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第3話 眠りの向こうで

朝が来ても、夜が来ても、世界は息を潜めていた。

光も風も、まるで彼の不在を知っているかのように。

箱庭は今日も変わらず美しく、光はやわらかく降り注いでいる。


けれど、心のどこかでずっと――何かが欠けていた。

毎朝、扉を開けるたびにレーヴェが頭を下げる。


「主のご帰還については、まだ知らせが届いておりません」


もう何度、その言葉を聞いたか分からない。

レーヴェの微笑みは変わらないけれど、その声の奥にも少しだけ疲れが滲んでいた。


(そんな顔、しないで。……不安になるじゃん)


笑ってみても、胸の奥は冷たいままだった。

部屋の隅には、あの日と同じティーポット。

もう香りも薄れてしまった紅茶の残り香が、かえって寂しさを強調する。


「ねぇ、ルシェ……いつ帰ってくるの?」


声は空気に溶け、壁にも届かない。

返ってきたのは、沈黙だけだった。

その静けさが、彼の不在をいやというほど教えてくる。



夜。

ベッドに横たわると、天井の模様がゆっくりと滲んで見えた。

何度も寝返りを打っても、眠気は訪れない。


――会いたい。

そう思った瞬間、胸の奥が熱を持った。

紅茶の香りも、声の響きも、記憶の底でやさしく疼く。


(ねぇ、ルシェ。寂しいよ。あなたのいないこの冷たい箱庭は)


そのまま、まぶたを閉じた。

静寂の中で鈴の音が鳴り、世界がやわらかく溶けていくような感覚があった。



気づけば、私は夜の庭園に立っていた。

淡い光を放つ薔薇が咲き誇り、風が髪をやさしく撫でる。

普段の箱庭の空気とは違う。ここはきっと――夢の中だ。


「……ルシェ?」


名前を呼んだ瞬間、夜の空気が揺れた。

遠くから、柔らかな足音が近づいてくる。


「お久しぶりですね、元気にしていましたか。」


その声。

紅茶よりも甘く、夜の闇よりも深い。

振り返ると、そこに彼が立っていた。

いつものように穏やかな微笑みを浮かべ、光の中に溶けるように。


「うわぁ、どうしよう。会いたすぎてついに夢まで……単純すぎる自分が恥ずかしいよ……」


「ふふっ、混乱していますね。ここは確かにあなたの夢だ。ですが、夢であって夢ではない。あなたが僕を呼んだのですよ。」


「久しぶりすぎるそのルシェ構文……どうせ夢なら言っちゃうけど。ルシェの話っていうか言い回しって難しすぎて時々分かんないんだよね。」


「おや、それは失礼。これからはもう少し分かりやすく伝えますね。」


ルシェはそう言って、ひとつ微笑んだ。

その仕草ひとつで、胸がいっぱいになる。

今にも泣いてしまいそうで、でも泣きたくなくて。


「ずるい……ずるいよ、ルシェ。もう夢なら全部言っちゃうけど公務って何してたの?黙って行かなきゃいけなかったの?……それともいってきますも要らないくらいルシェにとって私は浅い存在だった……?こっちはずっと寂しかったんだよ。静かで冷たい、あの箱庭でずっと1人で……」


言葉が溢れた。

押し込めていた想いが、夢という薄膜を伝って零れ落ちる。

ルシェは驚いたように瞬きをして――すぐに、やわらかく笑った。


「……ごめんなさい。けれど君の声、ずっと届いていました。」


「嘘だぁ!夢だから都合のいいことばっかり言わないでよ!この夢版ルシェめ!」


情けないくらいに涙が零れる。

夜は"欲"の時間だといつかの彼も言っていた。

きっとこの寂しい気持ちも全部そのせいなんだ。


「嘘じゃないですよ。それに君が息をしてくれたから、箱庭は凍らずに済んだ。」


「……私の、息が?」


「ええ。君の息が、君の想いが、僕を導いたんです。」


ルシェが近づく。

その距離が縮まるたび、世界が少しずつ色づいていく。

紅茶の香りと、夜の薔薇の甘い匂いが混じり合い、夢の中の空気を染めた。


「君が“呼吸”してくれたおかげで、僕はここに来られた。」


「……そんなの、もっと早く教えてくれたらよかったのに!そしたら!もっと早く会えたのに!!悪魔!鬼!」


「ふふ、残念幻獣です。ですが君が少しずつ僕を想ってくれたからこそ、届いたんですよ。」


彼の指が、私の頬をなぞる。

夢なのに、ちゃんと温かい。

指先から伝わる熱が、胸の奥の冷たさを溶かしていく。


「泣かないでください。」


「……泣いてないもん。」


「そうですか? でも、涙の味がしますよ。」


そう言って、彼は私の瞼に唇を寄せた。

触れた瞬間、世界がやわらかく震えた。

夜の薔薇が一斉に光を放ち、空に浮かぶ星が少しだけ近づく。


「もうすぐ会えますよ。」


「……本当に?」


「ええ。すぐです。次に目が覚めた時には隣に居ると約束しましょう。」


その声が、やけに遠くに聞こえた。

視界の端が霞み、身体がふわりと浮かんでいくような感覚。


「……やだ。もう少しだけ、ここにいたいよ。」


「僕もですよ。でもずっとここに居ても何も変わらない、それこそ不変です。あなたは生きているのですから。」


「ルシェ……」


名前を呼ぶ声が、夢の空に溶けていく。

ルシェは静かに微笑んで、囁いた。


「またすぐに、逢いましょう。」


その瞬間、光が弾け、世界が消えた。



……遠くで、何かの音がした。

スプリングが軋むような、微かな音。

カーテンが揺れ、空気の温度が変わる。


寝室の空気が、少しだけ重くなる。

まぶたの裏を通して、誰かの気配を感じた。

髪を撫でる手。頬に触れる、ひどく懐かしい温度。


ワインと鉄、そしてほのかな紅茶の香りが混ざり合う。

それは、夢の中でさえ忘れられなかった“彼だけの匂い”


そして静かな声が、耳元で囁いた。


「――ただいま、帰りました。」


夢と現実の境目で、涙がひと粒だけこぼれた。

けれど、その涙は悲しみではなく、ようやく届いた“温度”の証のようだった。


触れられない距離にいるのに、確かに息づく温もり。

その微かな光が、箱庭の奥で世界を呼び戻していく。

これは孤独ではなく、“再会の予兆”。


――どうか、この息が彼へ届きますように。

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