第1話 その紅は檻よりも甘く
彼の紅は、檻よりも甘い。
――孤独な創造主と、囚われた少女の物語。
目を開けた瞬間、暗闇だった。
何も見えない。息苦しいほどの静けさ。
どこか遠くで何かが軋む音だけが現実を教えてくれる。
そして、男の声が響く。
「続いての品は――“人魚の鱗”五百グラム!」
(……オークション?)
乾いた喉がひゅっと鳴る。
暗闇を作りだしているのは大きな黒い布。
両手は後ろで縛られ、冷たい鉄格子の感触が背中を撫でた。
皮膚にまとわりつく汗が冷えていくのがわかる。
空気が重く、鉄と血の匂いが混ざっていた。
私――檻の中にいる。
(なんで……私、どうしてこんなところに?)
記憶にあるのは仕事帰りにふらっと立ち寄った、見慣れないアンティークショップ。
それから小さな鈴の音。
音に導かれるように、まるで誰かを探すように足を進めた。
奥から感じるその気配に引き寄せられて――
そこから先の記憶が、すっぽり抜け落ちている。
「それでは次の品です。“人間種の少女”――希少な完全個体!食すもよし、愛玩にするもよし。」
息が止まった。
私のことだ。
ざわざわと空気が震える。
黒い布が取られ、眩い光と共に格子越しに外の世界が見えた。
「可愛い顔だ」「人間なんて久しぶりに見た」
「血を抜けば長持ちするぞ」
飛び交う声、下賎な笑い声。
人じゃない。
そこにいるのは牙を持つ者、角を生やした者、翼を広げる者
まるで悪夢そのものだ。
(やばい、ほんとにやばい。食べられる……!)
「五千万クリートから!」
「六千万!」「八千万!」
競り声が飛び交う。
聞いたことのない通貨の単位。
そして、見たことのない“観客たち”。
牙をむいた獣のような顔、青白い肌、輝く角。
全員、人間じゃない。
(……夢、だよね? だとしたら最悪だ)
恐怖より先に、冷静な思考が頭を駆け巡った。
逃げなきゃ。
その意思1つだけで、震える身体を動かした。
檻の床に散らばる小さなガラス片。
それを足先で引き寄せ、後ろ手に縄を擦る。
ギリ……ギリ……。
指先も切れて、血が流れるのがわかる。
でも、痛みなんてどうでもよかった。
「一億!」「一億五千!」
付けられていく自分の命の価値。
次第に大きくなるざわめきに焦りとほんの少しの恐怖。
刹那、誰かの視線を感じた。
まるで背筋を撫でるような、冷たい気配。
(……誰か、見てる?)
思わず弾かれたように見上げると、いた。
暗がりの中、上段のバルコニーに立つ影。
金色のワイングラスを揺らしながら、静かにこちらを見下ろしている白い影。
目が合った。
その瞬間、心臓が一拍遅れて跳ねた。
紅い瞳――夜の宝石みたいに冷たく、美しい。
心なしか細められた目に思わず視線を逸らした。
ざわめきがさらに熱を帯びる。
けれど、その中で誰かが言った。
「おい、あの子……動いてないか?」
「さっきより姿勢が違うぞ」
会場がざわりと揺れた。
(しまった…!)
オークショニアが眉をひそめ、係員に目配せする。
「確認を。状態に異常があれば値が下がる」
(でも逃げるなら今しかない…!手首の縄はもうすぐ切れる…!)
鍵を手にした係員が檻の前に立った瞬間、縄が切れる。
鍵が開かれたのを確認して
私は一気に立ち上がり、力任せに扉を蹴った。
「きゃあっ!?」「逃げたぞ!」
会場が騒然とする。
ざわめきと叫びと鎖の音を振り切って、ただ走った。
心臓が痛い。息が苦しい。
けれど止まれない。
止まったらそれこそ本当に終わりだ。
もつれそうになる足を必死に動かす。
怒号が後ろから聞こえる。
何人追ってきてるかも分からないくらいの足音。
このまま真っ直ぐはしっているだけじゃ追いつかれてしまう。
意を決して、曲がり角を抜けたその時――
「こちらへ」
低く、穏やかな声が耳元で囁いた。
腕を掴まれ、壁際に押しつけられる。
見上げた先には純白のジャケットに金の刺繍。
そして、見覚えのあるあの紅の瞳。
「……あなたは、さっきの……!」
「ふふ。逃げる人間を見るのは久しぶりですね。」
口元に浮かぶ微笑は、愉悦に満ちていた。
艶やかで絹のような白い髪が頬をかすめる。
ワインのような香りと微かに鼻腔をくすぐる血の匂い。
(息ができない…怖いのに、綺麗。)
芳醇で甘く、それでいて鉄の匂いを隠しきれていない。
心臓の奥で、何かが溶けるような音がした。
「怖くないのかい?」
「怖いにきまってる!」
指先が頬に触れる。
冷たいのに、なぜか心臓が熱くなる。
穏やかに放たれる言葉が甘く絡みつく。
まるで、見えない鎖をかけられたみたいに。
「……あなた、主催者側でしょ」
「まぁ、そんなところです」
彼は笑う。
美しくて、残酷な――それでも見惚れるほどの微笑。
細められた目があの時檻の中から見た姿と重なって
小さく心臓が音を立てた。
「君、面白いですね」
「放して」
「嫌ですよ。こんな面白い人間、滅多にいませんから」
彼は指先で私の頬をなぞる。
その瞳が、不思議と冷たくなかった。
バタバタと足音が近づいてくる。
追っ手に見つかるのも時間の問題だ。
今は彼に構っている暇なんてないのだ。
無理矢理腕を振りほどこうと力を込めたその時だった。
「安心してください。ここでは誰も君に触れません」
(……あなた以外は、でしょ)
「ふふっ、あなた分かりやすいですね」
美しい彼の口元が愉快そうに歪んだ。
「さあ、おいで。君を“安全な場所”に連れていこう」
眩しい光が視界を包む。
気づけば私は、豪奢な寝台の上にいた。
香水のような花の香り。
そして――紅の瞳の男が、微笑んでいた。
「ようこそ、僕の屋敷へ。
君が逃げた“檻”よりも、少しだけ――甘い檻ですよ」




