第3話 甘い檻の中で
ルシェの部屋は、まるで世界から切り離された小さな聖域だった。
静かな冷気に包まれているが、寒さは感じない。
空気が澄んでいて、息をするたび胸の奥が少しだけ落ち着く。
「……ここが、ルシェの部屋?」
「ええ。誰も入れたことはありません。あなたが、初めてです。」
その言葉に、胸の奥が跳ねる。
足音ひとつ立てるのもためらわれるほど、静かで穏やかな空間。
それでも、不思議と息苦しさはなかった。
まるで、この部屋そのものが“愛”でできているみたいだった。
「……あれ?その鈴」
ふと目に止まった銀の鈴。
丁寧に重厚そうな箱に入れられているそれに見覚えがあった。
「これがどうかしましたか?」
「私がこの世界に来る数日前に同じような銀の鈴、買ったの。普段は鳴らないのにふとした時に鳴らしてないのに音が鳴る鈴。デザインが素敵だったからその時は一目惚れで買って……」
「……僕もこれはあなたと出会う少し前に知り合いから貰ったものです。今あなたが言ったようにこの鈴も、普段は音が鳴りません。」
「同じものが、幻影界と人間界に……?」
2人して首を傾げる。
この世界に来てからも鈴の音が時々聞こえていたが、まさか同じものがあるとは思わなかった。
「まぁ、考えても仕方ないか!ねぇ、ルシェ!あなたの魔法、見てみたい。」
紅の瞳が驚きに揺れ、やがてやわらかな光を宿す。
「簡単なので良ければ、いいですよ」
「やった!」
彼は静かに手を掲げた。
空気が微かに震え、光が集まって――部屋の中に白い粒が降り始める。
それは雪。けれど、どこか温かい雪だった。
溶けずに、ただ空中を舞っては光に溶けて消えていく。
「……綺麗……」
「ふふっ……それは良かったです。」
頬に落ちた雪の粒を、ルシェがそっと指で払った。
その指先が肌に触れた瞬間、心臓が跳ねる。
「冷たくないでしょう?」
「うん……むしろ、あたたかい。」
「それは、僕の魔力があなたに触れているからです。……あなたがいるだけで、僕の氷はこんなにも優しくなる。」
ルシェの指先が、私の頬に触れた。
今度は、その冷たささえも愛おしく感じた。
「……もう、怖くありませんか。」
「ううん。ルシェの触れる温度、もう分かるもん。」
その瞬間、彼の瞳が優しく細められた。
腕がゆっくりと伸びて、私を抱き寄せる。
「……あなたはいつも僕の欲しい言葉をくれる。」
「ルシェ……」
「嫌でしたら、言ってください――」
彼の指が頬をなぞる。
そのまま、顎を持ち上げるようにして、ゆっくりと顔が近づいた。
吐息が触れ、世界が音を失う。
唇が、触れた。
最初は確かめるように。
けれど次の瞬間、彼の指先が髪をすくい、もう一度、深く触れた。
それは激情ではなく、祈りのようなキス。
触れ合うたび、胸の奥の氷が音もなく溶けていく。
時間が止まったようだった。
ただ、心臓の音だけがふたりを繋いでいた。
彼がゆっくりと唇を離す。
紅の瞳が、切なげに細められていた。
呼吸が浅くて、胸が苦しい。
けれど、それは痛みじゃなかった。
むしろ――生きていることを実感する熱だった。
「……止まれませんでした。」
掠れるように告げるその声が、どこか怯えて聞こえる。
罪悪感を含んだ微笑み。
けれどその指先は、まだ私の頬から離れない。
「止めてほしくなかった。」
囁いた瞬間、彼の指が小さく震えた。
次の瞬間、ふっと息を吐く音。
抱き寄せる腕が、わずかに強くなる。
「……そんなことを言われたら、また理性が試されてしまう。」
「理性なんて、少しぐらい崩れてもいいのに。」
「あなたは……!……はぁ。……時々とてもいけないことを言う。」
ルシェの唇が耳のすぐそばをかすめた。
息が肌を撫でて、身体がびくりと震える。
そのまま、頬に触れる指が髪をすくい、指先で絡め取る。
白銀の糸のような彼の髪が、私の髪と混じり合った。
「ねぇ、ルシェ。」
「なんですか?」
「あなたの魔法、もっと見たい。」
その声に、彼の表情が柔らかくほどけた。
「……いいですよ。」
掌を上に向ける。
そこから生まれた光が、ゆっくりと形を取った。
氷の羽。
雪よりも透き通った薄片がふわりと浮かび、
その一枚一枚が小さな蝶へと姿を変えていく。
舞う蝶は空気を撫でるたびに淡く光を残し、
やがてひとつ、私の肩にとまった。
「……あなたの“護り”です。あなたに何かあれば僕に"アラート"が飛ぶ。それから1度だけですが僕の魔力を使って防壁を築く事が出来ます。」
「ありがとう……本当に、優しいね。」
「いいえ。僕が優しいのではありません。あなたが、僕を優しくしてくれるんです。」
彼がそのまま私の髪を撫で、指先が首筋へと降りていく。
そこに残る淡い氷の紋章を、そっと指でなぞった。
「……まだ痛みますか?」
「ううん、もう平気。でも、ちょっとだけ……怖かった。」
「……すみませんでした。でもどうしても耐えられなかったんです。」
静かに言いながら、彼は額を合わせてきた。
互いの呼吸が混じり合い、
その間に浮かぶのは、雪よりも柔らかな沈黙。
「あなたと出会ってから僕は、確かに愛を知った。自ら孤独になったくせに、孤独を酷く恐れ、誰かを常に待っていた。」
「僕の世界を変えたのは君だ。……責任とってくださいよ」
「……ルシェ。」
「はい。」
「好き。」
その一言に、ルシェの瞳が淡く光った。
空気が揺れ、部屋中に白い花弁のような氷が舞い散る。
それは檻ではなく、祝福だった。
氷の蝶が二人の周りを旋回しながら、光を散らす。
抱き寄せる腕の中、彼の体温がゆっくりと伝わっていく。
「……ええ、知っています。けれど、聞けてしまうと――嬉しいものですね。」
紅い瞳が細まり、唇が再び触れた。
今度は少し深く、少し長く。
ただ、確かめるように。
息が重なり、彼の指が髪を撫で、背を優しくなぞった。
その仕草ひとつひとつが、言葉より雄弁に「愛している」と告げていた。
やがて唇が離れた。
二人の間に残ったのは、ほんのわずかな熱と、氷のきらめきだけ。
「……どうしましょう。魔力が暴走しそうなくらい嬉しいです。」
「凍らせちゃ嫌だよ?」
「ええ。そんなヘマはしません。……今は、ただ隣に。」
静かに微笑み合いながら、二人の影が重なった。
氷の檻が柔らかく光り、
箱庭の夜が、ゆっくりと二人を包み込む。
・
どこからか、鈴の音がふたつ、重なった。
それは偶然ではなく、運命という言葉でも足りない。
彼の孤独が、彼女の心を呼び寄せた。
彼女はただ“呼ばれた”のではない。
――出逢うべくして、此処に来た。
そう、これは必然の物語。




