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氷結の夜明けの果て   作者: Wolfy-UG6
プロローグ - 第1巻:新たな人生
9/50

第8章:冷気の中での崩壊

ヴェイルは歩いていた。

その身体は、疲労と容赦ない冷気に揺れながら。


一歩一歩がまるで鉄の重りのように感じられ、

わずかな動きすら、限界を超える努力を要した。


深く積もった雪が足元で沈み込み、

冷気が全身に絡みついて地面へと引きずり下ろそうとしていた。


右脚には鋭い痛みが脈打っており、

開いた傷口が一歩ごとに新たな苦痛を呼び起こす。


「……避難所を……

 ただ、少しでも休める場所を……

 手当てできるだけの……」


ヴェイルは悔しげに呟いた。


その声はかすれ、かつ苛立ちを含んでいた。

自分の体が、今にも裏切ろうとしていることへの怒り。


だが彼には分かっていた。

動き続けるしか、生き残る道はないと。


「……木の洞とか……

 岩の陰でも……

 風を避けられる何か……

 もう少しだけ……耐えれば……」


決意のこもった声が、冷たい空気に吸い込まれていった。


息はどんどん浅くなり、

一呼吸ごとに肺が焼けるような痛みを訴える。


まぶたが重くなり、

世界がぼやけていく。

まるで森そのものが、彼の意識とともに消えていくかのように。


「……足が……

 熱い……

 もう……歩け……ない……」


苦しげに彼は吐息をもらした。


歯を食いしばり、

顔を痛みで歪めながら、

それでも、動こうとする。


足は、もはやまともに動かず、

その一歩一歩が、どこまでも不安定になっていた。


そして──崩れた。


脚が力を失い、彼は木の幹へと倒れ込んだ。


「──ッ……!」


鈍い衝撃が肩に走り、

それは森の静寂の中に響いた。


痛みが全身を駆け抜け、

ヴェイルの口から、くぐもった呻きが漏れる。


そのまま、幹を滑り落ちるようにして、

雪の中へと崩れ落ちた。


今じゃない……

こんな所で終わるな……

立て……動け、頼むから……!


怒りと悔しさが交錯する中、

彼は必死に体を動かそうとした。


だが、腕はまるで氷のように動かず、

冷気が神経を麻痺させ、筋肉は完全に拒絶していた。


周囲の寒さはさらに増し、

雪は静かに、確実に、彼の体を覆い始めていた。


白い雪片が、彼の輪郭を少しずつ消していく。

まるで世界が、彼の存在を優しく消そうとしているかのように。


「……こんな……ところで……」


ヴェイルは震える声で呟いた。


その囁きはあまりに弱く、

広大な雪景色の中に溶けていった。


まぶたが重く、意識が抗えずに沈み始める。

昼の光が、黒く滲む闇へと変わっていく。


そして、最後の思考が彼の中を横切った。


これで……終わり?

こんな形で、終わるのか……?


その問いを最後に──


闇が、彼を包み込んだ。


森の中に、微かなざわめきが響いた。


木の枝がわずかに揺れ、ひとつの影が滑るように降りてきた。


その動きは正確で、まるで舞うように優雅。

まったく無駄がなく、環境を完全に把握している者のそれだった。


女狼は音もなく、雪の地面に着地した。


耳はぴんと立ち、わずかに回転しながら周囲の音を拾う。


その背後では白い尾がゆっくりと揺れ、集中の深さを物語っていた。


彼女はヴェイルに近づいていった。


その目は鋭く、青い光を宿し、彼の動かぬ身体を見据えていた。


足取りは静かで、雪にすらほとんど跡を残さない。


ヴェイルの傍にたどり着いた彼女は、膝をついてその様子を観察する。


「……まだ生きてる。

 驚いたな。

 こんな傷と寒さじゃ、とっくに死んでてもおかしくないのに」


彼女は息を吐きながら、冷静に言った。


手を伸ばし、彼の首元へと指を置いた。


その手は細くも、確かな強さを持っていた。


冷たい肌に触れた指先で、しばらく脈を感じ取っていた。


目を細め、彼の状態をじっくりと見極める。


「……バカな人間。

 どうせこうなるのなら、なぜそこまでして生き延びようとする……」


苛立ちを滲ませた声で、彼女は呟いた。


顔を上げ、鋭い目で周囲を見渡す。


風が強まり、細かい雪を巻き上げていた。


空気はますます冷たく、残酷さを増していく。


「ここに置いとけば、一時間ももたないな……

 こっちも悠長にしてる暇はないんだけど」


感情を排した冷静な口調で言いながらも、

彼女の表情にはわずかな迷いが浮かんでいた。


軽く息をつき、苛立ちと諦めが混じった溜め息を吐く。


そして、ヴェイルをもう一度見下ろした。


何かを天秤にかけるような目。


そして──決意。


彼女は迷いなく動いた。


滑らかな動きで身をかがめ、彼の肩の下に腕を差し込む。

もう一方の腕は脚の下へと通し、慎重に持ち上げた。


「……思ったより軽いわね。

 脆そうに見えるけど……

 ここまで耐えたってことは、それなりに骨があるのかも」


わずかに皮肉を込めながらも、彼女は呟いた。


小さく唸るような声を漏らしながら、ヴェイルの体を背負う。


彼は意識を失っているが、その重さは彼女にとって問題ではなかった。


「……足手まといにはならないでよね、人間」


その声は低く、囁くようだった。

だが、そこには確かな苛立ちが滲んでいた。


それでも、彼女は丁寧に動いた。

無理に揺らさず、傷を悪化させぬよう注意を払っていた。


最後にもう一度耳を回し、周囲の音に集中する。


異常がないことを確認し、雪の中を進み始めた。


立ち上がったとき、足元の雪がわずかに沈んだ。


だが彼女は、一切バランスを崩さなかった。


視線を一度、遠くの木々へ向ける。

目標までの距離を計っているかのように。


何も言わず、そのまま進む。


やがて、彼女の姿は木々の陰に溶け込むように消えていった。


雪の上に残された足跡は、ほんのわずか。


ヴェイルを背負いながらも、女狼の足取りは確かだった。


隠れた根を避け、

雪に潜む穴も見逃さず、

完璧なバランスで前へ進む。


彼女の動きは、まるで自然の一部だった。


「……着く前に死なれたら、全部無駄になるわよ。

 急げ」


彼女は自分にそう言い聞かせるように呟いた。


風が周囲で唸りを上げ、冷たい雪の渦を巻き上げていた。


それでも彼女の足は止まらない。


耳はピンと立ち、森の音を拾いながらも視線は前方から逸れなかった。


呼吸は深く、一定のリズムで。

その動きは、獲物を追う捕食者のように、無駄がなかった。


数分間、走り続けたのち、

前方に、霜に覆われた低木の奥に隠された岩陰が見えた。


彼女は速度を落とし、そこに向かって歩を進める。


「ここなら……問題ないわね」


満足げに呟いた彼女は、素早く足を振り上げ、

入り口を塞いでいた低木を正確な蹴りで払いのけた。


現れたのは、天井の低い不規則な壁の岩穴だった。

外の冷気から身を守るには十分な、簡素ながら確かな避難場所。


彼女は躊躇なく中へ滑り込んだ。


雪を踏む音が微かに鳴り、奥へと進んでいく。


内部に入った彼女は、鋭い目で周囲を確認した。


「……誰もいない。

 足跡もなし。

 しばらくは安全ね」


警戒を解かず、彼女はヴェイルの体を岩壁のそばに下ろした。


半ば座らせるように配置し、傷に負担がかからぬよう調整する。


腕と脚の位置を整えながらも、その顔から目を離さない。


顔は疲労と冷気に染まり、血の気が失われていた。

それでも、彼の胸はわずかに上下している。


「……まだ息はある。

 根性か……運かしらね」


冷ややかに呟いた彼女は、しばらくその場で動かなかった。


視線はヴェイルと、洞窟の入り口を交互に行き来する。


そして、静かに立ち上がる。


耳がわずかに揺れ、外の風の音を捉える。


「……この寒気はすぐ来る。

 急がないと」


その言葉とともに、彼女は素早く洞窟内を動き出した。


焚き火に使えそうなものを探して回る。

その動きには迷いがなく、ひとつひとつが効率的だった。


白い尾がゆっくりと左右に揺れる。


動作は正確で、まさに訓練された猟師のようだった。


腰に巻かれた革のベルトに手を伸ばし、火打ち石を取り出す。


その目は鋭く、集中の光を帯びていた。


すぐに、風に運ばれてきたと思われる枯れ枝や乾いた木片を見つけた。


彼女は膝をつき、素早く木を折って小さくする。


指先は冷たくも巧みで、まるで慣れた職人のように火の準備を進めた。


「多くはいらない……

 けど、あいつには今すぐ熱が必要。

 でなければ、助からない」


実用的な口調でそう言い、火打ち石を構えた。


チッ。


チッ。


火花が暗闇の中で瞬いた。


彼女は火打ち石を、もう一つの硬い石で打ちつけた。


暗い洞窟の中に、パチッと火花が飛び散る。


最初の数回は、かすかな煙が上がるだけだった。


彼女は目を細め、耳をぴくりと動かしながら、乾いた枝にそっと息を吹きかける。


「……さあ、燃えて。

 頼むから面倒はかけないでよね」


集中した声が、かすかに漏れた。


チッ、チッ。


再び火花が散る。


そのうちの一つが、ついに枝に触れた。


細い煙が上がり、やがて小さな炎が芽吹いた。


橙色の光がゆらりと立ち上り、洞窟の壁に影を映し出す。


炎はまだ小さく頼りなかったが、確かにそこにあった。


冷たく閉ざされていた空間に、わずかな暖かさが生まれる。


彼女はしばらくしゃがんだまま、火を育てるように木を配置していった。


満足した様子で体を後ろに引き、火のそばに腰を下ろす。


腕を組み、じっとヴェイルを見つめた。


その青い瞳は、どこか読めない感情を湛えていた。


「……生き残りなさいよ、よそ者。

 死にたがりなんて山ほど見てきたけど……

 あんたは……なぜそこまで必死なの?」


彼女は興味の色を隠さずに、低く呟いた。


視線を一度だけ彼に注いだあと、ゆっくりと炎へと目を移す。


沈黙は彼女を煩わせなかった。


それでも、この男に対する何か得体の知れない感情が、心のどこかを揺さぶっていた。


「こんなにも持つ人間……一体、どんな奴なの……?」


小さな声で、言葉が漏れる。


顔には感情を表さなかったが、耳はわずかに動き、外の風音と、男のかすかな呼吸を捉えていた。


彼女の意識は、洞窟の外と、目の前の男、その両方に向いていた。


「……そこまでして生き延びようとしたなら……

 せめて、チャンスぐらいは与えてやる。

 あとは……自分で証明しなさい」


そう言い切り、彼女は炎の揺らめきに目を落とした。


ぱち、ぱち──と、炎が木を焼く音だけが静かに響く。


その柔らかな光が、洞窟の壁を照らし、

揺れる影を生み出していた。


外では、雪が変わらず降り続いていた。


風の唸りが、遠くから静かに重なるように聞こえていた。


その音は、沈黙の中の静かな背景として、二人の空間を包んでいた。

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