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僕の好きな街、長野県安曇野市はご存知でしょうか。読めばきっと行ってみたくなる。そんな気持ちで書きました。現実にある街を舞台にしたのは初の試みですが、自信作です。よろしくお願いします。
問い。モテる人間の特徴とは。
小学校では足の速いやつ。
中学校ではやんちゃなトラブルメーカー。
そういうやつがモテるのは子ども界の摂理というやつだが、それなりに大人になった高校生ともなれば『モテ』の法則性も変わってくる。
理知的で、大人の余裕があり、将来性に富む。
そんな人間が求められている。
かく言う俺も十七歳、高校二年生なので、そろそろ行動を起こさねばならない。
モテ修行。
いざ出陣。
そう思い立ったのは、夏休み初日。
実家のベッド。十二時間と三十三分前。
ショート動画を見るくらいにしか使わないスマートフォンで『格安 塾 高校生』という文字列を検索エンジンに掛け、ブラウザを起動。
タッチ、スワイプ、スクロール。
可愛過ぎだろこれが講師か? とすかさず教員紹介ページの写真をピンチイン、精査、精査。
間違いない、これは確実にカリスマ講師。
旧帝国大学に最上位私立の総嘗めも目ではない。
サイトにアクセスした時点で出てきた『このページは安全ではありません』という警告ポップを気にせず、俺は身支度を始めた。
実家、といっても両親はいない。
家を継いだ十五も年上の兄とその嫁がいるだけだ。
俺は穀潰しの居候の身なので、消えたところで彼らにとっては万々歳だろうが、電車賃として箪笥の貯金を僅かばかり……僅かばかり拝借したことに関しては、一応報告すべきだろう。
その旨を伝える手紙をしたため、俺は家を出た。
徒歩三分圏内の学校と自宅を往復するだけの毎日を送ってきたとはいえ、電車くらい一人で乗れるだろうと。
高を括ったのがそう、十二時間と三十……四分前だ。
「『有明駅』が二つもあるなんて聞いてねえぞ……」
雲一つない晴天で、暗雲が立ち込めていたのは俺の頭上だけだった。
都会には到底存在し得ないであろう小規模な木造駅舎の陰で、俺の目元は一層暗く翳る。
日本には少なくとも二つの『有明駅』があるらしい。
片や、東京都江東区、東京臨海新交通臨海線。通称「ゆりかもめ」の有明駅。
臨海何回出てくるねん。
片や、長野県安曇野市、東日本旅客鉄道。つまりはJR東日本大糸線の有明駅。
直線距離にして一九〇キロメートルも違うが、緯度の差は約〇.七〇八四度であるから、時差は三分弱。日本って縦に長いんだなぁ。すこぶる、どうでもいい。
俺はベレー帽を被った円柱のような郵便ポストに手荷物を乗せ、その前に並ぶ複数の車止めの一つに腰掛けた。失くした制服ベルトの代わりに使っている黒のサスペンダーを肩から外し、五七.五掛け八五ミリの青い切符を団扇にして扇ぐ。この駅には切符を吸い込む改札がない。
まぁ俺が悪かったよ。途中で気づくべきだった。
一時間で着くはずのところ、七時間も電車に乗っていて、尚且つその距離で新幹線がなく全て鈍行での移動という時点でな。
「いや、疑問に思うべきは切符を買う時点で、か」
カコッ、と。
中空の金属がアスファルトを叩く音。
目をやると、そこにはライムグリーンの少女が立っていた。
着崩した、礼装? どこで売っているのか不思議な古い燕尾服。胸にはポケットチーフの代わりに、すみれだろうか、ハートの形をした葉っぱが刺さっていた。その下に着るシャツはカラーがついておらず、ボタンで留められていないがためにダブルカフスがダラリと垂れ下がっている。本来は長い靴下だかブーツだかを履くものな気がするが、ブリーチズだかジョッパーズだかの下は素足で、そのうえ裸足。そもそも上下で服の格式がごちゃごちゃ過ぎる。まぁどちらも源流は乗馬服だからいい、のか? 分からん。
『生徒 ぼ集中』
首から下げたボードには、何度か書き直された『募』の文字と、結局書けなかったのか平仮名での訂正があった。
彼女の前には缶詰。空っぽの。スライスパイナップル。
「やあ、よく来たね」
「あ、どうも……?」
しばし、逡巡。
初対面だった。
俺と大差ないくらいの、女性にしては長身。内巻きの長髪、ふわふわライムグリーン。
長い髪は姫カットが施してあるが、後ろはウルフのように無造作なレイヤーが入っており、前髪は野暮ったく分厚いわけではないが、敢えてシースルーにしているわけでもなさそう。自然体というより、大自然へと歩いて帰りそうな奔放さを備えていた。
ライムグリーンの頭の上から長く艶やか足の先までを流し見して、二周目には入らず俺は率直な言葉に口を開いた。どちら様か存じ上げない、と。
「? あたしの生徒志願者ではないのか」
裸足で踏むアスファルト。ペタペタ。
彼女は俺が座る車止めに腰を下ろして、長い足を優雅に組んだ。
「師を探しているような顔をしていたから」
「まぁ塾に入って夏期講習でも受けようかと思ってたところではあるんですが」
「じゃあお金をくれる人か?」
「お金をくれる人?」
からん、と。
毛先へと向かうにつれて段々と色が暗くなっていくライムグリーンの髪を揺らしながら、彼女は小銭の入ったパイナップル缶を俺の鼻先まで持ち上げて小さく揺らした。僅かに残った甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
「前にここで立っていたら、食べ掛けの缶詰にお金を投げて行った小学生がいたんだ」
恵んでもらってんじゃねえか。
「次に立っていたときは食べ終えて空だったんだが、そのときは大人の人も入れて行った。首から下げるボードには『私に夕食を食べさせてください』と書いたらどうかと言われたけど、それでは趣旨から外れるからな。あたしはあたしを先生と呼んでくれる人を探しているんだ」
「教師なら自然と『先生』と呼んでもらえるのでは?」
「いや、それは無理だ。あたしは教員免許を持っていないからな。仕方がないから日がな一日、先生と呼んで慕ってくれる生徒を探しているんだ」
無職だった。
だいぶ見た目通りだったので驚きこそしなかったが、腑にも落ちない。
先生と呼んでほしいなら、
「教員免許を取ったらいいんじゃないですか? 教育大学だとかに入って」
「難しいだろうな。こんな髪色では」
「染めなければ済む話では?」
「染める?」
「いやだってそれ、美容室かなにかでライムグリーンに染めてるんじゃ……」
「染めるというか、染まってしまうんだ」
彼女は少し俯き加減で、くるくると人差し指で長い髪の先をいじった。
「ワサビを食べているからね」
「………………、はい?」
「うん?」
「なんて⁇」
「ワサビ、食べているからねぇ」
聞き取れなかったわけではない。耳を疑ったのだ。
というのを理解していないようで、燕尾服と膝丈のズボンに裸足の彼女は「はてな?」と呆けた表情で俺の顔を覗き込む。
少し話しただけだがもう分かった。子連れの母親がいたら、見ちゃダメよと我が子の顔を手で覆う。そういうタイプの人間だこの人は。
「ワサビですか」
「うん、ワサビ。信州だからねぇ」
彼女は胸へと手をやり、ポケットに刺さった茎のついた丸いハート型の葉っぱを引っ張る。
ワサビが出てきた。
葉に繋がった細い茎だけではない。
艶々と光る水平の皮目とゴツゴツとした突起がついた、若い桜の木の樹皮を彷彿とさせる立派なワサビが。
「食うか?」
「いや食べませんよ。てかなんで、ワサビ常備してるんですか」
「信州人は皆そうさ。三種の神器と言ってな。冷蔵庫に洗濯機、そしてワサビだ」
「最後だけ家電じゃないのおかしいだろ。テレビはどうしたんですかテレビは」
「お前、今どきテレビなんて誰も観ないぞ。時代はサブスクとショート動画さ」
それはそうだけど、そうじゃない。
とはいえ、反論したところで意味がないのは推して知るべし。
俺はそっとこの場を去ることにしようと、車止めに腰掛けたまま窓から駅舎内へ目をやった。カーテンが引かれた切符売り場の横の時刻表。上り方面、松本行き。
四〇分後ッ⁉︎
というか一時間に一本しか電車来ねえのかここは。
驚愕と同時に突きつけられるのは、このワサビ娘から逃げられないという事実。
暇潰しだと思って甘んじて受け入れることにした俺は、尻のポケットからタオルハンカチを取り出し、額と小鼻、首に浮いた汗を拭いた。
昼下がり。頬を撫でるそよ風が生暖かい。
「ワサビはいいぞ。そばもいい。信州人は毎日そばを食べるから、健康で世界一長寿なんだ」
「はぁ、」
真偽を確かめようという気は起きず、それより俺は、この人がいう『信州人』とは長野県民のことではなく、信州という星から来た異星人を指すのだと思うことにした。人類に属する部分集合であるが、要素はこのワサビ娘ひとりである。
「おかげであたしの健康年齢は十七歳ときている。そばのおかげさ」
「それ普通に実年齢なんじゃ……」
「いや、実際より一歳も若いんだ」
誤差だろ。というか年上だった。
「それで、君はなにをしに来たんだ? ここら辺の人ではないだろう。名前は?」
「俺は松本柏矢っていいます。夏期講習を受けるために塾に入ろうとしてたんですがね、ここへは間違いで来てしまって」
「ここの人っぽい名前だな」
「え?」
「こっちの話だ。それより『先生』を探していると、たしかにそう言ったな?」
急にワサビ娘の瞳が爛々と輝き出し、彼女はぐいぐいと身体を寄せてくる。
「偶然ってあるものだねえ。ちょうどいい」
「なんもよくないですよ」
「なんだ、まだなにも言っていないぞ?」
「言わずもがなですよ。あのねえ、俺は先生を探しているのであって『先生と呼ばれたい人』を探しているわけじゃあないんです」
「教員免許は持ってないがね、一応あたしにだって教えられることはある」
「ワサビの産地ごとの見分け方とか興味な────」
刹那。
駅舎の陰は、陰ではなくなった。
明かりが灯ったのではない。
有明駅とその前の駐車場を含む広範囲に、突如として巨大な『影』が落ちたのである。
「……出たか、八面大王。いや、こいつは『端物』か」
呟くように言ったのは、天を仰いだワサビ娘。
釣られた俺は、彼女の視線の先へと顔をもたげた。
俺は。息を、呑んだ。
眼前に広がる光景が、俺の知り得る現実ってやつを粉微塵に破壊する。
走馬灯。
いつだったか『漆黒』を見たことがある。
理科の教科書だったような気もする。九九.九六五パーセントの光を吸収する、ベンタブラックという物質。二〇一四年開発。発明したのは英国の企業だったか。その高過ぎる吸収率から、表面の凹凸がまるで見えなくなってしまう代物。教科書に付された写真には、ベンダブラックで作った人の顔の模型が写っていた。
あれが、あった。
半径五〇メートルは裕に覆い尽くしているであろう、莫大な陰を作っている張本人を、俺は確かに見ていたはずだが、その表面を知覚できない。
三階建ての家ほどもある巨大なその『影』は、僅かばかりも立体感を持ち合わせておらず、ゆえに空間に巨大な穴が空いているかのような錯覚を起こさせる。
しかし、一つだけ分かったのは。
その巨大な『影』というやつに、二つの目があったこと。
「安心したまえ、ハクヤ君。すぐ済む」
そう言うや否や、ワサビ娘。
彼女はなにかを掬い取るように両手でお椀を作った。
すると、
服の間から覗く、彼女の柔肌。
淡い緑色に発光する龍の紋様が浮かび上がった。
────畏み畏み白さく。
────天地開闢の時より大天井に坐します神々の御前に申さく。
────北なる高嶺、穂高の峰に降りし白雪。
────解けて巌を伝い、大地に沁み渡りて湧きいずる泉。
────その清き流れ、すべて北の峰の神々の賜いし恵みなり。
────安曇の里に坐します九頭龍大神。
────その御力に依りて流れは絶えず、枯るることなく、常に清浄ならん。
────九頭龍大神よ。
────その御力を以て流れを澄ませ。
────穢れを祓い、我らに安寧と清き恵みを授け給え。
さらさらと、溢れ出す清流。
雪解けの如き透き通った水。
形の整った長い爪と肌理の細やかな掌の。
その中をいっぱいに満たす。
「…………『魔法』みたいだ」
奏上。
二礼二拍手一礼。
気づけば、
巨大な『影』は、風を纏った神秘の水が描く流線とともに跡形もなく消えていた。
「『魔法』だよ」
夏休み二日目。
兄貴の箪笥から盗み出した電車賃を握り締め、間違った切符を買い、ボタンを押さなきゃドアが開かないうえ一時間に一本しか通らない二両編成の電車に乗った。
大きな建物がほとんどなく、地平線は見渡す限りの田畑。それでいて、遠い空のキャンバスが北アルプスの山々の稜線によって削り出され、まるで油絵のよう。
そんな初めて踏む土地で、
「あたしはエクレール。信州信濃の山河と大地が産み落とした風雲児」
俺は────
「幻想と夢幻の魔術師さ」
────若き魔術師に出会った。
週末は複数話、平日は(20時に)1話ずつ更新致します。