第1話 沈黙の箱庭に咲く華
闇に咲く花のように、閉ざされた世界は静かに息づく。
優雅で、どこか儚い箱庭の中で――
二人の心が、少しずつ触れ始める。
時間の流れが分からない。
朝も昼も夜も、同じ柔らかな光が部屋を包んでいる。
外の景色が見えないだけで、世界の輪郭がぼやけていく気がした。
あれから部屋の外に出ることだけは、許可さえ取れば許された。
ただし、「外」――屋敷の門から外は行けない。
廊下を歩くと、どこからともなく微かな囁きが聞こえた気がした。
風の音ではない。屋敷そのものが呼吸しているような、静かな吐息。
振り返ると誰もいない。
でも、視線だけが確かにそこに残っていた。
(見張り、だよね)
食事は豪華すぎるほど整えられていて、侍女たちは決して私をないがしろにはしない。
でも、その笑みはどこか薄い。
まるで“心”という仕組みを忘れたみたいに。
「……ねぇ、あなたたちは、この屋敷から出たことあるの?」
皿を並べていたレーヴェに問うと、一瞬だけ表情を固め手を止めた。
けれど、それは幻かのように本当に一瞬で。
次の瞬間にはいつもの無機質な笑みに戻っていた。
「外は危険です。主のおそばが一番安全ですから」
(まるで……洗脳されてるみたい)
そう思っても、口には出せなかった。
この屋敷では、言葉一つで空気が変わる気がする。
・
その夜。
部屋のドアが、ノックもなく開いた。
入ってきたのは、ルシェリア。
金の刺繍が施された純白のジャケットを肩から外しながら、何事もないように言った。
「眠れないのですか?」
「監禁されてて呑気に寝れるほど図太くないよ」
「ふふ、それもそうですね」
軽く笑って、彼はベッドの縁へと腰を下ろす。
窓辺のランプが彼の紅の瞳を照らした。
光が揺れて、まるでその瞳の奥に小さな焔が灯ったようだった。
「あなたの世界では、夜は静かに眠るものなんでしょう?」
「この世界は違うの?」
「ええ。夜は“欲”の時間です。誰もが、自分の本音を隠さなくなる」
その言葉とともに、彼の指先がまた私の頬に触れた。
冷たいのに、触れた部分が熱くなる。
「……やめて」
「怖いですか?」
「……怖いに決まってる。でも、それだけじゃない」
言ってしまった瞬間、自分でも息が詰まった。
かと思えば目の前にいる彼も一瞬だけ言葉を失ったようだった。
「そんな顔をされると、……触れずにはいられないじゃないですか」
まるで、確かめるように――その指先が頬をなぞった。
「……っ!」
「……おっと、すみません。」
指先が名残惜しそうに離れる。
けれど視線だけが、まるで鎖のように絡みついた。
髪の隙間から覗く紅の瞳が細く揺れ、そしてどこか熱に浮かされたように静かに息を吐いた。
その一瞬、彼が“理性”よりも“感情”に呑まれているように見えた。
「あなたさえ良ければ、気晴らしに庭園の散策にでも行きますか?」
「庭園?」
「ええ、屋敷内に庭園があるんですよ。……いかがです?」
その言葉に、胸の奥がわずかにざわめいた。
檻の外ではないのに、“外”を連想させる響きだけで息が少し楽になる気がした。
ルシェの声が消えると、部屋は再び静寂に包まれた。
けれどその静けさは、もう先ほどまでの「無音」ではなかった。
微かに、何かの息遣いが混じっていた。
(……また、聞こえる)
部屋の奥。カーテンの向こうから、風もないのに布が揺れた。
これは“屋敷そのものの呼吸”なのか、それとも“この世界の鼓動”なのか。
今の私には分かりそうにもない。
「あなたの庭園って、どんな場所なの?」
問いかけると、ルシェは一瞬だけ目を細めて笑った。
その微笑がまるで“秘密”に触れた子供を見るようで、少しだけ怖かった。
「言葉で説明するのは難しいですね。光のない夜にだけ咲く薔薇があるんです。色も、香りも、あなたの世界とは違う。」
「ただ、一度見たら二度と忘れられない花ですよ」
そう言って、彼は軽く手を差し伸べる。
その指先から、淡い紅の光が散った。
まるで誘うように――檻の中に、幻の道が開かれていく。
「お手を、どうぞ」




