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 明くる朝。

 柏矢はすこぶるいい寝覚めでソファから起き上がり、洗面所で顔を洗い終えるなり、台所の勝手口から庭に出た。

 時刻は六時五分。

 朝日を浴びて輝く北アルプスは、豊かな木々の緑と、空に溶け込んでいきそうな岩山の青が、一層色鮮やかに映って、空気もまた、景色と同様に澄んでいた。

 家のすぐ隣に建つ納屋の大きく突き出したかわら()きのひさしの下で、柏矢は大きく伸びをする。

 吸い込む空気がおいしい。

 遠くを眺めたり、緑を見たりすると視力がよくなるんだっけか? なんてどこかで聞き齧った根拠に乏しい知識を思い出し、柏矢は朝の安曇野の景色を見渡すことにした。

 ここまで「地平線」というやつを意識させられる場所はないだろう。少なくとも、高層ビルやマンションがひしめく都会では到底見ることのできない景色だった。

 どこまでも、見えるのだ。

 ほとんど全ての建物が二階建ての一軒家で、それも、田んぼが広々と手を伸ばし、畑が伸び伸びと脚を広げる土地で、牧羊犬に囲い込まれる羊のようにところどころに密集しているため、視界を遮るようなものがほとんどない。

 姿を眩ませようにも建築物がほとんどないため、いつまでも目で追いかけることのできる自動車や一時間に一本だけ通る電車たち。

 遠くの方で犬を散歩させている人が、自転車とすれ違いざまに会釈をしている様子を見れば、高さの異なる田畑の間にそれなりに広い道があるのだろうと予想がつく。

 揺れる木々。電信柱に標識。線路とガードレール。すべてが見通せた。

 段々畑の縁を一匹の猫が歩いていくのを眺めていると、

 背後にある納屋のシャッター。

 ギシギシ、ガラガラ。引き上げられる。

「おはようございます、デンパ先生」

「おはようさ、ハクヤ君。今日は早いじゃんかねぇ」

 むにゃむにゃと眠い目を擦るデンパ先生は、柏矢の隣に来るなり、欠伸混じりに伸びをした。

 ワサビグリーンのくるぶし丈ナイトガウンは前開きが腰紐で閉じられておらず、なかに着たキャミソールワンピースのインナーが顕になる。ご多分に漏れずワサビ色だった。加えてポケットからなにか取り出したかと思えばワサビで、それを玉串代わりに北アルプスの山々に祈りを捧げ始めていた。

 これが長野県民、否、信州人というやつか。

 もはやワサビに取り憑かれた新種の妖怪『ワサビ娘』なんじゃないか、と疑い始めている今日この頃である。

「目の保養がてらといいますか、山を見ていたんですよ。こんな景色、とてもじゃないけど俺の地元では見られませんから」

「ここの景色はやっぱ格別だに。立足は安曇野ん中でもとくに北アルプス眺めるには、えらいええとこなんさ」

「立足……そういえば、この近くの交差点がそんな名前でしたね。最初見たとき『足立』と見間違えましたよ」

 有明駅といい、長野県は東京都民を嵌めるトラップが作りたいのだろうか。

 いや、引っ掛かるの俺だけか、と柏矢は頭を掻く。

「立足っちゃ討たれた八面大王の足が埋められた場所なんよ。他にもな、耳が埋められた『耳塚』や、頭が埋められた『塔ノ原』っちゅうとこもあるんさ」

 言いながら、デンパ先生は納屋からパイプ椅子を二つ持ってきて、小さな畑の前で展開した。

 八面大王の首は大王わさび農場の近くに埋葬されたんじゃなかったっけ、なんて思考を柏矢は巡らせる。そうなると、やはり八面大王は一人ではなく、八人の鬼の伝承の方が正しいのか。いやでも矢村の弥吉の伝承に出てきた『三十三節の羽の矢』は八本作られたとは言ってなかったよなあ……伝承は不思議なものである。

 晴れた空の下、稜線が鮮明な北アルプスを眺めながら、デンパ先生が口を開いた。

「あの、てっぺんが平んべったい山の名前、もう分かっとるけ?」

「ええ。有明山ですよね? あれは分かりやすい」

「んだんだ。安曇野に来たら誰でもまず最初に覚える山だに。有明山の両脇、ほれ、あっちの遠くに見える山、あれ、分かるけ?」

 柏矢はダークブラウンの四角いクッションに背を凭れ掛けながら「いえ」と首を振る。

「あれが『燕岳つばくろ』と『天井(てんしょう)』だわさ。今は夏で雪ぁとけちまってっけど、寒い時期になると、真っ先に雪化粧するもんでな、他の山よりずっと高ぇんがすぐ分かるだよ。こっから見りゃあ、そんくらいの高さの違いなんて、わかりゃしねぇがねぇ」

「大天井って、たしかデンパ先生が上げる祝詞にもそんな言葉が出てきますよね?」

「んだんだ。大天井岳は、ここから見える山の中でいちばん高ぇ山だに。標高二九二二メートルもあってな、大町と安曇野、それに松本も跨いでる常念山脈の一番高いとこなんさ。だから『大天井』って呼ばれとるだけじゃなくてな、他にも意味があってさ……」

 デンパ先生は、納屋と畑の間を仕切る長手積みの煉瓦の一段に足を乗せて、それを台にもう一方の足を乗せて組んだ。

 畑の脇に生えた野草が風に揺れて、土で汚れた裸足を優しく撫でる。

「高ぇとこっちゃぁ、神さまが宿るっちゅうもんでな。んだから、あそこは『天所(てんしょ)』っちゅう呼ばれ方もするわけさな」

 乗せた右足を台にした左脚に沿わせるように身体へと引き戻し、椅子から立ち上がったデンパ先生は、「さて」と再び伸びをした。

「そろそろ本腰入れて、ハクヤ君の勉強、始めにゃなんねぇなぁ」

「ついに! 修行が始まるわけですね!」

「そういうことだに。まずはな、教科書かなにか用意せにゃならんずらよ」

 そこで「書斎行くずら」というデンパ先生の後に続き、柏矢は家のなかに入った。

 食卓を抜け、廊下を進み、まだ行ったことのない二階へ。二部屋あるようで、上がったところにはドアと襖と入り口が二つあった。

 デンパ先生はドアノブに手を掛けながら摺りガラスの四つついた木製の扉を叩き、返事を待たずに入室した。ノックの意味がないのではないかと問うも、「アカシャは大抵『お仕置き部屋』にいるに。どっちみち聞こえんだらええんさ」とデンパ先生。

「アカシャ? お仕置き部屋⁇」

 書斎がとんでもない散らかりようであることは、足を踏み入れる前から、というより足を踏み入れられないがゆえに分かった。

 部屋とほぼ同じ高さの大きな窓を九割方潰してしまう本棚が、四方すべての壁を覆っており、そこに収まり切らなかった小説、漫画、ブルーレイディスク、CD、新聞、週刊雑誌、同人誌が、そこかしこに山積みにしてあった。足の踏み場がないとはこのことで、書籍類の塔に隠れて見えないのか、デンパ先生がいう住人の姿は見当たらない。

 柏矢は本の地雷原を爪先立ちで跨いでいき、部屋の端で立ち止まったデンパ先生のそばになんとか辿り着いた。

 収納スペースかなにかだろうか。

 西側の壁に小さな両開きの扉がしつらえられていた。

「アカシャ、起きとるけ?」

「…………ん」

「ちょっと相談があってな。一昨日うちに来たハクヤ君のこと、覚えとるだら?」

「ん」

「あの子にな、教えてやりてぇことがいくつかあってさ」

 そのあともアカシャと呼ばれた男(?)は、ちゃんと聞いているのか怪しいような返事ともつかない返事で、デンパ先生に応対していた。

 ようやく話がついた(?)ようで、デンパ先生は「ありがとう」というなり書籍の海へと戻った。小さなメモ用紙らしき紙切れを持って、部屋を捜索する。

 そうして彼女が見つけてきたのは、妙に見覚えのある書籍の一式。

 夏休みくらい勘弁してくれよと。思い出したくないような。物臭な高校生を丸め込むための策略。カラフルかつポップな表紙。カリスマ教師だとかいう。知らない大人の扇動的な文句が並ぶ。その名を、参考書。

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