閑話 幻想の外で
呼び出しの文が届いたのは、彼女が眠りについた直後だった。
幻影界の中心部――“白の宮殿”で行われる上級貴族たちによる統治会議。
腐った上級貴族たちによる、自分の利しか考えない会議。
要は、くだらない政治ごっこだ。
「……全く、彼女の傍を離れたくない時に限って、こういう呼び出しが来る」
そう呟いて、箱庭の扉を抜けた。
冷たい空気が頬を刺す。
外の世界は相変わらず騒がしく、醜い。
全てが争いと欲にまみれて息苦しい。
・
「お久しぶりですね、“箱庭の主”ルシェリア公爵。」
声をかけてきたのは、だらしない体型の青い外套を着た男。
ダルン=ヴァイゼ。
下位貴族の分際で、権勢と金にしか興味のない浅ましく卑しい男だ。
そんな奴は、蛇のように細い笑みを浮かべ、何ともない表情で僕の隣を歩き始めた。
「久しぶりですね。……要件は?」
「そんなに冷たくするなよ。会議の前に少しくらい話そうじゃないか。どうだ最近は。噂の例の“人間”はまだ飽きていないのか?」
問われても、表情は動かさない。
軽く眉を動かすだけで、冷ややかに言葉を返す。
「くだらない噂話には興味がありません。」
「ほう?でもな、あんたが興味なくても……俺があるんだよ。」
ダルンは口の端を歪に吊り上げた。
その笑みには、獣が餌を見つけた時のいやらしさがあった。
「“飼ってる”んだろう?人間を、しかも女の。俺も興味があるんだよ。どんな鳴き声をあげるのか、どんな味がするのか。」
氷のような沈黙。
それでも表情を変えずに言った。
「口を慎め。」
「おっと、怒るなよ。ちょっとした冗談だ。……だが、なぁルシェリア公爵。幻影種にとって“人間”は玩具みたいなもんだろう?
見た目が良ければ愛玩にして、飽きたら捨てる。あんただって、その娘に夜の相手くらい、してもらってるんだろう?」
足が止まった。
場の空気が、一瞬で凍り付く。
奴はそれでも尚、笑いを崩さない。
「……なんだ? 図星か? それとも――」
「黙れ。」
一言。
その声音だけで、部屋の温度が十度下がる。
床の石が音を立てて凍り、壁の彫刻が白く染まる。
奴は慌てて後ずさるが、足が凍りついたように動かない。
「貴様……今、何と言った。」
「な、何って……だ、だから……“女なら夜も――”」
「口を、慎め。この外道が。」
息が凍る音。
世界の温度が一気に下がる。
気づけば、僕の指先から“氷”が生まれていた。
床に薄く広がるそれは、見る間に奴の足元を這い上がり
その喉元に、細い氷の刃が突きつけられた。
「次、“彼女”を汚す言葉を吐くのなら、その舌ごと凍らせてやろう。」
「ひ……!」
奴の顔から血の気が引く。
悲鳴にもならない声を上げ、凍りついたまま震えていた。
「忘れるな、ダルン。貴様が人の女をどう扱おうと、心底興味はない。だがな――」
わずかに目を細める。
紅の瞳が淡く輝き、奴の姿を射抜く。
「“彼女”は違う。貴様のような穢れた者が、その姿形を思うことすら僕は許さない。」
吐き捨てるように言うと、氷がぱりんと音を立てて砕け散った。
奴は膝をつき、震えながら息を吐く。
その姿を背に、踵を返した。
(……くだらない。下らない。本当に、何も変わらない。)
幻影界の上層も下層も同じだ。
誰もが支配と所有しか知らない。
そんな世界に、彼女を関わらせるわけにはいかない。
――だから、僕は箱庭を作ったんだ。
・
会議も形ばかり。
上に立つ者たちは、民の苦しみより自分の立場ばかりを案じている。
代わり映えのない議論に思わず欠伸を噛み締める。
こんなくだらないごっこ遊びのために呼び出されたのかと思うと、なんだか笑えてくるまである。
ふと、胸の奥が微かに疼いた。
遠くから“息”のような気配が届く。
柔らかくて、暖かい――彼女のものだ。
(……あぁ、これは。)
胸が震える。
まるで心臓がもう一つ増えたみたいに、箱庭の方角が熱を持つ。
指先を見下ろすと、氷が溶けて雫になって落ちた。
(……聞こえていますよ、ちゃんと。息をしてくれている。)
不思議なほど胸が満たされていく。
ずっと燻っていた怒りも冷たさも、一瞬で消えていった。
あの声が、確かに僕を呼んでいる。
「……ふふ。まったく、困った子だね。」
頬が緩むのを、自分でも止められなかった。
「――帰ろう。」
全てを投げ出すように小さく呟いて、立ち上がり広間を後にする。
背後で誰かが何かを言っていたが、今の僕の耳には何も聞こえなかった。
・
「おいおい、また途中で会議すっぽかしたのか。ルシェリアよぉ」
背後から声。
振り返れば漆黒の髪に悪魔を象徴する角を持つ男。
同じ公爵の称号を持つが決して相容れない存在。
――ザルヴァドールが立っていた。
いつもの皮肉めいた笑みを浮かべながら、こちらを見ていた。
「文句なら後日聞こう。……今は急ぎの用があるんです。」
「用、ねェ。……噂の “あの子”のところだろ?」
沈黙が答えだった。
ザルヴァドール――ザルはため息をつき、目を細める。
「入れ込みすぎんなよ。俺たちみたいな幻影種は人間なんざ惚れ込んだら最後――あの眩しさに焼かれて壊れちまう。」
「壊れても構わない。あの子の居ない冷たい静寂より、あの子がいる焼かれるほど眩しい世界の方が、生きる価値がある。」
「おぉ……まじかよ。現"幻獣の王"、しかも氷の魔神の末裔でもあるお前が焼け死んでいいって?どんな心境の変化だよ……」
「王とか魔神とか関係ありません。彼女の前では僕だってただの“ひとりの男”ですよ。」
そう言って、扉を開いた。
箱庭の方角から、柔らかな風が吹き抜ける。
紅茶と花の香り。――あの子の匂い。
胸の奥で、何かが確かに脈を打った。
「もうすぐですね。」
静かに目を閉じる。
次に瞼を開けば、彼女がいる。
夢と現実の境を越え、彼女の元へ――。
「……ただいま。」
声を落とすと、空間が光に満ちた。




