第87章:待ち望まれた知らせ
翌朝、ヴェイルはあまり気乗りしないまま目を覚ました。
雲に覆われた空のせいで、小さな部屋は薄暗く、街全体が沈んでいるように感じられた。
雨はまだ降っていなかったが、湿気が残した濡れたような匂いが、はっきりと鼻についた。
彼は服を身にまといながら、自分を奮い立たせる。
アリニアの帰還まで、残り二日しかない。
階段を下り、テーブルに腰を下ろして周囲を見回す。
だが、すぐに諦めるしかなかった。
カエラは、やはりもういなかった。
カエラがいないだけで、こんなにも静かに感じるなんて。
無事だといいけど。
……ほんと、こうやってすぐ人に情が移るの、やめないとな。
去られるときが、きつすぎる。
心がざわついたまま、彼は食事を素早く済ませ、宿を出た。
通りは人影もまばらで、今にも雨が降り出しそうな空気が漂っている。
外で遊んでいるのは子供たちだけで、親たちが慌てて追いかけ、家の中へ連れ戻していた。
人が増える前に着きたい。
そう思い、ヴェイルは足早にギルドへ向かう。
「急げば、二つは依頼をこなせるかもしれない。
明日には……昇格も狙えるな」
地面を見つめながら、小さく呟いた。
ギルドに到着し、扉を押し開ける。
中の光景に、思わず気の抜けた表情になる。
すでにそれなりの人数が集まっていたからだ。
だが、いつもより空気は張り詰めていなかった。
怒号も罵声もなく、聞こえるのは雑談ばかりだった。
ヴェイルはいつもの受付へ向かおうとしたが、途中でトルヴェンに呼び止められた。
彼は早足で近づき、落ち着かない様子で声を潜める。
「なあ。
カエラがどこにいるか、知らないか?
この前のこと、謝りたくてさ……。
昨日は休みで、来てたって話は聞いたんだけど」
「カエラなら……今朝、出ていったよ。
家族から手紙が来て、戻るように言われたらしい」
ヴェイルがそう答えた瞬間、トルヴェンの顔色が一気に変わった。
彼は何も言わず踵を返し、自分の持ち場へ戻っていく。
苛立ちを隠そうともせず、ヴェイルの存在など完全に忘れた様子だった。
ヴェイルはそれを一瞥し、再び足を進める。
幸い、受付には誰も並んでいなかった。
「おはようございます。
依頼を受けたいのですが」
できるだけ平静を装って声をかける。
「あら、おはようヴェイル。
ちょうどよかったわ。
今日は、あなたに用があったのよ」
彼女は顔を上げ、そう答えた。
「四日も来てなかったのに、名前を覚えてるんですか。
すごいですね」
思わず素直な感想が口をつく。
受付の女性は小さく笑い、立ち上がって彼の方へ身を乗り出した。
「だって、その名前をつけたのは私だもの。
あとから考えると、あまり良い選択じゃなかった気もするけどね」
周囲に聞こえないよう、ひそひそと囁く。
「僕は気に入ってます。
それに……あなたの名前、聞いたことがなかったなって。
カエラはトルヴェンの名前を知ってたのに」
「リシアよ。
私の名前はリシア。
聞いてくれてありがとう。
でも、気にしなくていいの。
ほとんどの人にとって、私たちは依頼と報酬を渡すだけの存在だから」
そう言って、柔らかく微笑んだ。
彼女は一歩引き、机の下を探るようにかがむ。
そして一枚の紙を取り出し、それを広げてヴェイルへ差し出した。
「おめでとう。
ヴァルドーンでの任務の功績が認められて、昇格推薦が出たわ。
この用紙を持っていけば、いつでも訓練用アリーナで試験を受けられる。
昇格試験は、そこで行われるの」
誇らしげな声だった。
ヴェイルは差し出された紙を見つめる。
胸に広がるのは、安堵と不安が入り混じった感情。
ようやく手にした、待ち望んでいた機会。
だが、現実として突きつけられた瞬間――
迷いが、静かに心の奥へと入り込んでいた。
「……も、もし失敗したら、どうなるんですか?
それと……試験って、具体的にどんな内容なんでしょう?」
ヴェイルはどもりがちに、恐る恐る問いかけた。
「試験の内容?
うーん……それは教えられないわ。
担当する教官次第だからね」
リシアは考え込むように言い、片方の腕に頭を預けたまま、もう一方の指で机を軽く叩く。
「でも、もし失敗した場合は、一か月待ってから再挑戦になるわ。
その推薦状は、そのときも使える。
この期間はね、自分に何が足りなかったのかを理解するために設けられてるの」
ヴェイルは紙を鞄にしまい込み、長く息を吐いた。
視線は宙を彷徨い、思考だけが頭の中で交錯する。
……本当に、俺は準備できてるのか?
アリニアが帰るまでにEランクになれって言ったってことは、そこまで難しくはないはずだけど……。
「……よし。
今日の午後に行きます。
何日も悩んでも仕方ないですし、早く現実を見たほうがいいですから」
そう決めると、彼は顔を上げた。
「それじゃ、良い一日を。
試験が終わったら、また寄りますね、リシア」
「ええ。
帰りを楽しみにしてるわ。
きっと合格すると思うけど……もしダメだったら、慰めにミルクを奢ってあげる」
くすっと笑いながら、そう返した。
ヴェイルがギルドを出ると、雲の切れ間から柔らかな陽光が差し込み、街を不思議な色で照らしていた。
人々も少しずつ外に出始めていたが、まだ普段ほどの賑わいはない。
彼はそのまま宿へ向かい、すぐに中へ入ると、空いているテーブルに腰を下ろした。
果実酒を頼み、ほとんど人のいない店内で、静かに待つ。
午後のほうがいいよな。
朝一だと、頭がちゃんと回らなさそうだ。
グラスに口をつけた、そのときだった。
「へぇ。
働かずにサボりですか?
冒険者って、いいご身分ですね」
その声に、ヴェイルは思考から引き戻される。
振り返ると、肩に手が置かれた。
そこには、大きな笑顔を浮かべたルシエラが立っていた。
彼女は向かいの席に腰を下ろし、リンゴのビールを注文すると、再びヴェイルへ視線を向ける。
「それで?
調子はどう?
この時間に会うなんて珍しいわね。
ここ数日、全然顔を見なかったけど」
「元気です。
でも……ルシエラさん、今日は他の衛兵と一緒じゃないんですか?」
ヴェイルが首をかしげた、その直後、店員がビールを運んできた。
だが、ルシエラは彼を呼び止め、その場で一気に飲み干し、追加を注文する。
「今日は休みよ。
でも、制服は着てるでしょ?
若いのって、冒険者と街のクズの区別がつかないのよ。
昨日なんて、リンゴ一個盗んだだけの子供を牢屋に入れようとしてたの。
リンゴ一個よ?
ほんと、聞いて呆れるわ」
再び運ばれてきたジョッキを、彼女はまた同じように空にした。
「五杯まとめて持ってきて。
そのほうが楽でしょ。
何度も往復させるの悪いし」
空になったジョッキを盆に戻しながら言う。
ヴェイルは、彼女の飲みっぷりにただ目を丸くしていた。
「……で、あなたの話に戻りましょ、可愛い子。
ねえ、私、まだ空いてるのよ?」
ルシエラは身を乗り出し、声を潜める。
「アリニアの代わり、私がしてあげてもいいわ。
幸せにする自信もあるし?」
さらに囁くように続けた。
「今日の午後、付き合わない?
買い物に行く予定なの。
まずは、ゆっくりお互いを知るところから、ね?」
「……すみません。
今日は無理です。
ギルドで、昇格試験を受けないといけなくて」
ヴェイルは少し気まずそうに答え、続けた。
「でも、明日なら予定は空いてます。
それでよければ」
「あーあ、明日は仕事なのよ。
だから無理ね」
ルシエラはそうぼやきながら、また一杯を煽る。
「まあいいわ。
そのうち、ゆっくり知り合う時間は作れるでしょ」
ヴェイルはうなずき、そのまま話題は彼の冒険談へと移っていった。
この街に来てからの出来事を語っていると――
「……ちょっと待って。
え、何?
奴隷を連れた男がいる店?」
ルシエラが、苛立ちを露わにして口を挟む。
「どうして、すぐに衛兵に知らせなかったの?
見た時点で来るべきでしょ?」
「知らせるって……?
確かに、あまり良い状態には見えませんでしたけど、ただの店でしたし……」
ヴェイルは、彼女の反応が理解できず、困惑したように答えた。
「……アリニア、何も言ってなかったのね。
まったく、あの子は……」
舌打ち混じりに言うと、ルシエラは立ち上がる。
「いい?
アルデリオンでは、奴隷の所有は完全に禁止されてる。
どこで買われたかなんて関係ない。
ここでは重罪――場合によっては死罪よ。
そういうのを見たら、即座に衛兵に報告する。
覚えておきなさい」
そう言い切ると、少しだけ声を落とした。
「……でも、知らなかったなら仕方ないわ。
あんたのせいじゃない」
そう言い残し、彼女は足早に宿を出ていった。
去り際の表情は、それまでとは打って変わって険しかった。
ヴェイルは扉を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
彼女の言葉が、頭の中で何度も反響する。
あの男が、あの少女にしていたことは……
そもそも、許されていなかったんだ。
グラスを空にし、数時間そのまま過ごしたあと、ヴェイルも宿を出た。
雲はすっかり晴れ、太陽が街に色を取り戻している。
通りはいつもの賑わいを取り戻していた。
彼は訓練用アリーナへと向かう。
もうすぐ、自分が立つことになる場所。
それをこの目で見ておきたかった。
これまで通ったことのない道をいくつも抜け、
やがて巨大な壁が視界に現れる。
中央には、大きく口を開けたような入口があった。
この前、もっと街を歩いておくべきだったな。
こんな場所があるなんて、知らなかった。
……それにしても、でかすぎるだろ。
白く磨かれた石壁。
その上には、剣を交える男や女の彫刻が並んでいる。
まるで、ここで起きた数々の戦いを語り継ぐかのように。
入口から中へ入ると、長い通路が続き、
やがて大きな空間へと出た。
楕円形に囲まれた壁。
中央には土の地面が広がり、十ほどの区画に分かれている。
そこでは、冒険者たちが木剣を振るい、
人形相手に、あるいは互いに打ち合いながら鍛錬していた。
ヴェイルは外周を歩きながら、
掛け声を上げて攻撃を繰り出す者たちを眺めていく。
やがて、ある区画の前で足が止まった。
そこには、異様に大柄な冒険者がいた。
相対するのは、明らかに線の細い若者。
大男が構える剣は、誰が持っても重すぎると思えるほど巨大だった。
「……頼むから、あいつが教官じゃありませんように。
冗談抜きで、山を真っ二つにしそうだぞ」
近くにいた冒険者が、苦笑混じりに呟く。
「怖いなら、なんで冒険者なんかやってるんだよ。
相手が何だろうが、立ち向かうのが仕事だろ?」
別の冒険者が、吐き捨てるように返した。
だが――
ドンッ……!
鈍い衝撃音が、空気を震わせた。
衝突の余韻が頭の奥まで響き、
二人の間に立ち込めた土煙が、ゆっくりと晴れていく。
そこには――
地面に尻もちをついた細身の若者と、
大地を割った巨大な剣があった。
「これで三回目だぞ。
まだ何も学んでいないのか?」
大剣の男が、低く唸る。
「次も同じ態度で俺の前に立ったら、保証する。
それが最後の試験になる。
これは遊びじゃない。
脚一本失ってから、軽く考えてたことを後悔するか?」
凄みのある声が、場を支配した。
ヴェイルは、思わず深く息を吐く。
どうか――
あの男が、自分の試験官ではありませんように。
昇格はしたい。
だが、恐怖で押し潰されるようなやり方は望んでいなかった。
地面に座り込んでいた若者は立ち上がり、
その場に濡れた跡を残したまま、闘技場を後にする。
それを見て、周囲から失笑が漏れた。
若者は顔を伏せたまま、
恥辱に耐えきれず、涙を流しながら外へと駆けていった。
怖くなっただけだろ。
あんな剣が、あと少しで命を奪ってたんだ。
ほとんどの人間が、同じ反応をするはずだ。
……それを笑うなんて、最低だ。
ヴェイルは、胸の内で吐き捨てる。
すると、大剣の男が観客席へと向き直り、
剣先を突きつけた。
「……で、次は誰だ。
言っておくが、俺の時間を無駄にするつもりなら、容赦しない。
ここに来るのは冒険者だ。
遊び半分のガキは、帰れ!」
その怒声に、場内は一瞬で静まり返った。




