第2話 孤独と息の音
朝の光が、どこか白すぎて眩しかった。
箱庭の“空”は今日も美しいのに、心はまるで透明な硝子の中に閉じ込められているみたいだった。
ルシェがいない――
それだけのはずなのに、世界の輪郭がぼやけて見える。
昨日までは、こんな光の加減まで気にしたことなんてなかったのに。
(こんなに広い部屋だったっけ……)
いつもは彼の声が空間を満たしていた。
けれど今は、時計の針が落とす音さえ、やけに大きく響く。
視界の端に、紅茶のカップがひとつだけ置かれたまま。
それを見て、胸がちくりと痛んだ。
「……紅茶、淹れようかな。」
何の気なしにそう呟いた。
でも、声にした瞬間、少しだけ息が楽になった気がした。
テーブルの上に、昨日のティーポットがまだ残っている。
レーヴェに頼めばすぐ片付けてくれるけれど――今は、誰の手も借りたくなかった。
「たしか……こうやってたよね。」
彼が紅茶を淹れるときの動きを思い出す。
手の角度、指の位置、香りを確かめる仕草。
あの時は、ただ見ているだけだった。
お湯を注ぐと、淡い香りがふわりと広がった。
けれど、それは昨日と違う匂いだった。
(あ……全然、違う……)
彼の淹れた紅茶は、香りが柔らかくて、飲む前から温もりが伝わってくるようだった。
でも今、私のカップからは、どこか苦い匂いしかしない。
「……難しいなぁ。」
小さく笑ってみるけれど、喉の奥がきゅっと詰まる。
紅茶を口に運ぶ。
少し渋くて、でもどこか懐かしい味がした。
(味まで覚えてるのに……同じにはならないんだね)
思わず、笑って、そして目が滲んだ。
・
窓の外を見つめる。
箱庭の“空”は穏やかに流れているのに、風は吹かない。
花々も揺れない。
まるで、この世界そのものが息を止めているようだった。
「……本当に、息してないんだ。」
思わず呟くと、カーテンがほんの少し揺れた。
風なんてないのに。
(……ねぇ、ルシェ。今どこにいるの?)
言葉にしても、返事はない。
でも、心のどこかで“聞こえている”気がした。
――君がこの箱庭を呼吸させている。
あの時の声が、胸の奥でふわりと蘇る。
その言葉を思い出した瞬間、体の奥で何かが動いた気がした。
(……なら、私が息をしなくちゃ)
彼がいないから止まったのなら、私が少しでもこの箱庭に息を吹き込めたら――。
彼が希望を見出したこの箱庭を、私が守らなきゃ。
深く、ゆっくりと息を吸い込む。
胸の奥まで空気を満たして、静かに吐き出す。
その瞬間、どこかで“かすかな音”がした。
水の雫が落ちたような、鈴の音のような。
驚いて顔を上げると、机の上のティーカップから、小さな光が一粒、ふわりと浮かんでいた。
それは、まるで微笑むように揺れて――静かに消えた。
「……ルシェ?」
答えはない。
でも、不思議と寂しくなかった。
紅茶の香りが少しだけ変わっていた。
最初よりも、柔らかい香り。
まるで、あの日の夜に飲んだ紅茶のように。
(……あ、やっぱり少し甘い)
気づかぬうちに、頬が緩んだ。
ティーカップを胸の前で包み込むように持つと、
冷たかった手がじんわりと温まっていく。
そのぬくもりが、まるで“彼”の手のようで――胸がきゅっと鳴った。
「……ねぇ、ルシェ。ちゃんと息してるよ。」
囁くと、窓辺の花がふわりと揺れた。
風はないはずなのにそれでも花は確かに揺れた。
――確かに、箱庭が少しだけ“呼吸”した気がした。
「早く会いたいね、ルシェ。」




