第2部 液晶を隔てて、恋をする
◆
〝ナナセ〟――それは、彼女が初めて僕に付けてくれたハンドルネームだった。
未練がましくもその名前をひたすらに使い続けた。君しか呼ばないその名前に、あるはずもない意味を求め続けて。そして僕も、意味もない名前を呼び続けた。
「ミヤビー?」
「はいよー」
君は普通に反応してくれるけれど、僕はその呼び方に、意味を求めていた。それ以上の意味を求めて、君の知る由もない僕の過去を全て乗せて、君の名前を呼んでいた。
「『ミヤビ』かー、古風だな」
「でしょ。よく言われる」
「これからはさ、『平田』じゃなくて、たまには『ミヤビ』っても呼んでいい?」
「どっちでもいいよー」
「え、本名で呼ばれた方がなんかよくない?」
「んー、別に私名前とか気にしてないからなー。ほらわたし源氏名とかもあるし」
「コンカフェの?」
「そうそう。知りたい? 店のTwitter教えてあげるよ」
「あー……、いいかな、そういうのは」
「なんだよー、でもナナセは『ナナセ』って呼ぶからね!」
「いいよ! 初めて『ミヤビ』に付けてもらった名前だし」
「大事にしてねん」
「勿論! 一生、使い回し続けます!」
「あははっ、絶対だよー」
意味なんてないものに意味を求めて、自分勝手に近づけた気がした。
「――私、恋愛興味ないんだよね。友達の方がよくない? 恋愛なんかどうでもさ」
「――友達としてだったら、ずっと関係性なくならないじゃん? 恋愛なんて面倒だよ」
「――ずっと一緒にいれる〝友達〟がいいんだ。彼氏彼女なんて関係じゃなくて」
「だから、ナナセ」
「ん?」
「大好きだよ」
近づけたと思っていたのは、僕だけだった。その「大好き」に〝意味〟を求めていた。だって、今の君にとっての相手は、僕だけだったから。そう思っていた。彼女の拠り所になれていると思っていた。
「マジ、最近フレンドがヤバくてさー」
「なんか暴言でも吐かれた?」
「いや、店の垢教えたらすごいメッセージ来るようになっちゃって」
「えー、そういうのあんま知らない人に教えるなよ」
「やでも最初はめっちゃいいやつだったんだよ? ゲームもうまいし、話も面白いし」
「そういうやつに限ってってか」
「そうなんだよねぇ」
「てことは僕もいつか豹変するかもよ?」
「え! こわ! って、ちょま、……うわ、めっちゃ電話来てる。どうしよ、ナナセ!」
「やば、流石に電話は出ない方がいいんじゃない? ステータス非表示にしたりしてさ」
「んー……、ちょ、一旦話してくるわ」
――。
「――もう、アイツ解除した。やっぱナナセしか勝たんわ。今日何時までできる?」
――。
彼女のフレンドは僕だけじゃない。そんなのはわかっていて、だけどその事実を知って、それでも、僕が彼女の特別になれているような気がして、僕は世界で一番に嬉しかった。
【なんかまいにちおいしそうなの食べてるね】
【食べるの好きだからね、前までキムチ納豆だったけど笑笑】
Instagramのストーリーに返信が来て、胸が高鳴ったこともあった。
ゲーム内のボイスチャットでも、Instagramの通話でも、Discordのメッセージでも、彼女とのやり取りは続いていた。
【ナナセと喋ってると女友達と会話してる感じになってしまう 実は女だったりする?】
【逆ネカマ】
【なんの得もしないやんけ】
【いやどうゆうことやねん 異性として意識されてないんですか僕】
【わりと女子だと思ってる 喋りやすいからかな】
【男として哀しくなった いやこれ褒められてるはずなんだよなおかしいな】
【草 褒めてる褒めてる】
【そか 複雑な気分だけど】
【超褒めてる】
【平田は異性とは話すの苦手なの?】
【異性と話すと接客って感じになっちゃう】
【学校でも?】
【学校ではならんけど別に喋ってて楽しくないしなあ】
【待ってそれ僕とは楽しいってことじゃんありがとうありがとう】
【ナナセはたのしいよ】
【うわキュン死にしちまう 僕も平田と話すの好きだよ楽しい】
【しってる】
【いや嘘なんだけど】
【ころすぞ】
【しってる】
【ゆるさない】
【ほんとにすきだよ笑】
【しってるよ(≧▽≦) オジサンみたいな顔文字使っちゃった(≧▽≦)】
こんなくだらないやりとりの中でも、彼女の好意を測って、自分勝手に期待して、ふざけたフリをして恋心を送っていた。勘違いさせる君が悪いだなんて今でも思わないけれど。
「ねぇ、ナナセ」
「ん?」
「最近元カレからLINE来てさ、マジうざいわぁ」
「あれ、高校のころ付き合ってたって話の?」
「そうそう。前言ったか覚えてないけど、一回復縁して、3か月前にまた別れた」
「え、そうなんだ。実は、僕も3か月前に別れてるんだよね」
「え! 一緒じゃん。どう? 未練とか」
「あるわけないよ、もう終わったことだし。……それに、今は平田がいるからめっちゃ楽しいし」
「そりゃあよかった」
「平田は……?」
「もう恋なんてうんざりだから、もうないかな」
それを聞いて安堵すると同時に、今は恋愛に興味がないと知って不安に思った。彼女にも恋をしていた時期があると知って切なくなった。元カレの話は聞きたくないと思った。
「あーあ、うちの店長ほんと社不。平気で当日欠勤するの、マジでやめてほしい」
「大変そうだな……、まあ、平田ならなんとかなりそうだけど」
「あははっ、……だといいんだけどね」
「というと?」
「私さ、鏡見ると、思うんだ。……なんで私にもできないことがあるんだろうって」
「えっと……完璧主義、みたいな?」
「まあ、そんなとこかな。もっとうまくやれるって、そう思っちゃう」
「そうなんだ。僕も少しわかるかも。劣等感とは違うタイプの、そういうの」
「そう、そういうの。……って私なに話してるんだろ。ごめん、やっぱなんでもない」
不自然に取り繕おうとする君の声を聴いていると、心配になる。だけど、それと同時に、そんな姿を僕に見せてくれるってことは、少しは心を開いてくれているのかなって思えて、ただのゲーム友達という関係性以上に君に近づけた気がして、胸が熱くなった。
「(ナナセー……)」
「え、声どうした、酒焼け?」
「(エアコンあたりすぎたかな)」
「え、喉痛かったり、熱あったりしない? 大丈夫?」
「(まーじで声がカスカスなだけなんだよね、超元気)」
「ならいいけど、心配だな……」
「(ありがとぉ~)」
「ふっ」
「(笑うなー)」
カラカラになっても尚、未だに愛おしい君の声が、か弱く僕を呼んだ瞬間に、体中にエネルギーが湧くのを感じた。なんだってできる気がした。なんだって乗り越えられる気がした。なにもやることもないのに。なにも乗り越える必要もないのに。
それでも、彼女のためになにかができている気がしていた。
「(検査結果、陽性でした……)」
「やっぱそうだったか……」
「(ごめんね、聞き取り辛い声で)」
「なんで謝るの、ゆっくり休みなよ」
「(いや全然ゲームはできるよ、声張れないけど)」
「体調は?」
「(声以外は変わらず元気)」
「無理しないでよ?」
「(平気平気~)」
流行り病にかかってなにもすることがない、一人暮らしの部屋で10日間隔離生活を送っていた彼女。人にうつさないよう、頑なに外出しないところはどうしようもなく律儀で、そういういところ好きだよ、なんてまた見るに堪えないメッセージを指先で飛ばしていた。
【ねーー かまって】
【電話する?】
必要とされているのだと思えて、嬉しかった。通知が鳴るたびに、平田かと思ってすぐにスマホをひっくり返していた。平田以外からのメッセージなんてどうでもよくて、数少ない友達からのメッセージすら溜まっていた。
「平田、眠いの?」
「うん……」
「まだ3時だよ」
「んん……ずっと家の中いると時間の感覚なくなって……」
光度の落ちた液晶パネル1枚を隔てて、僕と彼女は繋がっている。
クーラーの音だけが小さく響く、カーテンも完全に下された薄暗いワンルーム。声が治っても尚、自宅療養中の彼女と、通話をしながらベッドに寝転んでいる。
「ちょっと、僕、水取ってくるね」
「ええ……、いかないで……」
「大丈夫、電話繋げたままだから」
「うーん……」
「もう寝る?」
ベッドから立ち上がって、スマホ片手に冷蔵庫に水を取りに行く。
「ナナセ……」
「んー?」
彼女の眠そうな声が、愛おしい。
生ぬるい部屋、こぽこぽと、コップに冷たい水を注ぐ。
「……」
「どうした?」
「――」
僕は今でも忘れない。
そのときの、スピーカーから流れる生活音も、7月下旬15時過ぎの中途半端な室温も、煙草臭くもない自室の匂いも、
「――ナナセー、大好きだよ」
君の声とともに、忘れない。
「……僕も平田が好きだよ」
「いえーい、ありがと」
だから、続くと思っていた、こんな日々が。Discordの通知も、たまに届くインスタのリアクションも、朝方まで十何時間も二人でゲームをし続けて、寝落ち通話をする時間も、ずっと続くと思っていた。毎日が幸せだった。家に帰れば平田がいる。どうしようもないほど幸せだった。こんな時間が一生続けばいいのにな、そう本気で思っていた。それを冗談みたいな口調で伝えた日もあった。
――だけど君は――、
「会お」
「え、マジで⁉」
「うん」
「えーっと、ドタキャンとかバックレはしないよな……?」
「なーに言ってんの、大丈夫!」
「いや、僕、アプリでそういうことばっかされててメンタルやられてるから……」
「あははっ、するわけないじゃん。ナナセだよ?」
このときの僕には、気づけなかった。
『朝なんて来なければいいのに』だとか、『早く君と会って笑い合いたい』だとか、そんなことばかりで頭がいっぱいで、画面の向こうに座る〝君〟のことなんて、これっぽっちも見えていなかった。
――だけど、だからって――、
「テスト明けね! それまでには絶対治すから」
「おう、約束な。8月1日だっけ?」
「うん、1日」
◆