第4部 2年後、君を希う
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2年後、2024年9月28日。
長野県白馬村、残暑、昼下がりのカフェのテラス席。
あの夏から1年間の『休学』を挟んで、大学4年生になった僕は、一人パソコンと向き合いながら、彼女のことを思い返していた。
彼女は僕にとってのなんだったのだろう。
彼女が僕の人生の中に存在した意味はなんだったのだろう。
その問いの答えの一つとして、2年前の僕も、今の僕も、白馬村にいる。
2年前、2022年8月1日、僕の恋が明確に終わり、僕の心が確実に壊れたあの日から3日後の――2022年8月4日。
僕は長野県白馬村に逃げた。バイトとバイトの合間を縫って、すぐに出かけた。その失恋の痛みを大事に抱えたままに逃げ出したかった。どうしようもないくらいに辛かった。
未だかつて訪れたこともなかった白馬村を選んだ理由は、中学時代にネット上で交際していた元カノが住んでいる場所だから、という呆れたものだった。
彼女には、交際1カ月半でフラれてしまったが、その後も年に数回、連絡を取り合う関係は続いていた。そんなことから、6年前の交際時に交わした『白馬に会いに行く』というやり取りを、ふと思い出し、今回はそれを実行することにした。
事前に連絡をした上で、滞在2日目に、彼女のアルバイト先であるホテルのレストランを訪れた。サービスでエビを多めに載せてもらったピザを食べて、彼女お手製のガトーショコラも食べた。会計前にツーショット写真も1枚撮った。一度、彼女が東京に友達と遊びに来た際にも会っているため、今回が二度目の対面ではあったものの、6年前に交わした約束をようやく果たすことができたことには、それなりの感動を覚えた。
だけど、今回の一人旅はそれが目的ではなかった。
失恋をしたときに、僕は過去の失恋をそこに重ね掛けしてしまう癖がある。
そうやって、その〝傷〟を失くさないために僕は、新宿のあの冷たいワンルームを飛び出して、白馬村へとやって来た。炎天の下を歩き続けて、灼熱の太陽に傷心を焼き付けた。
――忘れるな、この想いを。この苦しさを、脳裏に刻みつけろ。
――忘れないために、変わるな。変わらないために、忘れるな。
平田に去られて失恋したことを。この暑い日差しの中で田舎道を歩き続けたことを。10年前に流行った平田の好きなボカロ曲を聴き続けたことを。その曲を原題にした夏の空想劇を読みふけったことを。初めての一人旅でなにもかもから解放されたことを。道端にヒマワリが咲いていたことを。夏のスキージャンプ競技場で過去に耽っていたことを。
そして、――平田のことが、高篠ミヤビのことが、好きだったことを。
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2年前の、あの夏のことを振り返ってみて、思ったことがある。
【わたしの個人的な事情で全部切ってごめんね ナナセに悪いところはマジで一切なくて全部こっちの問題でした ほんとごめん】
これは、あの8月から約5ヶ月後の2023年1月9日、切り忘れていたのか、唯一ブロックされていなかったInstagramのDMに【あけましておめでとう】とほざいた僕のもとに返された平田からのメッセージ。
平田は、当時色々と悩んでいて、すべてに嫌気がさして、人との関りを切ったらしい。それを知った僕は、彼女からの謝罪と、自分への気持ちがあったことが素直に嬉しかった。
――だけど、今はそうは思わない。
彼女が僕に抱えていた悩みを相談しなかったのも、それが原因ですべてとの関係を切り、その〝すべて〟に僕が含まれていたことも、彼女の気持ちが僕になかったことを意味している。
僕は、メンタルが崩れている彼女のそばにいられる都合のいい存在なだけで、その先に一歩踏み出すことができる存在にはなれなかった。タイミングが合ったから、仲良くなっていただけで、きっと普段通りの君とは友達にすらなれない。
年明け、結局、彼女と再び繋がりを持ったのも束の間、一度目に通話をして、二度目にゲームをした結果、彼女からの連絡は来なくなった。
でも、正直、彼女との再会は楽しくなかった。まるで他人みたいだった。
あの日の続きなんて、絶対に叶わない。あの日の焼き直しは、焼き直しでしかない。
思い出せない会話のトーン、話のテンポのズレ、嚙み合わないノリ、なにもかもが変わってしまっていた。あのときにしか紡げない関係値があったのだと、気付かされた。
だから、もう、彼女のことはいいや。そうして未練は切れた。
――切れたはずだった。
だけど、それでも白馬村に来ると、やっぱり彼女のことを思い出してしまう。
〝彼女に会いたい〟――そう強く願ってしまう。
長野駅東口で、2年前にも食べた蕎麦をついまた注文してしまう。夜中に宿を飛び出し、橋の上から暗がりの河川敷に向かって、君の名前を叫んでしまう。外国人しかいない小さなクラフトビールバーに一人で入って、君のことを考えながら酔いつぶれてしまう。
東京にいるときだってそうだ。コンビニに行くと、君が好きだと言っていた『爽』のバニラアイスを手に取ってしまう。あのとき調子に乗って買ったRazerのゲーミングヘッドセットをメルカリに出そうとして、結局やめてしまう。君が好きかもわからない銘柄の煙草を吸って、むせてしまう。新しいアカウントを作るたびに、『ナナセ』という名前にしてしまう。新宿駅の雑踏と喧騒の中で、君に少しでも似た人を無意識に探してしまう。
――煌びやかなハートとリボンがあしらわれた、白黒のネイル。――ケチャップが雑にかけられた、具なしの手作りオムライス。――課題用紙の隅に描かれた、元素記号で作った顔文字の落書き。――コンカフェで宣材用に撮られた、可愛らしいメイド服姿。
君から送られてきた、そんな写真の数々が――、
――一緒にお酒を飲みながらゲームをした夜の、散々悲惨なリザルト画面。――たった1カ月半の間に溜まった、700通を超える、くだらないメッセージのログ。――「壊れたリコーダーみたい」と自虐していた、療養中の君のカラカラ声。
バーチャル越しにしか出会えなかった、君のカケラたちが――、
それらすべてが、記憶の中でぐちゃぐちゃに混ざって、一気に脳内に溢れ出してくる。この2年間という長い時間の中で、ばらばらになっていたはずの記憶たちが、今、ふいに心の奥で溶け合い、思い出という波になって押し寄せてくる。
――僕は彼女に〝恋〟をしていた。
触れたことのない君なのに、どうしてこんなにも恋しかったのだろう。彼女のいったいどこが、ここまで僕を惹きつけたのだろう。
――改めて自問自答して、わかった。
〝タイミング〟だった。
別に優しいわけじゃないし、良いヤツでもない。それでも好きだったのは、僕と彼女が出会ったタイミング。お互いが失恋していた時期の、傷の舐め合い。そして、その綺麗な声と、くだらない駄弁りと、ストゼロ片手に可愛い顔をしている自撮り写真と、要素盛り盛りのキャラクター造形と、無邪気な笑い声が、僕を恋に落とした。
2年ぶりに一人で白馬村に来て、平田のことをずっと考え続けている。
夕食を食べているとき、もし、この広いソファー席に、目の前の席に、平田が座っていたなら、どんな話をするのだろう。ゲームの話でもするのだろうか。それとも、実験の話でもしてくれるのだろうか。わからない。なにもわからないから、あり得ない未来だから、想像するのがすごく楽しい。この暗い道、この明るい部屋、隣に平田がいてくれたなら。僕は彼女となにを話すのだろう。彼女は、はにかみながら、「ナナセ、大好きだよ」と言ってくれるのだろうか。身長169cmの細身の彼女は、浴衣姿がきっと似合ったのだろう。彼女のそんな姿が見たかった。彼女に、一度でいいから会いたかった。そして、あのときは大変だったね、なんて笑い合って、僕のこと切ったくせに、とからかって、平田が笑って、そうやって、二人で白馬の地ビールが飲みたかった。キャバ嬢なんだから接待してよね、とか冗談を言って、彼女は乗り気で接待してくれただろう。楽しいだろうな、そんなの。あればよかったな。一緒に写真とか撮りたかったな。もっともっと、色々な話がしたかったな。そして、あの夏の歌を、あえて有線イヤホンで二人で聴くんだ。
彼女が好きな歌を僕は一人で聴いて、この田舎道を歩き続ける。バーチャルと現実が溶け合った、あの夏の延長線上にある未来を、夢想し続ける。彼女との、独りよがりで一方通行な夏の思い出を、描き続ける。
◆
彼女と出会ったことで僕の人生は大きく変わった。
そして、改めて問おう。彼女が僕の人生の中に存在した意味はなんだったのか、と。
そんな問い、改めて答える必要もない。
だってその意味は、これからも増え続けていく。一日一日、誰かに出会う度に、誰かを好きになる度に、答えは生まれていく。
君と出会わなかった人生なんて考えられない。君がいたから今の僕がいる。これからの僕が生きていける。
もう〝恋〟はできないけれど、誰かを好きになることができる。〝失恋〟をしたから、今の僕は本当の意味で誰かのそばにいることができる。
だから、だからさ、
あの日、僕を切り捨てたあの日みたいに、もしも、君があの日みたいになってしまったときはさ、
頼りない僕なんかよりも、もっと格好いい、ヒーローみたいなヤツに、救ってもらってくれよ。
恋に夢中で、君のことなんかこれっぽっちも見えていなかった僕と違って、ちゃんと君のことを好きでいてくれるヤツの、隣にいてくれよ。
だから、
「私、ナナセのことブロックした後、死のうとしたんだ。失敗しちゃったけどね」
僕は平田が好きで、
平田には感謝していて、
平田には、――高篠ミヤビには、
絶対に生きて、幸せになってほしいんだ。
【完】