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方卓会議が終わり、俺は『新人教育』を受けることになった。
なにをさせられるのか身構えてしまったが、仰々しい名前はカイザーの趣味というだけで、やることは軽く安曇野を見物するだけらしい。
「暮らしが変化すると想像以上に疲弊するものだからな。特に都会と田舎の違いは大きい」
「まぁ、電車が一時間に一本しか来ないのには驚きましたね」
「松本の方へ出ればもう少し都会っぽくはなるが、それでもバスなんか三〇分に一本だからな。それに定時にはまず来ない」
「それ歩いた方が早い場面続出しそうだな」
呆れ半分でローファーを突っ掛ける。
玄関を出ると、びっくりしたアマガエルが一匹逃げていった。
陽が傾いて空がオレンジ色だ。
「今日は『パトロール』ついでに、あたしとこの辺をぐるっと回ろう。水汲みもしたいしな」
乗り込んだのは、庭先に止めてあったスズキの軽自動車。赤い車体に真っ白のルーフ、ボンネットには西陽を受けて光るハスラーの七文字。
さすがに運転するときは裸足というわけにもいかないようで、デンパ先生は脛まで隠れる長靴を履いて足踏み式のサイドブレーキを踏み込んだ。
靴履くんだ、というか運転免許持ってるんだ。
不思議に思って問えば、「田舎は車がないと、ほぼ行動できないに等しいからな」とワサビグリーンの髪を一つに結えて胸の前に下ろしたデンパ先生が、至極普通のことを言う。
「ここから駅までの道は分かったな? 次は一番近いコンビニまでのルートを教えよう」
「コンビニなんてそこら中にあるものなのでは?」
「これだから都会人はいけないよ。まぁそこで見てなされ」
一番近いコンビニは、家から三キロ先だった。
車なら五分だが、歩けば三〇分弱の距離。恐るべし、田舎である。
俺たちは缶コーヒーを片手に、X字に交わる交差点を往来する自動車やトラックたちを眺めていた。歩行者用信号が青に変わり、どこに学校があるのか、ランドセルを背負った小学生が一人のこのこ横断する。
「コンビニは便利でいいなぁ。なんでも売っている」
「立地が全然コンビニエントじゃないんですがそれは……」
自動ドアではなく、手動で開閉する扉を開いて空き缶を捨てる。
「さて、次は水汲みだな」
もと来た道を戻り、家に通づる脇道に入らず、そのまま直進。
信号をいくつか曲がり、『高瀬橋西』という信号で右折した。
県道三〇六号有明大町線、またの名を北アルプスパノラマロード。
高瀬川という大きな川に沿って北アルプスの麓を南北に縦走するこの道路は、起点から終点までおよそ二〇キロ。アクセス向上や観光振興のために敷設されたというだけあって、信号がほとんどなく、また北アルプスの絶景を眺めながら運転できるため、ドライブコースとして人気があるそうだ。事実、大型トラックが二台は並走できるであろう幅の車線は、ハリウッド映画で主人公が優雅に車を飛ばすハイウェイを思わせ、道路を挟んで高瀬川の反対側に見える景色は、北アルプスの山々の稜線がどこまでも続き、実に圧巻である。
急な坂道。
登り、そして下った先でデンパ先生が左手を指差す。
「そこが『大王わさび農場』って言ってな。綺麗なところだよ。今度行ってみよう」
「大王って、もしかしてさっき言ってた……」
「ああ。あそこには八面大王の首が葬ってあるからな。魔術的にも重要な場所なんだ」
言われてみると、なにか神秘的な、霊的な力を感じさせなくもない。
そんな場所を横目に、俺たちを乗せたハスラーは先を急ぐ。
いくつかの洋食屋、蕎麦屋を通り過ぎ、目的地に到着する。
「あづみ野ガラス工房?」
ガラガラの広い駐車場に足を踏み出したところで、俺が目の前の看板に書かれた文字を読み上げる。安曇野にはこの地名を冠する場所がたくさんあるが、「あずみ」だったり「あづみ」だったりと、あまり統一感はない。
どちらが本当なのかと訊くと「『つ』に濁点を添えるのが正しい」とデンパ先生は言う。
「安曇族はもともと北九州、より正確に言うなら福岡県の志賀島の海洋民族だったんだ。彼らが海神の子孫だと聞けば『す』ではなく『つ』に点々なことも納得いくだろう? 『あずみ』の表記がマジョリティなのは、現代仮名遣いの制定が原因だな。といっても、神社や祭礼の名前は伝統や格式を重んじて、今でも『あづみ』の方を使っているよ」
トランクからなにやら大きな荷物を取り出したデンパ先生。
相当靴が嫌いなのか早々に長靴を脱ぎ捨てて裸足になった彼女は、俺の隣まで歩いてきたところで両手に下げた十五リットルの給水タンクを地面に置いた。
ぶよっ、と。折りたたみ式のタンク。閉め切っていない蓋から空気が漏れ出し、形が崩れる。
「あたしたちの用は、そこにある湧き水だ」
デンパ先生が指差す先にあるのは、屋根と支柱だけで形成された小さな東屋だった。
『安曇野の里 名水百選』と彫られた大きな岩。
側面からチョロチョロと流れ出す二本の清流を、分厚い石の石槽がそれぞれ下で受けている。
「都会と違って、ここは水道水でも美味いからな。いわんや名水百選の湧き水をや、さ」
「なんかいいな。水汲み一つでも田舎の情緒があるっつーか」
実家では毎月ネットでラベルレスのペットボトルを注文しているものだから、水を手に入れる工程に味わいとか趣なんてありはしない。
湧き水の流線に給水タンクの口を宛てがい、水が溜まるにつれて膨らむタンクがもとの直方体の形を取り戻していく様子を眺める。
もう一方の湧き水の出口では、デンパ先生も同じように水汲みをしていた。
が、
「水が濁って……まさか……、」
ふわふわワサビグリーンの長い髪を左肩に寄せ、給水タンクの代わりに手で受けた水を口へと運ぶ魔術師が、違和感に口元を歪める。
「やはりおかしいと思ったんだ」
「どういうことです?」
「いえね。この時間はいつも、巨大な給水タンクや四、五リットル入る空の焼酎ボトルを持った人で溢れかえっているんだ。だのに、この静けさ。これは只事じゃないと思ってな」
「いやそれ普段が只事じゃなくねッ⁉︎ この小さな東屋に行列ができるって、世界最小の観光スポットですかここは」
デンパ先生は「しっ」と俺の言葉を制すると、目を凝らすわけでも耳を澄ますわけでもなく、なにか気配を探るような様子で、じっと静止していた。
「憑き物だな。おそらくは『御小僧火』か」
「オコゾウビ?」
「鬼火や人魂の類だ。近くにいるな。ハクヤ君、ちょっとそこら辺を見て回ってくれ。怪しげな青白い火の玉が悪さをしているはずだ」
水汲みの手を止め、二人で東屋の周辺を調べてみる。
石槽の陰、巨石の裏、支柱の隅。
少し離れて屋根の上を見てみたところで、そいつはいた。
「デンパ先生! あれ、そうじゃないですか?」
尾を引きながらのそのそ動き回る青白い火の玉。
モグラのように前後がはっきりしないフォルムのそれは、ときどき二本足で立っては、尻尾の火を箒のようにして、屋根の埃を払っていた。
「でかしたぞハクヤ君。それじゃあ、そこで静かに見ておきなさい」
ワサビグリーンの髪を纏めたヘアゴムをスルスルと滑らせ、ふわり。解く。
青々とした葉っぱのついたワサビ。
胸のポケットから取り出し、両手で優しく握る。
一本の清流が彼女の足元から湧き出す。
それは魔術師の身体を纏うように蜷局を巻き、そばに落ちていた青葉ともども、上昇。
柔らかな風が吹き始める。
畏み畏み白さく。
大天井に坐します穂高の神々。
水を司る九頭龍大神。
深く伏し拝みて申さく。
清らかなる水の流れに宿りたる霊。
疲弊と憎悪に取り憑かれし魂。
今ここに鎮め祀らん。