第3話 紅茶の温度
「寝る前に侍女にホットミルクでも作るよう伝えておきますね。」
部屋の前でそう言いながら、ルシェは静かに振り返った。
白い手がドアノブに触れた瞬間。
私は思わず――その袖を、きゅっと掴んでいた。
「……紅茶がいい。」
小さな声だった。
自分でもどうしてそう言ったのか分からない。
ただ、その背中がこのまま離れていくのが、少しだけ嫌だった。
ルシェの肩がわずかに揺れた。
彼は振り返り、ゆるく笑う。
「僕の紅茶、ですか?」
「……うん。」
「ふふ、ようやく“僕の味”を試してみる気になったんですね。」
その言葉に、思わず頬が熱くなった。
初めて出された時は、怖くて口をつけられなかった紅茶。
あれ以来何度か出してもらっていたのに、一度も口をつけていなかった。
今はその香りを思い出すだけで少し安心する。
「じゃあ――お望み通り、淹れましょう。」
彼は嬉しそうに言うと、部屋の中央にあるティーテーブルへと歩いた。
指先を軽く弾くと、空間がわずかに揺らぎ、そこに茶葉と銀のポットが現れる。
夢のような光景なのに、漂う香りは確かに“現実”だった。
手際良く紅茶を淹れるその姿は、どこか楽しげで。
湯気が立ちのぼり、花のような香りが広がる。
薄紅色の液面がゆらりと揺れ、まるで夜の薔薇園をそのまま閉じ込めたみたいだった。
「どうぞ。」
差し出されたカップを受け取ろうとした瞬間、指先がかすかに触れた。
一瞬の熱が伝わって、思わず息をのむ。
「……熱くないですか?」
「……あなたの方が熱い。」
口にしたあと、自分でも驚いた。
ルシェの目がわずかに丸くなり、すぐに静かな笑いへと変わる。
「そんなことを言われたのは、初めてですよ。」
湯気が揺れて、甘い香りが広がる。
カップの縁に唇を寄せると、花の蜜のような香りが鼻をくすぐった。
――優しい。
けれど、どこか切ない味がする。
「おいしい……。でも、少し甘い気がする。」
「それは君だからですよ。」
「え?」
「この箱庭においては水も、香りも、空気も……全部、僕の感情ひとつで左右される。その僕は今、君の影響を受けている。君がここにいるだけで、箱庭の均衡が変わるんです。」
「私が、変えてるの?」
「ええ。僕の世界は、君が来てから呼吸を覚えた。」
ルシェはそう言いながら、ティーカップを傾けた。
紅の瞳に灯る光が、揺れる紅茶の色を反射する。
どこまでも穏やかで、どこか壊れやすい表情。
「味見、してみますか?」
「……え?」
彼は自分のカップを持ち上げると、少し笑って差し出した。
「君のとは少し違う。僕の分は、きっともう少し苦いはず。」
差し出されたカップを前に、心臓が跳ねた。
同じ紅茶なのに、彼の唇が触れた場所がやけに意識される。
「……少しだけ。」
そっと口をつけた瞬間、紅茶の熱よりも強い何かが胸に落ちた。
たしかに同じ味なのに、違う。
その違いが、妙にくすぐったかった。
「どうでした?」
「……あなたの方が、深い味がする。」
「それは、きっと僕の方が長く孤独に浸かっていたからですよ。」
微笑みながら言うその声に、胸が締めつけられた。
孤独をこんなに穏やかに話せる人を、私は知らない。
「君が来てから、僕の世界の温度が変わりました。僕の指先も、息も、もう冷たさを保てない。」
彼の手が再び伸び、カップを受け取るふりをして私の指に触れる。
まるで確かめるように、ゆっくりと。
「……でも、今は紅茶のおかげで温かい。」
「いいえ。君のおかげです。」
囁くような声。
その響きに、心臓がまた跳ねた。
紅茶の香りと彼の息が混じり合って、空気が少し甘くなる。
「僕の手、冷たかったでしょう?」
「……うん。最初は。」
「でも今は、君のおかげで温もりを覚えてしまった。君が触れるたび、世界が少し変わる。ねぇ――君は気づいていますか?君がこの箱庭を“呼吸させている”ことに。」
彼の声は、囁きのように静かだった。
紅茶の香りが広がる中、その言葉だけがまるで魔法のように耳に残る。
「……そんなこと、ないよ。私なんて、ただここにいるだけで。」
「それで十分です。君がここにいてくれることが、僕の世界を生かす理由になっている。」
少しだけ笑って、彼はカップを置いた。
その仕草が、あまりにも穏やかで――心の奥が少しだけ緩む。
私は気づけば、紅茶をもう一口飲んでいた。
先ほどよりもずっと甘く感じたのは、気のせいじゃない。
「ねぇ、ルシェ。」
「なんですか?」
「この紅茶、やっぱりあなたの香りがする。」
「それは光栄ですね。」
軽く笑うその声は、今まででいちばん柔らかかった。
夜の光が二人の間を照らし、時間がゆるやかに流れていく。
ルシェは最後に、カップを片付けながら言った。
「紅茶の温度、覚えておいてくださいね。」
「……なんで?」
静かな声が、胸の奥に溶けていく。
彼の微笑みがやけに近く感じて、息が少しだけ乱れた。
「紅茶はね、淹れる人の心を映すんですよ。だから次に飲む時は――君の手で淹れてください。」
「私の、手で?」
「ええ。その時、君がどんな想いを抱いているか……僕は、それで全てわかる。そしてそれがきっと“答え”になるはずです。」
ルシェは立ち上がり、カップを片手にドアの方へ向かう。
その背に、思わず小さく声をかけた。
「……おやすみなさい、ルシェ。」
彼は振り返らずに、けれど確かに笑っていた。
「おやすみなさい。――僕の愛し子」
扉が静かに閉まる。
紅茶の香りとともに、胸の奥にほんのりとした熱が残った。
紅茶の香りのように、彼の言葉はまだ胸に残っている。
穏やかで優しい夜――けれどその温もりは、やがて静寂に変わる。
彼のいない箱庭で、初めて彼女は“孤独”という温度を知ることになる。




