もしもオルフェウスがエウリュディケを連れ戻せていたら
新婚早々に最愛の妻を亡くし、一度はその復活を許されたものの、最後の最後で復活に必要な条件を破ってしまった名楽人オルフェウス。
これは、そんな悲劇から外れた「もしも」の世界。オルフェウスが冥王夫妻との約束を守り、エウリュディケを連れ戻すことができた先の、優しい世界の物語。
【哀歌の終幕、その先にて】
稀代の名楽人・オルフェウスの妻であるエウリュディケが、夫の嘆願を受けた冥王夫妻の慈悲によって奇跡の生還を遂げたという報せは、またたく間にギリシャ全土に広がった。
誰もが羨む相愛の仲であり、また、新婚間もない間柄でもあった二人が、共に生きて地上での幸せを享受できる。その吉報に、天地も海も、なんなら冥界でも、あらゆる神々と人々が先を競うように歓喜の声をあげ、若く美しく睦まじい二人に相応しい恩寵に惜しみない祝福を贈った。
――ただひとり、癒えぬ悲哀と果てなき後悔に沈みきったひとりの男神を除いて。
その神の名はアリスタイオス。養蜂と牧畜を職掌として預かる若い男神だ。光明神アポロンが、河神ペネイオスの娘にあたる水の精霊・キュレネとの間にもうけた息子神であり、記憶の娘御たるムーサたちの長女・カリオペがアポロンの愛を受けて産んだオルフェウスの異母兄にあたる。
そして、このアリスタイオスは先頃、オルフェウスの最愛の妻エウリュディケを死に追いやった張本人でもあった。
無論、アリスタイオス本人にそのつもりは毛頭なく、紐解いてみれば不幸な偶然が重なり合った果てに起きた『事故』だったのである。
今から半月ほど前のこと。アリスタイオスがいつものように蜜蜂たちの世話に勤しんでいたところ、木洩れ日の差しこむ木立の中で楽しげに語らう木の精霊たちを見かけた。いずれも花咲く若木のようにいきいきと美しく、その中でも水際立った輝きで彼の目を惹きつけたのが、数日前にオルフェウスとの結婚式を挙げたばかりのエウリュディケだった。
アリスタイオスにとって父を同じくする兄弟は多くいるため、そのすべてと面識を持っているわけではない。無論、オルフェウスの楽の音の素晴らしさも、彼が先だってめでたく妻を迎えたことも、アポロンを通して聞かされてはいたが――それが目の前で楽しげに微笑むエウリュディケだとは思いもよらなかったのだ。
憧れとときめきを募らせて声をかけたアリスタイオスに、当然ながらエウリュディケは仰天して逃げ去ってしまう。そしてその途上、草藪に潜んでいた毒蛇に細い足首を噛まれ、若い命を散らしてしまったのだった。
これから生涯を共にと誓い合った妻を亡くしたオルフェウスの悲嘆は深く、また、エウリュディケの同胞として二人の門出を祝福した木の精霊たちも大いに嘆き悲しんだ。
かくしてオルフェウスは無謀極まりない冥府下りを敢行し、その竪琴の妙音と妻への真摯な愛を以てエウリュディケの生還を許可され、これを見事に果たしたというわけだが――。
「――だからといって、僕の犯した罪が消えてなくなるわけではないんだ」
今やただの空の木箱となり果ててしまった蜜蜂の巣箱を前に、アリスタイオスははらはらと涙をこぼし続けていた。
エウリュディケが一度は死に、冥界の住人になっていたという事実も。彼女の夫や友人たちが悲嘆に暮れ、絶望の底に沈んでいた日々も。
奪われたものが還ってきたからといって、そのときに皆が味わわされた痛みまでもが帳消しになることは決してない。ましてそれが、図らずも自分の行いによって齎してしまったものとなれば、純朴なアリスタイオスの心をへし折るには充分すぎた。
あのとき自分が戯れに声をかけた相手が人妻だったことも、その夫が異母弟であったということも、よりにもよって二人が新婚間もなく幸福の絶頂にある中で降りかかった災難だったということも。
すべてを知らぬままに為したことだった。であればなおのこと、己の為してしまったことが許せなかった。
自分自身に対する尽きせぬ怒りと悲しみは、果てしない後悔となってアリスタイオスを蝕み、やがて、呪いじみた縛鎖として彼の許に顕現した。いっそ己の存在そのものが許せないとまで思い詰めたアリスタイオスを恐れるように、彼が愛情こめて養っていた蜜蜂はすべて逃げ去り、孤独を極めた彼は明けても暮れても尽きることのない自己嫌悪に苛まれ続けていた。
*
そんなある日。暗澹たる面持ちで項垂れているアリスタイオスの許に吹いたそよ風が、今までに聞いたことのないほど美しい音色を運んできた。
それは、冥王ハデスと王妃ペルセポネの固く律した心を溶かし、三つ首の番犬ケルベロスが切ない鳴き声をあげておとなしくなり、冥府の大河の渡し守カロンが快く船を出したと伝え語られる竪琴の旋律。冥界の最下層・奈落タルタロスに収監された大罪人たちも――ほんの束の間ではあるが――永劫の罰とその苦痛から解放され、日頃は彼らを厳粛に監視する復讐の女神エリニュスたちさえ、手を止めた罪人たちに鞭を振るうことを忘れて涙を流したと噂される奇跡の調べ。
「……これが……オルフェウスの奏でる、竪琴の……」
俯け続けていた顔を上げたアリスタイオスは、頬を伝う涙もそのままに、心の深奥まで沁み入るような麗しい旋律にしばし聴き入った。
だが、それは本当にしばしのこと。ここでこの音色が聞こえるということは、それはすなわち、オルフェウスが近くにいるということに他ならない。
アリスタイオスは慌てて周囲を見回し――果たして、竪琴を爪弾きながらこちらに向かって歩いてくる、優しげな風貌をした若い楽人の姿を認めた。そしてその隣には、あのとき自分が声をかけた美しい精霊が寄り添っている。
間違いない。オルフェウスとエウリュディケだ。
謝らなければ、と。アリスタイオスの脳裏に、その思いが鮮烈に閃き渡る。
しかしそれと同時に、二人に合わせる顔がないという恐れと哀しみも浮かび上がった。
自分が楽になるために謝りたいわけではない。己の迂闊さや過ちを悔い、心からの謝意を伝えたいという思いしかないのだ。
だが、それすらも二人にとって迷惑なものだったら――否、二人にとっての自分は憎むべき対象でしかないだろう。姿を見かけることすらも苦痛だと言われても無理はない。
(だって、僕はそれだけのことをしてしまったんだから)
ともかくもいったんここを離れなければと、重い腰を上げかけたそのとき。
九つの弦から指先を離したオルフェウスが、竪琴にも負けずに美しい声でアリスタイオスを呼び止めた。
「待ってくれ、アリスタイオス。どうか逃げないでほしい」
「……!!」
「既に私とエウリュディケが乗り越えた悲しみが、今もなお君を苦しめ続けていることを、たくさんの人たちから聞いてここに来たんだ。
そして、こうして顔を合わせてわかった。君の苦痛は、『苦しむ』という一言では収まらないほどに大きく、深く、そして激しいものなのだということが」
真摯なる楽人の異母弟が物語る言の葉に、臆病な養蜂の神たる異母兄は、僅かな逡巡の末におずおずと二人の方を顧みる。
オルフェウスの眼差しは遠目に窺ったときよりもなおのこと優しく、隣にたたずむエウリュディケの面差しには純粋にこちらを案じる色が湛えられていた。
彼らから注がれる理解と労わりの色が、強張りかけていたアリスタイオスの口を滑らかに動かしていく。
「オルフェウス……エウリュディケ……本当にすまなかった。
僕は、エウリュディケが……僕の前に現れた美しい木の精が、オルフェウスの妻になった女性だということを知らなかったんだ。
だけどそれは言い訳にすらならない。僕の軽はずみな行動が原因で、君たちが地獄のような苦しみや悲しみに突き落とされた……それだけが事実なんだから。
僕のことを憎んでいい。嫌っていい。たとえ呪われたって、甘んじて受け入れる。どうか君たちの気が済むように、僕の身を処してくれ」
アリスタイオスは弁明も弁解もいっさい挟むことなく、ただただ頭を垂れて心からの謝意を伝えた。
そうして、己の無知と愚かさを告白し、それによって生じた痛みの清算をオルフェウスとエウリュディケの手にすべて委ねた。
若き夫婦は互いに顔を見合わせて頷き交わすと、揃ってアリスタイオスの傍らに膝をつく。
淡く落ちかかる二人の影に、思わず目を瞑った――次の瞬間、アリスタイオスの許に齎されたのは、左右の手に触れた軽やかな温もりだった。
今度こそ驚愕して瞼を開けば、片手で竪琴を抱えたオルフェウスのもう片方の手が、アリスタイオスの右手をしっかりと握りしめていた。そして左手は、エウリュディケが差し伸べた華奢な両手に優しく包まれている。
「アリスタイオス。どうかそんなに自分を責めないで。私はあなたを恨んでいません。
確かにあのとき、私は恐ろしい思いをしましたし、戸惑いも覚えました。その中で死を迎えたことへの無念も悲しみも、まったくなかったかと問われれば嘘になるでしょう。
……だけど、今の私は生きてここにいます。オルフェウスの愛が、私を死者の住まう闇の中からすくい上げてくれたとき、私の胸を満たしたのは喜びと幸せだけでした。あなたへの恐怖も、微かに残っていた恨みさえも、すべて消え去ったのです。
そして今……こうして二度目の人生を許された私は、あなたがこれほどまでに己自身を責め苛み、苦しんでいることを知りました。だから……だから本当に、もういいのです」
「エウリュディケの言う通りだ、アリスタイオス。
私は冥界で、死が万人に平等であるがゆえに無慈悲だということを改めて知り……そこから生じる未練や執着の虚しさや悲しさを身に沁みて理解したんだ。
もしも私が君を憎み続ければ、こうして地上に持ち帰ることができた生命(いのち)と愛の調べは二度と奏でられなくなるだろう。憎しみの毒も、恨みの影も、私たちには必要ない。
それに……先ほども言っただろう? 君自身が、己の行いを心から悔いていることが伝わってきたと。だから、私たちは君を許すよ。
……そしてどうか、君が君自身を赦すためのお手伝いをさせてほしい。君がふたたび心からの誇りを以て、君の大切な蜜蜂たちを育めるように」
かつてアリスタイオスに怯えて逃げ惑うばかりだったエウリュディケも、彼女を取り戻せないなら死んでも構わないという悲壮な覚悟を定めていったオルフェウスも、光差さない冥界の暗闇を二人で一緒に潜り抜けた強さを種とした慈愛を息吹かせ、涙に濡れた養蜂の神を優しく見つめていた。
最も傷ついたはずの彼らからの歩み寄りに、そうして差し出されたえもいわれぬほど深い慈悲に、アリスタイオスの双眸には新たな涙が盛り上がる。
だがそれは、悲嘆と後悔の涙ではない。怯えながらも差し出した精一杯の謝意が報われたことに対する安堵と、こうして顔を合わせた異母弟とその妻が無事に己の前で微笑んでいる現実への、今更ながらの歓喜の涙だった。
*
アリスタイオスがひとしきり涙を流して落ち着いたところで、オルフェウスは父神アポロンから授かってきたという一つの助言を伝えてくれた。
彼の心に深々と根を張るあまりに、神としての権能や職能すらも阻害していた強すぎる慚愧の念。当事者同士が和解に至った今、その思いも昇華させなければならない。
そこで、一つの区切りとして、すべての事象を見晴るかす天と地に向けて、自分たちの和解を伝える供儀を行うのはどうかと。
私たちの知る神話において、その供儀は新婚早々にアリスタイオスに口説かれたことが遠因となって命を散らしたエウリュディケと、彼女のよみがえりを最後の最後で叶えられず、失意のうちに命を落としたオルフェウスを悼んだ木の精霊たちの悲しみと怒りを鎮めるために行われる、アリスタイオスの平身低頭の償いの意を示すためのものだった。
しかし、この物語においては少し違う。自然界の美しさと恵み深さの体現ともいえる精霊たちは、本来、慈悲深い存在であることも手伝って、睦まじい友人夫婦が共に冥府からの生還を果たしたことを以てアリスタイオスの過ちを許していた。
ゆえに今ここで執り行われる供儀は、オルフェウスとエウリュディケがアリスタイオスの謝罪を受け入れたことを公に示すものとして、そしてエウリュディケの一度目の死から後、己を責め続けていたアリスタイオスの心魂を過ぎたる罪悪感から解き放つための大切な、そしてより盛大な儀礼となる。
オルフェウスとエウリュディケ、そして彼らの良き友たる木の精霊たちの助けを借りながら、アリスタイオスは己の管轄する農地から上質な捧げ物をよくよく吟味して選び抜いた。
天の神々には、丸々肥えた純白の牡牛と二頭と牝牛を一頭。地上の神霊には茶の牝牛と共に、旬を迎えた瑞々しい果物と、最後の蜜蜂たちが残していってくれた蜂蜜を。海の神々には黒い牡牛と共に、上等なワインを注いで捧げた。
そして、エウリュディケの復活という奇跡を叶えてくれた冥界の王たちには、毛並もつややかな漆黒の牡牛と牝牛を一頭ずつと、芥子の実と蜂蜜を練りこんで焼き上げた菓子を、大地に掘った大きく浅い穴の上へ丁寧に並べた。
かくして、各々の領域に応じて相応しい日を選び、時間をかけて丁寧に執り行った一連の供儀が無事に終わった次の日。
最後に行った供儀――毎月の晦の通例である冥界の神や先祖の霊のための祭儀の日に合わせて行った、冥王たちのための捧げ物の名残に、黄金色の雲のように群れ集うものがあった。
それは、アリスタイオスが己の職務を果たすのに欠かせない大切な相方。彼が慈しんでやまない蜜蜂たちが新たに生を享け、養蜂の神の手による頑丈な巣箱を目指して一斉に飛び立ったのである。
それから後、アリスタイオスはオルフェウスとエウリュディケの忠実なる友となった。
彼は二人の慈悲と協力によって取り戻した権能を惜しげなく使い、蜜蜂が集めてくれた最上の花の蜜をはじめとする農地の恵みを足繁く通っては届け続けた。オルフェウスとエウリュディケも、真面目で親切な養蜂の神と過ごすひと時を愛し、彼が蜂蜜の瓶を片手に訪ねてくるときのオルフェウスの館からは、楽しげな談笑の声と美しい竪琴の旋律が聞こえてくるのが常となったのである。
*
【新たな序曲は果てなく広がり】
オルフェウスとエウリュディケ夫妻とアリスタイオスの和解――その意をこめて執り行われた盛大な供儀は、世界を統治し人々の営みを見守る神々の心を、深い感嘆と強い歓喜で大いに震わせた。
*
冥界の玉座に並んで腰かけるハデスとペルセポネは、悲しみを越えて手を取り合った三人の様子を静かに見守っていた。
冥界の門をくぐった人間は、二度と地上の光を仰ぐことができない。冥界の住人となった死者は言うまでもないが、死者の魂や地下の富を狙って踏み入らんとする生者もまた、不可侵の境界を侵した者としてケルベロスに噛み殺されるか死の精霊たちの餌食になるのが関の山である。
しかし、オルフェウスは神なる両親からの贈り物として熱心に磨き上げた音楽の業と、亡き妻への真摯極まる愛情によってあらゆる神霊や眷属の心を動かし、そうして課せられた条件を『冥王との間で取り交わされた神聖な約束』として守り抜いたことで、エウリュディケと共に光溢れる世界での生き直しを許されるに至ったのだ。
「ペルセポネ。……実を言うと、オルフェウスに『決して振り返ってはならない』という試練を課して送り出したとき……私は『必ず成功してほしい』という祈りと共に、『達するのは無理かもしれない』という哀しみも抱えていたんだ。
冥王たる私の許可と、アポロンたちから受け継いだ音楽の力に守り支えられているとはいえ、本来、地下と地上を繋ぐ道は、命ある人間のための領域ではない。二度と帰さぬという意思に満ちた暗闇が、彼の心の隙をつこうと容赦なく押し寄せていたはずだ」
「……ええ、そうね。それに……エウリュディケとの再会と蘇りを叶えられても、その喜びを享受できるのは地上に辿り着いた後。それまでの道程は期待と幸福に満ちていたでしょうけれど、同じくらいに不安も大きかったでしょう。
それでも……ね、ハデス様。オルフェウスはあなたとの約束を守ったわ。二人とも、わたしたち冥府の神々への礼を最後まで失さず、再びの人生という幸福に驕らず……あまつさえ、怒りや憎しみをぶつけていいはずのアリスタイオスにさえ、許しと労わりの心を以て歩み寄った。これは本当にすごいことだわ」
愛らしい瞳を純粋な賞賛で煌めかせるペルセポネに、日頃は沈着なハデスも仄かに頬を緩めつつ頷いてみせる。
「アリスタイオスは己の過ちを顧みて心から悔やみ、オルフェウスとエウリュディケは彼の真正の謝意を受け入れた。……怒りも悲しみも、憎しみも、すべてを呑みこんだ上でしか生まれない『許し』を以て。
私自身が認めたこととはいえ、冥界に布かれた掟は破られたが……その先で、かくも尊く美しい心が、オルフェウスの至高の旋律と アリスタイオスの甘美な蜂蜜と共に、すべての神と人の心を潤しながら広がっていくのであれば、今回はきっとこれで良かったのだろうね」
「ええ、きっとそうだわ。……ふふっ。今年、冥界の住人への供物として捧げられる蜂蜜は、きっと格別に甘くておいしいものになるわね」
その言葉と共に深まっていくペルセポネの微笑みこそ、ハデスにとっては花の蜜にも負けずに甘美に感じられた。
あの日、オルフェウスの竪琴の音色と共に 慈悲ある決断を促した優しき后を抱き寄せつつ、ハデスは元の静謐さを取り戻した地下の王国で、彼ら夫婦の――そして、二人の得難い友となった養蜂の神の絆が永久であることを願うのだった。
*
天界では、オルフェウスとアリスタイオスの父親であるアポロンが、この腹違いの息子たちの一部始終を誇らしげに見つめていた。
彼にとって今回の出来事は「無知が誘引した不幸な事故とはいえ、神なる息子が、人なる息子の愛妻の命を奪いかけた」という、極めて複雑で非常に悩ましい一件でもある。罷り間違えば更なる悲劇を呼びこみ、やがては怒りに転じて憎悪を引き寄せ、膨れに膨れ上がった怨恨が爆発する事態に発展してもおかしくなかったのだ。
それだけに彼らの和解は、ここしばらく深い憂愁に沈んだきりだったアポロンの心を、えもいわれぬほどの軽やかさと温かさで浮き上がらせる。
「オルフェウス。君が奏でた旋律は、無念のうちに命を落とした妻の魂を呼び戻すに止まらず、過ちに気づいて後悔と哀悼に沈んでいた神の心をもすくい上げた。
アリスタイオス。己の犯した罪を認めるのは恐ろしくもあっただろうに、君は目を逸らすことも逃げ出すこともせずに誠実に向き合った。
憎しみに身を焦がさず、悲しみに溺れきらず、互いに手を取り合って歩み始めた。私の素晴らしい息子たちの選択を、父として誇りに思おう」
そして、詩神の指揮者の美称でも謳われるかの神の背後には、詩歌と芸術の女神ムーサたちが九人揃って居並び、主の愛息たちが和を結ぶ様子に安堵の涙を流していた。
彼女たちはアリスタイオスの母キュレネが産褥で身を休めていた時期、乳母代わりとなって懇ろに世話を焼きながら、新たな男神として生を享けた彼の秘めたる権能を見出したことがあった。また、オルフェウスはムーサの長女カリオペがアポロンの愛を受けて産んだ実の息子であり、八人の妹たちにとってのオルフェウスは、尊敬する主と親愛なる長姉の才覚を色濃く受け継いだ甥でもある。
それぞれに親しく接してきた子供たちを繋ぎ合わせる縁が、恨みと償いという悲しいものにならなかったことを心から喜んだ彼女たちは、彼らが手を携え合った先に息を吹き返したアリスタイオスの権能が世界に更なる恵みを齎すことを確信して、各々が受け持つ楽器を手に取った。
「私たちの愛し子の歩む先は、アポロン様の光輝だけでなく、あの子たち自身がその手で結び合った美しい絆によって支えられています。こんなにも素晴らしい物語を、今歌わずしていつ歌うというのでしょう!」
詩神たちの歓喜の叫びに、彼女たちの主宰者たるアポロンも微笑んで頷き、傍らに置いていた愛用の竪琴を手に取る。
かくして奏でられ始めた豊麗な旋律は、オルフェウスとエウリュディケ、そしてアリスタイオスの三人が示した心の美しさを讃える歌声を乗せて、天と地の果てまで届かせるような伸びやかさで朗々と響き渡るのだった。
*
【奇跡の開花、愛の結実】
それは、エウリュディケのよみがえりと、オルフェウスとアリスタイオスの和解から数年が経ったある春の日のこと。
オルフェウスとエウリュディケが仲睦まじく暮らす、トラキアの美しい森の近くに建てられた小さな館へと、アリスタイオスが息せききって駆けこんできた。彼の訪問そのものは今や珍しいことではないが、常々長閑な空気を纏っているこの男神がこれほどまでに慌てているのは珍しい。
彼は、西風の神ゼピュロスが北風の神ボレアスから聞いたという、とある『奇跡』の噂を確かめるため、居ても立ってもいられずにテバイの森から走ってきたのだった。
そして、オルフェウスの口から事の真相を伝えられたとき――何より、彼の隣で微笑むエウリュディケの姿を見たとき、アリスタイオスは雷に撃たれたような衝撃を受けてその場に立ち尽くす。
「オルフェウス……エウリュディケ……! それは、……それは、本当なんだね……?!」
この上ない喜びに声を震えるアリスタイオスに、オルフェウスは何度も頷き、エウリュディケは柔らかに笑み深めてみせた。
傍目にも明らかなまろみを帯びた腹を――初子を宿した胎を抱くように両の手をあてがった彼女の姿が、そんな妻を背後から支えるように寄り添う彼の表情が、アリスタイオスの瞳から大粒の涙を溢れさせる。
「ああ……神々よ……! 心から感謝いたします……!!
かつての私の過ちによって、一度は冥界に落としてしまったエウリュディケの命が……こうして今、この地上で、新たな命を育んでいる……こんなに嬉しいことが起こるなんて……!」
蟠りを乗り越えた先で真の友人になれた夫婦の幸福に、二人の間に息吹いた新しい命への歓喜に、アリスタイオスはおいおいと咽び泣いた。オルフェウスもエウリュディケもそれを大仰だと笑い飛ばすことなく、養蜂の神が流す真摯な喜びの発露を穏やかに受け止める。
「私たちの子供は幸せ者だね。君に――この子にとっての伯父上に、ここまで祝福してもらえたのだから」
「……伯父上……そうか、伯父上か。となると、僕の甥っ子か姪っ子……僕の……
ぅっ、ううっ……本当に良かった……良かったよ、オルフェウス、エウリュディケ……!」
「アリスタイオス、そんなに泣かないで。この子は、あなたの涙ではなくて、あなたが笑顔で育むたくさんの大地の恵みを受け取って育つのだから」
「ああ……ああ、そうだね。その通りだ。……あ。ああ、そうだ、それなら……」
ふと脳裏にまたたいたひらめきに、アリスタイオスは両の目の涙を慌てて拭うと、満ち足りた微笑みを湛えたオルフェウスとエウリュディケに向き直った。
「オルフェウス、エウリュディケ。その子が蜂蜜を食べられる歳になったら、僕の抱える巣箱から採れるものの中でも最も上等な蜂蜜を贈らせてほしいんだ。僕の大切な友達の子のため、最高に甘くて香り高い蜜を吸える花の在処を探しておくように、蜜蜂たちにも今からよくよく言い聞かせておくから」
「! ああ……楽しみにしているよ、アリスタイオス。君の祝福と厚意に、心からの感謝を」
「私からもお礼を言わせて。……本当にありがとう、アリスタイオス。きっとこの子も喜ぶわ」
養蜂の神としての至上の誇りと、ひとりの友人としての最上の親愛をこめた約束。
アリスタイオスが差し出したその言葉に、オルフェウスとエウリュディケは嬉しそうに笑み深めて頷いてくれた。
*
そして、その数年後。
オルフェウスの竪琴の旋律とエウリュディケの歌う子守唄を聴きながらすくすくと育った幼子は、アリスタイオスの持ってきた最も上等な蜂蜜を初めて口にした瞬間――それこそ花が綻ぶような笑顔を満面に咲かせて、見守る両親と伯父の頬にも笑みを広げていくこととなるのだった。




