実に嫌われてしまう。自制せねば。

「あほくさー」と呟きながら姉は大きなお腹を抱えソファーにゆっくりと座った。


「今何ヶ月だっけ。」

「んー?もうすぐ九ヶ月だよ。」

「男?女?」

「それは聞かない事にしたの。生まれてからのお楽しみ。」


 ねー。と優しく大きなお腹を撫でる姉の表情はすでに一人の母親のように慈愛に満ちていた。こんな顔するなんて一年前からは想像もできなかった。

 今更ながらに俺は新しい命がこの中にいるのだなと思い、何だか感動してしまった。


「触ってもいい?」


 俺がそう言うと姉はにこりと微笑み鷹揚に頷いた。

 俺は命の神秘に肌で直に触れた。


「元気に生まれてこいよ。」





 実家から帰った俺は覚悟を決め詩依ちゃんのもとを訪れた。手には地元特産の土産を持って。

 病院に入り、彼女の病室に着いた。深呼吸をし、ドアをノックする。

 トントン。

 いつもなら「はい。」という彼女の優しい声がするのだが、今日は反応無しだ。

 寝ているのかな?と思い音を立てないようにしてそっとドアを開けて覗いてみた。

 しかし俺の目に飛び込んできたものは驚くものだった。

 健やかに眠る彼女でも、編物をする彼女でも、読書をする彼女でもない。

 俺を出迎えたのは、


 無の空間だった。


何もない、ただベッドと備え付けの家具があるだけの空間だった。

俺の心臓が不安に脈打った。

ドアを完全に開けると中へと俺は侵入した。ベッドの上にはマットが乗るだけで、布団もなければ彼女の名前が書かれたネームプレートもなかった。

部屋のあちこちを散りばめてあった彼女の小物も一つも姿がない。ベッド横の台の引出しを開けてみるがどこの段にも何も入っていなかった。

なんと言う事だろう。彼女の痕跡が何一つなかった。

彼女がココにいたと言う証が何一つ無いのだ。

俺は病室を飛び出した。向かう先はナースセンター。駆ける足が気持ちがはやるせいで縺れそうになり何度も転びそうになりながら走った。その間も俺の心臓は低く深いところで鈍く脈を打っていた。

やっとの思いでナースセンターについた俺は中を見た。そこには何人かの看護士がいて、息を切らした俺の事を不信な眼差しで見つめていた。その中には詩依ちゃんの担当看護士だった彼女の姿もあった。


「どうしたんですか?」


 彼女は俺に近づきそっと声をかけた。


「あの、詩依ちゃんは、詩依ちゃんはどこに?」


 そう俺が言った刹那彼女の顔が歪んだ。





俺は再び詩依ちゃんの病室に来ていた。

いや、正確には元病室に来ていた。

 何もない病室で俺は一人、ベッド横に置かれた椅子に腰を下ろしていた。そうして看護士から聞かされた話を反芻する。


 彼女は先日息を引き取りました。


 その言葉がやけに耳に張り付いて消える事がない。

 消したいのに消えない、あって欲しくのない真実。

 俺が実家に帰っている間、詩依ちゃんの容態は急変した。発作を何回も起こし、集中治療室にも入れられたそうだ。しかし、詩依ちゃんの容態は回復するどころか益々悪化していき、意識不明の所謂植物人間状態になり、最後は心配停止で静かに息を引き取ったそうだ。

 誰か嘘だと言ってくれ。

彼女にもう会うことができないだなんて。

彼女ともう話すことができないだなんて。

彼女にもう触れる事ができないだなんて。

誰か、誰でもいい。嘘だと言ってくれ。

彼女がもうこの世に居ないだなんて。嘘でも言いから。

誰か・・・・・。

何もない、何もかも無くなってしまった空間の中、一人、俺は動かなかった。

今でも鮮明に彼女の様子をこの瞳は映し出す事ができる。黒い長いさらさらの髪。大きく黒目がちな目。華奢で線の細い体。

映し出された彼女は生き生きと動き続けている。あの優しい声音で笑ったり、時々怒ったりしてくれる。そしてあの華のような微笑。俺を魅了したあの綺麗な微笑み。それら全てが色鮮やかに映し出される。

 それこそ、彼女がこの場に存在するかのように。

 俺の頬をつっと雫が一粒伝った。俺はそれを拭くこともなく突っ伏した。

 彼女の温もりをなくしてしまったベッドに。





 長かった夏休みも終りを迎え、講義も始まり、いつも通りの大学生活がまた始まった。

 変わったことといえば、大学校内を行き交う人々の肌の色と、首にギブスを巻き松葉杖で歩く嶋田の姿があるくらいだ。

 嶋田は何だかんだ言って足の骨の回復は順調で、それどころか驚異的な回復力をみせていた。それが新学期三日前、部屋にゴキブリが出てしまい退治しようと思った嶋田は、虫退治用のスプレーをベッドに乗り、天上を這うゴキブリに吹きかけたそうだ。しかし、ゴキブリは暴れ、飛び回り、嶋田に向かって飛行してきた。慌てた嶋田はとっさに避けようとしたが如何せんベッドの上。すぐに足場はなくなりベッドからまっ逆さまに落ちてしまい、首を鞭打ちしてしまったそうな。

 この話を聞いた皆は笑っていたが俺は上手く笑う事ができなかった。

何故か何てよくは分からないが、ただ、もうこの話をして笑いあえる相手はいないんだな、と思ったら自然と笑えなくなった。

 それでも俺は日々を何とはなしに過ごしていた。これといった問題もなくつつがなく。

 手紙を書く事もなく、また手紙を待つ事もなく、平常通りに。





 ある日部室に行くと俺宛に手紙が届いていた。

 夏休み中に暑中お見舞いを身寄りのないお年寄りに出していたのでその返事がきたのかもしれない。こういったタイムラグはよくあることだ。

 しかし封筒には夏休み中でしかも俺が実家に帰っている最中の消印が押されていた。手違いで届くのが遅くなったのだろう。

 さっそく俺はその手紙の封を切った。切った瞬間出てきたのはまた封筒だった。

 俺の心臓が大きく一度跳ねた。

 その封筒には奇麗な字で『拝啓 あなた様』と書かれていた。

 一瞬なにが起こったのか分からなかった。彼女がまだ生きているのかと思ってしまうほど俺は酷く動揺した。

 しかし頭が冷えてみると、消印からしたそれはありえない事だと悟った。

 俺は震える手を必死に抑えながらその封筒を開けた。中は見慣れた彼女の字で文面が綴られていた。




拝啓  あなた様

 季節が変わる今日この頃。あなた様はいかがお過ごしですか?

 さて、今回のこの手紙はたぶん最後になってしまいます。

 それは何故か。

 それは、私がもうすぐこの世とは別の世界に行かなくてはいけないからです。

 実は私は余命半年と言われていました。

 それが丁度この手紙のやり取りを始めた日。だからこの一年という月日は私にとって大快挙でした。

 えー、つきましては、どうしてもあなた様に打ち明けておきたい秘密があります。

 それは、私があなた様の正体を知っているということです。

 実はあなた様が病院でぶつかったのが私でした。

 知るきっかけになったのはあなた様の手紙の内容と実際に会って話す内容の相違。

 あなた様の正体が分かってしまったものの、自分から変な条件を出してしまった以上、そうもその事を明かす事ができませんでした。

 今まで黙っていてすみませんでした。

 けれどもあなた様と過ごした日々はとても充実していました。それまで虚無だった私の世界に光を与えてくれました。この出会いは私にとって掛け替えのないものになりました。有り難う。

 二人で出かけたとき、私の沢山の我が儘に付き合ってくれて有り難う。 あんなにはしゃいだのは久しぶりでした。本当にとっても楽しかった。

 あのネックレスも本当に嬉しかった。泣いちゃったけど、本当だよ?嬉しくて嬉しくて。本当に有り難う。

 キスも有り難う。すごく困ってたの分かってた。だけどどうしても・・・。

 無理させちゃってゴメンね。有り難う。

 こんなにいっぱい我が儘言っちゃたけど最後にもう一つ『お願い券』を使ってお願いをしようと思います。

 お願いなのので、私の事で哀しまないで下さい。

 いや、勿論少しくらいは私の死を悼んで欲しいけれども。(あれ、矛盾?)だけれど、そんなに長い期間哀しんだりしないで下さい。なんだか私が可哀相な子みたいでしょ?

 私はほんの少しの間だったけれどあなた様と出会い、過ごす事が出来て本当に幸せでした。

 それに、私はあなたの心の中の住人になってしまっただけ。あなたの心の中では私は生き続けているんです。(何だか遠まわしに忘れるなって言ってるみたい。)

 ね?哀しむ必要がないでしょ?

 あなたは優しい人だから。きっと泣いちゃうよね。

 だからお願い。私の事で哀しまないで?

 これが最後のお願いです。

 それでは最後にもう一つ、私の秘密を聞いて下さい。

 私はあなた様が

 日高一哉さんが大好きでした。



小林詩依 敬具


 


「こんなのずるいよ。」


 俺は封筒をきつく握り締めた。涙が止め処なく溢れてくる。それを止める事のできない俺は、本能のおもむくままに流す事しか出来なかった。

 俺だって言いたい事があった。沢山あった。

 俺だって君の正体を知ってるよって言いたかった。

 君から手紙が来ると俺はすごく嬉しい気持ちになったんだ。

 君と話すことが出来てとっても幸せだったんだって言いたかった。

 この感情は君がくれたんだ。

 知らず知らずのうちに俺は君に引き込まれていってたんだよ、と言いたかった。

 なのに・・・・・。

 ずるいよ。自分だけ言っちゃうなんて。ずるい。

 俺だって、俺だって君のこと



大好きだったよ。



 今更ながらに気付いてしまった叶わぬ想いと、もう決して彼女に届く事のないこの言葉達は、嗚咽混じりの涙と共に雫となった。






 今日は産婦人科に来ていた。

 姉の子供が生まれたのだ。なので俺は久々に実家に帰り姉とまだ名もない子供を見舞いにきたのだ。

 姉の子供は元気のいい女の子で、姉は苦労する事なく赤子を産み落とした。普通初産って苦しむものじゃないのか?

 姉の部屋を訪ねると、子供は丁度起きていて。姉に抱かれていた。


「でか。」


 これが彼女に対する俺の第一印象だった。何しろこの子は四千グラム近い体重で出てきたのだから、そう言わざるをえないだろう。


「失礼ね。レディーにむかって。」


 姉は俺の反応に眉をしかめて自分の子供を見た。それから何か思いついたのか「そうだ」と呟き、俺のほうを向いた。なんだ?またこき使う気か?


「一哉、この子抱いてみる?」

「え?」

「あんたの初姪。抱いてみる?」

「・・・・・・うん。」


 しばし考えた後俺は頷いた。首のすわっていない、生まれて数日の赤ちゃんを抱くのは正直怖かった。もしも、と悪いほうをどうしても考えてしまうからだ。だが初めて見る自分の姪を抱くという、興奮と好奇心にはそんな不安も負けてしまった。


「落としたら、承知しないからね。」

「え、え?そんな、どうすんの?抱っこの仕方これでいいの?ちょ。」


 物騒な姉の物言いに俺は焦り、うろたえながらも何とか姪を抱くことに成功した。骨はちゃんとあるのかと思うほど彼女ふにゃふにゃで柔らかく、少しの動揺を覚えた。

 ふわふわで薄い黒髪に黒目がちな大きな瞳。

 一生懸命に今から生きようとする彼女の姿は、俺に一夏の記憶を思い起こさせる。

 美しく咲き誇り、そして散っていった思い出を。


 トクン。


 ああ。彼女はまだ生きている。俺の中に息づいている。そう、確かに感じた。

 どんな形になろうと彼女は生き続けている、と。


「姉さん。この子の名前決めた?」

「んー考え中。中々良いのが思い浮かばなくって。」

「なら俺から一案。」

「何よ。」

「詩依。」


 違う形になってしまうけれども、俺は君の事を一生愛しているよ。



ここまで読んでいただき有難うございます。


そして、はじめまして。

こちら、嬉し恥ずかし初投稿作品となっております。


いかがだったでしょうか?


楽しんでいただけましたか?

(そんな内容じゃないですけどね;)


少しでも「好きだな」と、思っていただければ幸いです。

(ちなみに自分は嶋田が好きです。)


ご感想などなど、お待ちしております。


それでは、また...



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