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大王わさび農場を出て、『安曇野わさび街道』を右折。
もと来た道を戻り、再び県道三〇六号『北アルプスパノラマロード』に乗った。
北上する方向で走ると、助手席側の景色がもっとも映える。
「姑獲鳥っつうのは『産女』とも書くんだに。全国どこにでもおる妖怪だけんど、信州にもおるに。戸隠や諏訪湖、木曽谷にゃ、たくさんの伝承が残ってるに」
全開にした車窓の縁に肘を乗せて、流れ込む風にワサビグリーンのふわふわの長い髪をはためかせるデンパ先生が、話を戻した。
「逆になんで『姑獲鳥』とも書くんですか?」
俺は開けた窓から腕を出して、風圧で手悪戯しながら問う。
「昔の中国じゃ、人じゃなくて鳥の形で現れたずら。どっちも産後に死んだ母ちゃんの霊だけんど、日本じゃ母ちゃんの姿のまんま赤子を預けにくるに。ほいでな、中国の姑獲鳥は鳥の姿で赤子をさらいにくるんだとさ」
「でもおかしいヨ。姑獲鳥ってさ、夜の河辺に出るものじゃなかったアルカ?」
後部座席で組んだ腕を枕に、助手席へと脚を伸ばしてくつろぐツーちゃん。
頭のお団子から胸元に垂れたツインテールが、妙に意気揚々としているように見えるのは、昼ご飯を食べ損ねた代わりに、帰り道の売店でソフトクリームを買ってもらったからだろう。デンパ先生に、俺のお金で。ご当地アイスとして、本わさびソフトクリームというものが売っているのだが、ツーちゃんが頼んだのは『大王プレミアム』。俺の所持金は残り一二五〇円となった。ていうか肩が重いし、景色の邪魔なんですが。
「だよな? たしかにあそこは『蓼川』とか『万水川』があるが、河辺といえるほど大王庵は近くない。それに今は真昼間だ。脈絡がなさ過ぎて、さすがの俺も見落としちまったぜ。さすがの俺も、な」
なにか負け犬の遠吠えじみた発言が聞こえた気がした。
といっても、さして重要ではないだろうから無視しても構わないだろう。なんせ中学時代の学年主任が「大事なことだから一度しか言わないぞ」と言っていたからな。わざわざ二度も言ったということは、逆説的に重要ではないに違いない。
「そりゃきっと、こいつのせいだに」
キンッ、と。
デンパ先生が爪で弾いたのは、徳利の形をした小瓶。
ルームミラーに紐で吊るされたそれは、小さなお札が斜めに貼っつけてあった。
「昨日の夜、鎮魂した八面大王の『本体』だに。ほんとは昼飯前にこいつをある場所に封じるつもりだったんだけどなぁ。たぶん、姑獲鳥はこいつの気配に誘われて出てきたんだに」
はぁだとか、へぇだとか、後ろで感心する声を漏らすカイザーとツーちゃん。
俺も納得してうんうん頷いていたが、そこでふと気づく。
え、この人のせいじゃね……⁇
普段は現れない場所、時間に姑獲鳥が出たのも、なけなしのお金で注文した御膳を最後まで食べ切れなかったのも────
「ふんふんふんっ……どしたに? ハクヤ君」
────普段は無表情なワサビ娘が妙に満腹げで上機嫌に鼻歌なんか歌っているのも、もとを正せばこのワサビグリーンの魔術師本人が元凶だった。
「なんでもないですよ。それより、まだ着かないんですか?」
俺は頭痛がする気持ちでこめかみに手を当てながら、ずるっと背もたれ越しに埋まる。
「そろそろだに。ほれ、ここが前に来たコンビニだら? これをまっすぐ行ってな……」
道なりに走ること二分。
『富田』という交差点で左手にコンビニがあるのを確認しつつ、右折して『しゃくなげ線』と呼ばれる県道三〇八号に乗った。
平たい頭が特徴的な『有明山』を前方に緩やかな坂道を走って、右手に見える『安曇野ジャンセン美術館』を通り過ぎた先の交差点で左に曲がって、県道二五号へ。この道は『山麓線』という別名を持つだけあって有明山などの麓に沿って走っているため、ここまで来るともうほとんど山は見えない。
右手にあるスーパー銭湯『しゃくなげの湯』とファーマーズマーケット『Vif穂高』の間を通る細い坂道を登り切ったところに、俺たちの目的地はあった。