閑話 侍女の祈り
この屋敷には、季節というものがない。
外の空がどんな色をしているのかも、誰も知らない。
主の魔力がすべてを包み込み、時間すら穏やかに歪めているからだ。
私――侍女レーヴェは、この空間の中で創られ生きている。
そして、あの“人間の娘”が来てからというもの、屋敷はほんの少しだけ騒がしくなった。
最初に彼女を見た時、息を呑んだ。
傷だらけで、震えていて、それでもどこか凛としていた。
主が“拾ってきた”人間はこれまでにも何人かいたけれど、
あんなふうに目の奥が生きている子は初めてだった。
彼女なら今までの方のように、壊れることなく生きることができるのだろうか。
「おはようございます、レーヴェさん」
いつかの朝、彼女はそう言って笑った。
人間が笑う顔を、あんなにまぶしいと思ったのは初めてだ。
この屋敷に“光”なんてものがあるとしたら、それはきっと彼女のことだろう。
(……けれど、それは同時に毒でもある)
主――ルシェリア様は、もともと静かな方だった。
必要な時にしか言葉を使わず、情を示すこともほとんどない。
なのに今はどうだろう。
あの娘の前では、あの紅の瞳が柔らかく揺れる。
笑うのだ。あの方が。
そんなものを見てしまうたびに、胸がきゅっと締め付けられる。
羨ましいのか、恐ろしいのか、自分でも分からない。
ただ一つだけ確かなのは――
“主が変わった”ということだ。
彼女が部屋を出るたび、私はこっそり跡を拭う。
主が触れたであろう花瓶。
彼女のために整えられた紅茶。
魔力の残り香が、いつまでも甘く漂うシーツ。
こんなのまるで“恋”そのものだ。
「ねぇ、レーヴェさん。ルシェって、いつもあんな感じなの?」
「……どんな感じ、とは?」
問い返すと、彼女は少し考えてから言った。
「なんか、優しいのに、ちょっと寂しそう」
(気づいてしまったか)
思わず手が止まった。
紅い檻の中で、孤独を抱える主の姿を知ってしまったこの子が、どこまで近づくのか、どこまで許されるのか。
そんなことを考えてしまう。
「……あの方は、優しい方ですよ。けれど、それは誰にでもではありません」
「じゃあ、私は特別?」
彼女は笑った。無邪気に、悪意なく。
それが何より痛かった。
ふと思う。
もし主が普通の幻影種、もしくは人間であったなら――
彼女のように誰かを抱きしめ、同じ時間を歩むことができたのだろうか。
けれど主はそうではない。
生まれ落ちたその時から永遠を持つ主は
愛すらも慎重に選ばねばならない。
そしてその“選ばれたひとり”が、今まさにここにいる。
主の魔力が彼女を包むたび、屋敷全体が柔らかく震える。
まるで世界が、彼女の存在を祝福しているようで。
(それでも――)
夜になると、私は一人で祈る。
この屋敷の片隅、誰も来ない古い礼拝堂で。
祈る相手などいないのに、それでも手を組まずにはいられない。
「どうか……彼女が壊れませんように」
「どうか……主が幸せを手に入れられますように」
それは祈りというより、呪いに近い。
お慕いしている我が主。
貴方様が望む幸せ、叶ういつの日かを見届けるのが私の"夢"でもあるのです。
私は貴方様に創り出された虚空の存在。
それ以上でもそれ以下でもなく。
ましては感情なんて持ち合わせるはずもないのに
――どこか心臓が軋むのを感じてしまった。
・
部屋に戻る途中、ふと扉の隙間から声が漏れた。
「……ルシェ、それやだ……」
「嫌じゃないでしょう?そんなに愛らしい顔をしているのに」
息が止まる。
触れてはいけない音。見てはいけない優しさ。
それでも、耳が離れなかった。
「ああでも大丈夫ですよ。君が本当に嫌がることは、何もしませんから。」
(……いけない、見ては……)
けれど、足が動かなかった。
声が、紅茶の香りのように滑らかで。
空気に溶けて、耳の奥に絡みつく。
蝋燭の火が揺れていた。
彼女の影と、主の影がひとつに重なり、
ゆっくりと離れて、また重なった。
その度に、光が小さく瞬く。
まるで夜が、ふたりのために呼吸しているようだった。
布が擦れる音。息の合間に微かな震え。
彼女の小さな声が聞こえた。
「……ルシェって優しいのに、意地悪」
その言葉に、胸が締め付けられた。
私が知らない“優しさ”を、主は見せている。
私たちに向けられることのない、ひどく人間に近い温度を。
(主……どうして、その方だけ……)
嫉妬ではない。たぶん。
けれど、祈りのように胸の奥で何かが痛む。
彼女が泣いて、彼が笑う。
その繰り返しの中で、世界が静かに歪んでいく。
やがて、蝋燭の光がゆっくりと消えた。
紅の魔力が一瞬だけ波のように広がり、
屋敷全体が息を吐くように静まった。
その静けさは、まるで“愛の残り香”
私は、再び礼拝堂へ向かった。
震える手で灯をともして、ひとり祈る。
「どうか……この夜が永遠になりませんように」
その願いが叶うかどうかは、神ですら知らない。
ただひとつ言えるのは――
箱庭の主と人間の娘が出会ってから、この屋敷の夜は、もう決して“静寂”ではなくなった、ということ。




