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『八面大王足湯』。
青々とした芝生の中央に設けられた石造りの水路が一本。手前にある排水口はしゃくなげの花を模っており、縦に伸びた水路の先にはシンプルな構造の平屋が建っていた。右側に構えているのが目的の足湯、左側は待合所である。
八面大王をモチーフとした異なる八つの顔が各面に彫刻された八角形の石像。存在感を放つモニュメントの前に半孤の足湯が設けられており、その両側に木製のベンチが配置されていた。夜間に排水される時間帯があるものの、年中無休で浸かれるこの足湯は、穂高温泉郷のお湯を無料で楽しめる癒しのスポットだ。もともと噴水だったものを足湯へと改修し、その後の場所の移転、さらに二〇一八年のリニューアルオープンという遍歴を辿ったこのお湯は、無色無臭のアルカリ性単純温泉、すなわちさまざまな健康への効果が期待できる療養泉であり、老若男女を問わず年中来客がある、一つの観光地となっている。
「あの人ら、そろそろ帰るみてぇだに。人がいなくなったら、仕事始めるとするさ」
デンパ先生はそう言って、お札のついた小瓶の紐をぶら下げながら、八面大王の石像へと歩いていった。
「喜怒哀楽を表しているのかと思ったけど、『怒』がやたら多いみたいですね。それともこう見えて『喜』なのか?」
「八面大王の伝承は色々あるずら。この石像は一人の喜怒哀楽を表してるっちゅうより、八人の鬼の伝承を表してるんかもしれんに。ほれ、表情だけじゃなくて顔自体が違うだろ?」
「本当ですね。こっちのは牙がついていて、他のよりよっぽど鬼っぽいや」
ぐるりと周りを歩いて、それぞれの顔を確認する。
「どうやら、こっちの顔が一番ええみてぇだに」
垂らした小瓶が小刻みにある方向へと動いていた。
振り子ダウジングかなにかか。
デンパ先生は悲しげな表情の石像の前に立ち、その鼻の近くで小瓶の蓋を開けた。
「吸ったッ⁉︎」
出てきた鬼火がすいっと石像の鼻に入っていき、石像全体がぼんやりと輝いた。
きらめきが足湯へ伝播し、光が収まったところでデンパ先生が口を開く。
「鎮魂した八面大王は、ここに納めることにしてあるずら。これで三つ目か。あと五つだなぁ」
「こういうのって、神社とか、なんか御神体的なものに封印しておくものじゃないんですか?」
「昔はそうしたかもしれんに。でもな、今じゃ神社にお参りに行く人より、この足湯に来る観光客の方が多いんさ。言ったに? 害なす怨霊はな、鎮めて祀ることができりゃ、逆にご利益をくれるってな。八面大王のご利益、たんとみんなに分けてやるには、ここが一番ええと思ったんさ」
デンパ先生は空になった小瓶を膝丈のジョッパーズのポケットに入れるなり、足湯のお湯を掬って足の泥を落とし始めた。
「さて、あんたらにはここで姑獲鳥に触れた時の穢れ、きれいにしてもらうに。ハクヤ君も、ほれ、さっさと靴脱ぎな」
言われるがまま、俺はローファーを脱いで、なかに靴下を詰めた。
すでに足湯に浸かっていたカイザーとツーちゃんが「こっちこっち」と手招きする横に座ると、あとからデンパ先生が来て隣に腰を下ろす。
ちゃぷん。ちゃぷ、ちゃぷっ。
俺の無骨な脚の隣に、
真っ白で、産毛一つない、長い脚線が二つ、水面を裂く。
先に左脚、ワンテンポ遅れて右脚が追随し、足湯の床にゆっくりと着地。
ワサビ色に塗られ、水のなかで静かに光る爪は、年中裸足で歩き回っているとは思えないほどに滑らかで整っていた。
くるぶしが描く曲線の終点。
その先には、柔らかで健康的に肉付いたふくらはぎが続き、
銀嶺は膝下の裾見返しで、その稜線を終える。
微風が、ワサビグリーンの長い髪を揺らした。
「気持ちええかい? ハクヤ君」
「ええ、まあ」
ふわふわワサビグリーンがこちらへ流れないよう、デンパ先生は揺れる長い髪を、右手を使って左耳に掛ける。
八面大王足湯はそのとき、俺たちの貸切だった。
世界がまるで、俺とデンパ先生ふたりの貸き────
「だからさあ! 短く見えるのは光の屈折のせいなの!」
「違うアル! ツーちゃんの方が脚が長いネ!」
「俺の方が身長高いのに脚が短くてたまるか! 勝負しようじゃねえか、ほら脚出せよ!」
「やっぱりだヨ! ツーちゃんの方が長いヨ! 脚線美が眩しいヨ!」
「ほざけ! それは膝から爪先まで一直線になるように伸ばしてるからだろうが! 膝から踵までの長さで勝負しろや!」
騒音。
静かな憩いのひとときがぶち壊される。
穢れは清められても、この二人に巣食う毒素は洗い流せそうにない。
俺は両手を後ろに突き、天井を仰ぐ。
肺から漏れ出た深い深い溜息は、そよ風に乗って青い青い夏の空へと消えていった。