第89章:迷いの中の手助け
ヴェイルは沈んだ表情で通りを歩いていた。
右脚に体重をかけるたび、いまだに歯を食いしばってしまう。
明日にしよう……。
ギルドのあの騒がしさを聞く気分じゃない。
今日は、ただ休みたい。
そう考えながら息を吐き、宿へ向かうため路地へと折れた。
試験票を鞄にしまい、軽く腕を伸ばす。
周囲は妙なほど静かで、
話し声も、仕事の音も、何ひとつ聞こえなかった。
そのとき――
足を取られ、ヴェイルは前のめりに転びかけた。
咄嗟に手をつき、衝撃を和らげる。
振り返り、擦れてひりつく手のひらを払ったあと、
彼は自分を転ばせた原因に視線を落とした。
そこには、地面に倒れ、痛みに呻く子供の姿があった。
ヴェイルはすぐに立ち上がり、駆け寄る。
「ごめん……。
俺の不注意だ。
大丈夫か、坊や?」
少し慌てた声でそう尋ねる。
子供はゆっくりと顔を上げ、ぎこちなくうなずいた。
服は破れ、長い髪はひどく絡まっている。
その直後、背後から慌ただしい足音が近づいてきた。
ヴェイルが振り返ると、
同じくひどく汚れた服を着た女性が駆け寄ってくる。
「すみません……!
うちの子が、ご迷惑を……。
本当に、ごめんなさい。
私がちゃんと見ていなくて……」
何度も頭を下げながら、必死に謝っていた。
「い、いえ……違います。
悪いのは俺です。
前を見ていなかったのは俺で……
ぶつかったのも、俺のほうです」
「俺が、気をつけるべきでした」
そう言いながら、ヴェイルは子供を支えて立たせる。
母親は子供を引き寄せ、離れたことを優しく叱った。
ヴェイルは一歩下がり、その場を離れようとする。
だが――
女性が、彼の袖を掴んだ。
「ま、待ってください……。
お金を要求したり……何か、するつもりじゃないですよね?
揉め事は嫌なんです。
欲しいものがあるなら、今ここで渡しますから……
他の人を呼んだりしないでください……」
怯えきった声だった。
「……何を言ってるんですか?
俺は、何も要求するつもりはありません。
悪いのは俺です。
何かするなら、俺のほうでしょう」
ヴェイルは困惑しながら答えた。
女性はゆっくりと袖を離す。
その目は揺れていて、
まるでヴェイルの言葉を信じられないかのようだった。
「わ、私……お金はありませんけど……
ほかの方法なら……。
お願いです、危害は加えないで……。
家に案内しますから……」
震える声で、そう続ける。
その言葉に、ヴェイルの中で苛立ちが膨れ上がった。
拳を握り締め、顎に力が入る。
「……いいから、ついて来てください。
黙って。
それ以上、何も言わないでください。
分かりましたね?」
低く、きっぱりと言い切った。
ヴェイルは身を引き、道を示す。
母親と子供は一瞬ためらったあと、立ち上がり、歩き出した。
彼らを先導し、ヴェイルはそのまま宿へと向かう。
やがて辿り着いた宿を見て、女性が口を開いた。
「……ここで、するつもりなんですね。
分かりました……。
でも、お願いです。
息子だけは、巻き込まないでください……」
ヴェイルは乱暴に扉を押し開け、目を閉じた。
聞かなかったことにするように。
「入って、座ってください。
それから……
変なことを言うのは、やめてください」
冷えた声で、そう告げる。
三人は中に入り、空いている席に腰を下ろした。
すぐに給仕がやってきて、卓にメニューを置く。
「好きなものを頼んでください。
俺の不注意のお詫びです。
勘違いしないでください。
俺は、あなたたちを利用するつもりなんてありません」
必死に感情を抑えながら、ヴェイルはそう言った。
子供は遠慮することもなくメニューを掴み、
並んだ料理を見て、目をきらきらと輝かせた。
一方でヴェイルはまだ緊張したまま、若い母親へと視線を向ける。
「……でも、一つ聞かせてください。
どうして、あんな提案をしたんですか?
俺は、最初から俺の不注意だって言いました。
仮にそうじゃなかったとしても……
あんなことをする理由には、ならない」
母親は一瞬言葉に詰まり、視線を落とした。
「……すみません。
不快にさせるつもりは、ありませんでした。
ただ……そうですね……
もう、癖みたいなものなんです」
「お金も、物も、ほとんど持っていません。
だから……それしか、方法がなくて……
そうすれば、相手も納得してくれることが多いんです……」
「……納得するって、何にですか。
理由がどうであれ、自分の体を差し出すなんて、正当化できません。
もし、本気で受け取る人間だったら……
その先、どうなると思ってるんですか?」
ヴェイルは、低く息を吐くように言った。
そのタイミングで給仕が戻ってきて、
水と木製のカップを卓に置き、何も言わず去っていく。
母親はヴェイルを見たが、
その瞳は焦点が合っておらず、どこか遠くを見ていた。
「……他の人たちも、同じです。
私がそこにいるだけで、気に入らない人もいます。
余計な揉め事を避けるために……
そういう“要求”をされることもあって……」
「……断れません。
そうしないと、子供に何をされるか分からないから……」
声は震え、今にも消え入りそうだった。
「……どうして、衛兵に訴えなかったんですか?
彼らは、市民を守る立場のはずでしょう」
ヴェイルは信じられない、という表情で問いかけた。
「衛兵……ですか。
あなたが思っているほど、まともじゃありません」
「……あの人たちも、同じような要求をします。
私はただ……生きていたいだけなんです。
子供を育てて……
それだけなんです……」
声は、さらに小さくなった。
再び給仕がやってきて注文を取り、
短い沈黙のあと、料理が運ばれてくる。
皿が置かれた瞬間、少年は嬉しそうに食べ始め、
母親を見上げて、満面の笑みを浮かべた。
「ちゃんと、お礼を言いなさい。
この方がいなかったら、食べられなかったのよ」
「めふぃ、もんしぇー。
とっても、おいひー!」
口いっぱいに頬張りながら、もごもごと礼を言う。
その様子に、場の空気は少しだけ和らいだ。
ヴェイルも、思わず小さく笑みを浮かべる。
どうして、ここまで追い詰められるんだ……。
どうして、誰も止めない……。
気に入らないからって、人を玩具みたいに扱うのか?
……この世界は、そんなふうに回ってるのか。
「食べてください。
少しでも、力になりますから」
ヴェイルは、声を和らげて続けた。
「俺にできることは多くありません。
でも……もし、いつか困ったことがあったら、声をかけてください。
俺の手に負えることなら、何とかします」
そう言って、自分の皿へと視線を落とす。
食事は、その後、軽い雑談を交えながら進んだ。
胸の奥では苛立ちが消えなかったが、
今ここで話し続けても、何も変わらない。
彼女にとって、日常はすでに十分すぎるほど過酷だ。
せめて、この時間だけでも――
考えずに済むなら、それでいい。
食事を終えると、ヴェイルは立ち上がり、代金を支払いに向かった。
カウンターへ向かう途中、ふと、一つの考えが浮かぶ。
「すみません。
食事代をお願いします」
そう言って、硬貨を置く。
だが、ヴェイルは唇を噛み、少し迷ったあと――
「……失礼ですが。
人手は、足りていますか?」
女将は一瞬目を瞬かせ、笑顔で答えた。
「働き手?
ええ、掃除の人は欲しいところだけど……
あなた、冒険者でしょう?
仕事を変える気?」
「いえ、違います。
あちらの女性のことです」
ヴェイルは、卓のほうへ視線を向ける。
「俺には、大したことはできません。
でも、あなたなら……。
もし、ここで働けるなら、
お子さんと一緒に住まわせてあげられませんか?
そうすれば……
少なくとも、今の状況からは抜け出せる」
彼は、女性から聞いた話を、包み隠さず伝えた。
女将は腕を組み、
さりげなく母子のほうを見やりながら、しばらく考え込んだ。
「できなくはないわね。
ただし、楽な仕事じゃないし、誇れるような職でもないわよ。
住む場所と食事は用意するけど、その分、給金は安い」
女将は率直にそう言った。
「正直……今よりひどくなることは、ないと思います。
俺から話してみます。
本人が納得すれば、ここに来るはずです」
ヴェイルはそう答え、席へ戻った。
腰を下ろし、指先で軽く卓を叩く。
「……ここで、働いてみる気はありませんか?
女将さんが掃除の人手を探しています。
理想的とは言えません。
でも……こういうことをしなくて済むし、
息子さんの面倒も見られる。
住む場所と食事は用意してもらえて、
その代わりに給金は少し安くなるそうです」
母親は目を丸くし、しばらく言葉を失っていた。
「……どうして、そんなことを?
私、そんなに哀れに見えた?」
「哀れだなんて思ってません。
ただ、今の生活から抜け出す方法を思いついただけです。
受ける義務はありません。
気に入らないなら、ここを出て、今まで通り生きればいい」
苛立ちを抑えきれず、ヴェイルは強い口調で言い切った。
彼は立ち上がり、少年を一度だけ見つめてから、
自分の部屋へ向かおうとする。
その途中――
女が彼の手首を掴み、ヴェイルはよろめいた。
「……ごめんなさい。
失礼な言い方をするつもりはなかったんです。
ただ……
私の夫も、あなたみたいに人を助ける人でした。
でもある日、助けた相手が盗賊で……
私たちは、何も持っていなかったから……」
喉を詰まらせながら、言葉を続ける。
「俺に、あなたたちの人生を変える力はありません。
あなたの言葉も、分かります。
それでも……
俺なりに、できることをしてるだけです。
理解できてない部分があっても、です」
「無理強いはしません。
抜け出したいなら、選択肢は示しました。
……もう休ませてください。
正直、限界です」
深く息を吐き、
再び少年へと視線を向ける。
少年は母親にしがみつき、
彼女はヴェイルの視線から目を逸らしていた。
「……ありがとう。
これが正解かは分からないけど……
試してみる価値は、あると思う。
今より悪くなることは、きっとない」
そう、静かに言った。
「ねえ、ママ。
また、あんなごはん食べられる?
おうちの、しなびた野菜より、ずっとおいしかった」
少年の言葉に、
母親は少し無理をした笑みを浮かべ、
優しく頭を撫でる。
「さあ……まずは、あの女の人と話さないとね」
穏やかに、そう答えた。
「じゃあ、俺はこれで。
本当に、休みが必要なんです。
……元気で」
あくび混じりにそう告げ、
ヴェイルは手を振る。
母子も、小さく手を振り返した。
彼は階段へ向かい、部屋に戻る。
外ではまだ、太陽が街を照らしていた。
服を脱ぎ、
そのまま毛布に潜り込む。
……正直、もう少し手加減してくれてもよかっただろ。
腹の中が、ぐちゃぐちゃだ……。
目を閉じながら、そう考える。
痛みを抱えたまま、
しばらく寝返りを打ち、
少しでも楽な体勢を探した。
「……なあ。
次からは、行く前に説明しろよ。
こんなの、全部一人で処理できるわけないだろ。
平穏な人生ってやつ、俺には用意されてなかったのか?
……それに、お前だよ。
この頭の中の、忌々しい声。
いつになったら、計画を教える気だ?
何を言おうとしてたのか……
そろそろ、話せよ……」
低く呟いた、その直後――
闇が、意識を包み込んだ。
彼の思考は、少しだけ穏やかな場所へと逃げていく。
この一日を……
そして、他の多くのことを、忘れるために。




