第5話
男は微笑んでいた。微笑みながら、しきりに「こっちへおいで」と手招きをしている。
燕は手を招いている男の方へと歩き出した。そして、男の下へとたどり着いたその時、さっきまで微笑んでいた男の顔が苦痛に歪み、その場に崩れ落ちた。
いつの間にか別の男が、燕の傍で微笑んでいた―――
まただ、と燕は頬を伝う涙を無言で拭った。
「嫌な夢……」
おまけに寝汗まで掻いてしまっている。あの夢を見るときは決まって目覚めは最悪である。
まして、漠然としていたその内容がだんだんと鮮明になってきているような気がするのだ。
そして、断片的ではあるが、夢で見たものとは違うことを時折ふっと燕は思い出すようになっていたのだ。
この夢の話を、燕は何度か広樫に話そうとはしていたものの、なかなか話せないでいた。
なんとなく、それを話すのが憚られるような気がしてならなかったのだ。
「ふーん、それで最後に燕の横に立ってるのが僕ってわけだ?」
おどけた様に広樫は言ってみせた。
「うん……でね、その倒れた人は吉村君だったような気がするの。」
「……夢の話だろ。」
燕が夢のことを広樫に話すことに憚られていたのは、その夢に出てきていたもう一人の人物が吉村にそっくりだったからだ。現に、吉村の名前が出てきただけだというのに、広樫は急に不機嫌になっている。
「夢……だけどさ、何回も同じような夢みてるんだよ?一時期は毎日だったし。」
「だからなんだっていうんだ?」
「私のこと前から知ってるって言ってたから、何か知ってるんじゃないかと思って……吉村君も私のこと前から知ってるような気がするって言ってたみたいだし。」
燕の話を聞いているのかいないのか、広樫は不機嫌そうな表情のまま外を眺めている。
「ねぇ、なんでそんなに吉村君のこと嫌うの?」
「別に嫌ってるわけじゃない。」
「その態度が嫌ってるっていうの。ねぇ、なんで?吉村君いい人だよ?」
「あんな人間のどこがいいんだよ……」
「え?」
どこかで聞き覚えのある言葉だった。以前にも同じことを広樫に言われたことがあると、燕は記憶を辿る。
”どこで言われたんだろう……最近じゃない、もっとずっと昔に……昔に?”
燕が全てを思い出すのに、さほど時間はかからなかった。
「どうした?」
急に考え込んだ燕に、広樫は心配そうに声を掛ける。
「違う……」
「燕?」
全身が恐怖で震え始めてているのを燕は感じていた。何食わぬ顔をして、目の前に座っている広樫が怖くて仕方がない。
”―――あの人を”
「あなたじゃない……」
「何言ってるんだ、どうしたんだよ?」
広樫は困ったような顔をしていた。だが、ここまできて広樫を信用することは燕にはもうできないことだった。
「私はあなたを選んだんじゃない!!」
”―――私から奪った人”
「燕!!」
その場にいるのが耐えられなくなったのか、燕は店を飛び出していった。その表情は、数分前からは想像もできないほどに恐怖に満ちたものだった。
「全てを思い出した……か。」
軽く舌打ちをすると、広樫もまた、燕を追いかけて店を後にした。