第1話 静寂と不安
静寂が優しくも、少しだけ痛く感じる朝。
それは寂しさではなく、きっと“息”を思い出す時間。
彼のいない世界の中で、彼女が何を見つけるのか――
目が覚める。
今までと同じ朝のはずなのに、どこか異様なまでに静まり返っていた。
昨夜まで漂っていた紅茶の香りも、彼の声の余韻も、すべて霧のように消えていた。
昨日までと同じ柔らかな光が部屋中を包んでいる。
けれど、何かが違う。
胸の奥で、小さな違和感が泡のように浮かんでいた。
「……ルシェ?」
呼んでも返事はない。
いつもなら、すぐに扉をノックして「おはようございます」と微笑むはずなのに。
代わりに響いたのは、壁の奥から聞こえる小さな“滴る音”。
この世界に雨なんて降らないはずだ。
それなのに、どこかで雫が落ちる音がする。
(なんだろう……この静けさ)
薄いカーテンを開けると、箱庭の“空”が見えた。
淡く光る雲がゆっくりと流れている。
けれどその光は、いつもより少し冷たい。
・
廊下に出ると、レーヴェの姿があった。
いつも通りの整った笑みを浮かべてはいるが、どこかぎこちない。
「おはようございます、お嬢様。体調はいかがですか?」
「……おはよう、レーヴェ。あの……ルシェは?」
一瞬、彼女の指先が止まった。
けれど、すぐにいつもの調子で答える。
「主は、少し外出されています。」
「外出……?」
外を嫌っている彼が、この箱庭の外に出るだなんて。
何かあったのだろうか、と一縷の不安が過ぎる。
「どこに行ったの?」
「幻影界の中心部へ。――公務の呼び出しに応じております。」
「公務……?」
レーヴェは一瞬だけ、視線を床に落とした。
けれど何かを隠すように、すぐに口を閉ざす。
「詳しいことは、私の口からは……申し上げられません。」
それだけ言って、彼女は頭を下げた。
・
部屋に戻ると、空気が重たく感じた。
心臓が変に落ち着かない。
たった一日なのに、もう彼の存在が“当たり前”だったのだと気づく。
テーブルの上には、昨夜使ったティーカップが残っていた。
乾いた香りがわずかに残っている。
カップの縁に指を触れると、ひどく冷たかった。
「冷めてる……」
その一言が、やけに寂しく響く。
――こんなにも静かなのに、どうして落ち着かないんだろう。
箱庭は変わらず美しくて、風も穏やかで。
でも、“彼のいない世界”はどこか空っぽに感じた。
・
夜になっても、ルシェは戻らなかった。
屋敷の明かりが一つ、また一つと消えていく。
ベッドに横たわると、天井の模様がわずかに揺れて見えた。
(この箱庭……息をしてない)
昨日、彼が言っていた言葉を思い出す。
“君がこの箱庭を呼吸させている”――そう言ってくれた。
でも今、この箱庭は呼吸を止めている。
どれだけ息をしても、この部屋の空気は重いまま。
目を閉じると、遠くで鈴の音がかすかに鳴った気がした。
微かで、幻のような音。
「……ルシェ?」
名前を呼んでも、静寂が返ってくる。
それでも――なぜか涙が出そうになるほど、懐かしかった。
あの紅茶の温度。
あの声の響き。
そして、紅の瞳に映った夜の光。
全部が、今は遠い。
でもその距離が、なぜか彼の孤独を少しだけ教えてくれる気がした。
「……ルシェ、会いたいよ。」
囁くように言葉を落とす。
返事はないけれど、カーテンがふわりと揺れたような気がした。




