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夕食を終えて、コンビニで缶コーヒーついでに買った下着を持って浴室へ。
田舎だからと、外で竹筒を吹いて薪を焚く五右衛門風呂か屋外のドラム缶風呂に案内されるかと思ったが、至極普通の風呂に拍子抜けしてしまった。
浴槽には浸からずシャワーだけで済まして、方卓のあるゲーム部屋の隣の洋室へ行く。
「来客用の布団もあるんだけど、まだ埃を叩いてねぇだでな。すまんけど、今日はここで勘弁してくれんか?」
デンパ先生は、もともと着ていた燕尾服によく似た形の赤いローブを羽織っていた。
前合わせを整えて、タッセルのついた腰紐をお腹の前で蝶々結び。
襟の間に入ったワサビグリーンの髪を首の後ろからするっと抜き出して、胸の前に掛けた。
「いえ、お構いなく。俺は頭の位置を高くできればどこでも寝られるんで」
寝床として充てがわれたソファにごろんと横になって、俺は脚を組む。
「便利な体質だなぁ。羨ましいわ。まぁ、なんかあったら納屋に来てくれや。おらはハンモックで寝てるだでな。揺らしてくれりゃ、起きるずら」
「デンパ先生、いつもハンモックで寝てるんですか? 腰痛めますよ」
「続けて同じとこで寝られねぇ性分だでな。あっちで寝たりこっちで寝たりさ」
デンパ先生は「おやすみ」と一言、明かりを消して食卓の勝手口から出ていった。
残された俺は、ポケットからスマートフォンを取り出す。
実家にいたときはショート動画ばかり観ていたのに、今日はほとんど携帯を触らなかった。
都会と違って安曇野には遊びに行くところも少ないし、のんびりと暇な時間が多いものだから、スマートフォンを触るくらいしか娯楽がないものだと思っていたが、不思議とここではデジタル機器に触れようという気にならない。
いつだか大阪旅行に行ったときのことを思い出す。
あそこは食べ物が美味しく、ラーメンやハンバーガー、カレーなど料理別に食べログの『百名店』があり、そのなかから選べばまず間違いはないというほど、美食に溢れている。ゆえに、普段だったら外食しようというときはチェーン店を探すところ、大阪旅行ではチェーン店で一食使ってしまうのがもったいないくらいだった。
ここでの生活は、あの感覚に近い。
澄んだ空気。綺麗な水。ちょっと窓を開ければ、北アルプスの絶景が広がっている。
切り絵を重ねて作ったシャドーボックスのような奥行きを持った山々の連なり。
一見するとどれも同じように見えるだだっ広い田畑も、都会に並ぶ全面ガラス張りのビルや高層マンションの無機質な並びとは、似ても似つかない。稲、果樹、野菜の違いだけではない。稲ひとつとっても、色や形、背丈も違って、風にそよぐときの表情も違うのだ。
下を向いて小さな枠に収まるブルーライトの画面など見ていたらもったいない。
美術館に行ったって見られない、枠のない大自然の巨大なキャンバスがあるのだから。
「あれ、兄貴」
目覚ましを設定するついでに、兄からの新着通知を開く。意外にも、箪笥から拝借したお金については不問で、今日は帰らないのかという心配の連絡だった。
俺は『しばらく友達の家に泊まります』と簡単な返信だけをして、スマートフォンを仕舞う。
静かだった。
月が出ていないのか、カーテンの隙間から覗く外の世界は真っ暗で、微かにカエルの鳴き声が聞こえてくる。
なんとなく寝付けなくて、寝返りを打ってみたり部屋をぐるっと見回してみたり。
隣のゲーム部屋に誰かいるのか、襖の隙間から青白い光が漏れ出しているのに気づく。
ときどき「ふふんっ」という控えめな笑い声が聞こえてくるあたり、いるのは栗色の長い髪に矢羽根模様の袴を纏った御眠だろう。そこらの猫より寝ているとカイザーが言っていたが、夜行性なところも猫らしい。
と、そこで。
納屋ではなく、隣の家に面する窓の外にぼんやりと明かりがついた。
レースのカーテン越しに移動する二つの光。
お互いに一定の距離を保つそれらは、まるでなにかを探すよう。
「おいおいマジかよ……」
俺はそっと上半身を起こし、毛布をソファに残して爪先立ちで窓へと近寄った。
「やっぱいるじゃん、泥棒」
窓に近づき過ぎないよう注意しながら、レースの花柄の間から外を覗く。
「それとも御小僧火か? いや、別の妖怪だったりして……」
考えていると、怪しい光が「ぐへへ」といやらしい笑い声を上げ始めた。
なにかあったら教えてくれとデンパ先生は言ってくれたものの、納屋に行くには玄関か勝手口を使うしかない。どちらを通っても、あの怪しい二つの光と鉢合わせるのは確実。
仕方がない。
俺はそっとゲーム部屋へと歩いていき、控え目なノックをすること数回、襖を滑らせた。
起きていたのは案の定、御眠だ。
ワサビ形の大きな抱き枕を胸に抱え、掛け軸代わりに下がった床の間の巨大な白スクリーンにプロジェクターを使ってハリウッド映画かなにかを観ていた。
「御眠さん。ねぇ、御眠さん。おーい」
外で徘徊している怪しい光に気づかれないようヒソヒソ声で名前を呼ぶも、掛けたヘッドフォンでノイズキャンセリング機能を使っているようで、まるで気づいてくれない。
埒が開かないのでそっと肩を叩くと、彼女は栗色の髪を大きく揺らしながら「ひゃぁっ!」と小さな悲鳴をあげた。
それを「しっ!」と真横に開いた口に人差し指を当てたジェスチャーで諌めると、俺だと気づいた御眠がヘッドフォンを外した。ずいぶん大音量で映画を観ていたようで、ガンガンとひどい音漏れがしている。
「夜分に失敬。いえね、なんか外に怪しい人がいるみたいなんですよ。妖怪かもしれない」
「あら、妖怪さん? どうしましょう。困ったわねえ。映画。今いいところなのに」
「言ってる場合か! 早くなんとかしないとまずいですって。さっきから『ぐへぐへ』不審な笑い声を上げては、庭中徘徊しているんですよ? 只事じゃないですって」
「! 『ぐへぐへ』不審な光が。二つ?」
「そうそう不審な光が二つ……ってあれ、なぜ分かるんです? 俺まだなにも言ってないのに」
「ふふんっ……ついてらっしゃい。面白いもの。見たいでしょう?」