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「ハクヤ、御守り忘れてきてないか?」
「ええ、まあ」
胸ポケットに仕舞った新鮮なワサビを、学ランの上から手で触って確認する。
御守りにワサビを持たせるとは、若ハゲに目を瞑れば唯一の一般人だと思っていたソンが、験担ぎをさせるのは意外だった。
これがデンパ先生なら分かる。あのひと異星人だから。
まぁ、陽の下を歩かないとか、薬草の栽培とか、ほぼ験担ぎみたいなものか。
「落っこちないように。気をつけてね……ふふんっ」
街灯がたったの一つもない田んぼ道。
スマートフォンのライトで足元を照らす俺たちは、星を観望しながら歩いていた。
住宅地から離れれば離れるほど、暗闇はその濃さを増していく。
頭上の空とは対極的に、道路は本当に真っ暗なので、御眠が「落っこちないように」と注意するのは実に妥当だった。光がないと真っ直ぐ歩いているかすら危うくて、一人で初めて歩いていたら、足を踏み外して本当に田んぼに落ちかねない。
俺は細心の注意を払いながら、澄んだ夜空を見上げた。
天体について最後に勉強したのは、中学理科だったか。
地球の自転、公転。月や太陽の動きといった身近なものを始めとして、銀河系や宇宙の構造、季節ごとに見えるものが変わる星座などについて教わったのを覚えている。
宿題で日食の観察というのもあった。
大きなアイマスクに小さな曇りガラスをつけたような観測用メガネを買ってきて、意気揚々と待っていたものの天気が悪く、曇った空を見上げてなにも分からず仕舞い。結局、日食の観測用メガネにインスピレーションを受け、文房具屋で買ってきた赤と緑のフィルム折り紙を使って、3Dメガネを作った。が、そのメガネを通せば立体的に見える絵の方を用意できず、こちらもおじゃんになったんだっけ。
校外学習として行なったプラネタリウム見学では、地元の宇宙科学館に行った。
暗闇のなか、友達とふざけ合うのを先生に叱られるも、ヒソヒソと会話を続ける俺たちは、滅多に体験できない非日常っていうやつに浮き足立っていた。
しかし、職員のお姉さんの合図とともに始まった星座観察体験が始まったとき、先生が普段手を焼いていたガキ大将を含め、全員が揃って静粛になった。
これ以上ふざけていたら、今度こそ恐ろしい説教が飛んでくるに違いない。
違う。そんな理由ではない。
あの日の俺たちは、たしかに、眼前に広がる五〇八.九平方メートルの『レプリカ』によって言葉を奪われていた。
偽物の星空。されど、本物の体験。
ならば、本物の星空を見た体験はなにになるのか。
「………………、すげぇ」
それ以外の語彙も持ち合わせていたはずだが、咄嗟に出てはこなかった。
白鳥座のα星デネブ、七夕の織姫星であるベガ、彦星であるアルタイル。
それらを結んでできる夏の大三角形。
W字のカシオペヤ座、上から見たカエルのような形のヘラクレス座。
写真では見たことがある。
星座早見盤で見られる季節と位置も確認した。
だが、
首をもたげ、空を仰ぎ。
全てを、「一遍に」見たことはあっただろうか。
「見事なもんだろ?」
田畑に囲まれた道路の一本にて。
呆然と星空に吸い込まれそうな感覚に身を委ねていると、ソンが口を開いた。
「田舎はいいぜ。空気が澄んでるだけじゃなくて、建物がないからな。ほら、カシオペヤ座が見えるの分かるか?」
「あ、あれかぁ。しかし、カシオペヤ座って秋の星座ですよね?」
「秋の星座って言っても、秋に見やすいってだけなんだ。カシオペヤ座は年中、地平線に沈んじまわない星座だからな。低い位置にあるもんだから見つけにくいってだけで。月が出ていなければ、もっと鮮明に見えたはずだぜ」
半月に満たないが三日月ともいえぬ、中途半端な大きさの月を見やる。
ふと。
ソンの話を聞いているうちに、御眠がいなくなっていることに気づいた。
真っ暗闇を不安になりながら見回すと、
「……あの、なにしてるんです? 御眠さん」
寝ていた。
ごろんと、枕も布団もないアスファルトの地面で仰向けになって。
「夜風がちょっぴり寒くって。ここならあったかいのよ? あなたたちもやってごらんなさい」
今度は俺とソンが「地べたに?」というように短く顔を合わせる。
すると、御眠が促すようなもう一言を付け足した。
「こうすれば。首を回さなくても。空が一望できることよ……ふふんっ」
言われるがままに膝を折り、腰を下ろし、寝そべってみる。
アスファルトは、日中の太陽光を受けて熱を含んでか、じんわり温かかった。
そのせいか、硬い地面でも身体が痛むことはなく、組んだ腕を枕代わりにすれば充分に居心地のいい寝床が完成していた。
「俺もあの星たちみたいに輝きてえんだ。いずれ死んだとしても、いつまでも光を放つ存在に」
空を眺めていると、視界の外からソンの呟きが聞こえてきた。
すかさず御眠が口を開く。
「今は恒星じゃなくて。太陽の光を反射する。お月様だものね……ふふんっ」
「なにお前、お星様になりたいの⁇」
カエルの合唱が夜闇を縫ってどこまでも流れていくなか。
流れ星が視界を横切る。
「星空を見てると。なんだか。身体がふわふわ浮かんでいって。吸い込まれちゃいそうね」
「ああ、俺だけじゃないんだ、その感覚。不思議ですよね。なんなんだろうこれ」
「そいつは、梵我一如ってやつだ」
川の字で寝そべる隣から、ソンの声が聞こえてくる。
「宇宙を支配する根本原理たる梵と、個人を支配する根本原理たる我が同一となるとき。それが同一であると個人が知覚したとき、一切の苦悩、輪廻の業から解脱し、人は至福に到達することができる。ウパニシャッド哲学の中心思想だ。俺たちはいま、宇宙と一体になり、それを知覚する幸福に与っているわけだ」
「へぇ。やっぱりハゲるとそういうことにも詳しくなるんですね」
「ハゲは関係ねえよッ⁉︎」
「孫くんも。拗らせちゃってるんだよね……ふふんっ」
「カイザーと一緒にすんなッ! こっちは妄想じゃなくてちゃんとした宗教哲学なんだよ」
ソンの反駁を気にしていない様子の御眠は、うーんと伸びをして、脚を組み替える。
「ハクヤくん。山鳥座。知ってる?」
御眠が空を指差した。
「山鳥座、ですか……? とんと聞いたことがないですねぇ」
「ふふんっ……教えてあげるね」
御眠は、星座を見つけるための目印になる星をいくつか列挙した。
半径だけで太陽の一〇〇倍という大きさを誇る白色超巨星、デネブ。
青とオレンジの星が互いに引き合い結びついているように見える視覚的二重星、アルビレオ。
二つを結んだ間にある星、サドルにおいて他のいくつかの星が垂直に交わる、巨大な十字。
しばし、逡巡。
白鳥座だった。
眉を顰めたままソンの方を見ると、若ハゲの男は同じ顔をして肩を竦めるだけ。
「山鳥座にはね。矢村の弥吉っていう男の子に纏わる。昔話があるのよ」
「はあ、」
聞いたことのある名前だった。
デンパ先生曰く、坂上田村麻呂とともに八面大王を討ち取った人物で、実質的な立役者だったか。しかし、それ以上のことは分からない。
御眠は枕代わりに組んでいた腕を解き、空を掴もうとするように右手を伸ばす。
「昔々。あるところに。弥吉という青年がおりました」
「あるところって矢村だろ?」
開始早々に横槍を入れるソン。
矢村って名字じゃなくて弥吉が住んでいた村のことなのかなんて思いつつ、「まずは聞いてあげましょうよ」と目で合図を送る。
「弥吉はある年の暮れ。罠にかかった山鳥を助けました。三日後。美しい娘が弥吉の家を訪れました。雪に降られ難儀している。だから。春まで置いてはくれないかと。娘はそう頼みます。働き者の娘は弥吉を手伝うようになり。やがてふたりは結婚をしたのです」
子どもに御伽噺を聞かせるように。
御眠は優しい声色で、ゆっくりと続ける。
俺はというと、星空と御眠の方を交互に見ながら、弥吉とその美しい娘を想像していた。
「その頃。八面大王という鬼が。人々を苦しめていました。都から将軍。坂上田村麻呂がやってきましたが。八面大王は手強く。討伐は難航します。観音様にお祈りすると『三十三節の山鳥の尾を矢にすれば退治できる』と。そうお告げがありました。けれど。そんな鳥はどこを探しても見つかりません」
「あぁ分かった。その美しい娘が実は弥吉が助けた山鳥で、その羽根を使って矢を作ったら討伐できたって話だろ?」
「ちょ、ソンくんなんで先に言っちゃうんですか! きっとそういう流れだろうとは思ってたけど、ここは御眠さんに話させてあげなきゃ可哀想ですよ」
恐る恐る御眠の方を見てみると、物語の佳境を盛大にネタバラシされた彼女はむっと頬を膨らませて、俺たちに背中を向けてしまった。
が、どうやら話の続きはしてくれるそうで。
「正体を明かしてしまった山鳥の娘。彼女は三十三節の羽根だけを残し。姿を消してしまいました。八面大王の討伐後。弥吉は褒美を貰って長者になりましたが。妻を失ったことを悲しみ。憂さ晴らしに若ハゲの村人にドロップキックを食らわせてやりましたとさ。めでたしめでたし」
「いやめでたいかぁ! 若ハゲの村人なんも悪くないだろッ⁉︎」
「ほら言わんこっちゃない! ソンくんのせいですからね? 『いつまでも妻の帰りを待って暮らしましたとさ』みたいな切なくも温かい報恩譚を聞けると思ってたのに!」
神話や伝承には共通点があるものだが、この昔話もそうなのだろう。
安曇野版の鶴の恩返し、といったところか。
だいぶ端折られ、エンディングがめちゃめちゃに改悪されてしまったが……。
と、そこで。
突如。
南の空に『穴』が開いた。
射手座や蠍座のある、天の川の最も濃い部分が丸ごと黒く塗り潰される。
間もなくして、星の光を含んで輝く水の流線が、川のほとりから螺旋を描いて巻き上がる。
「……デンパ先生、」
ドライブをしたときに見た高瀬川。
それと平行に流れる穂高川の下流へと向かって、俺は駆け出していた。