第85章:別れの悔恨の下で
翌朝――
すでに太陽は高く昇り、村を柔らかな光で包んでいた。
小さな小屋の扉を、コンコン、と叩く音が響く。
ヴェイルはびくりと肩を震わせて目を覚ました。
隣では、カエラが毛布を引き寄せながら、眠そうに呟く。
「……ママ、誰か来てるよ。
でもあたし眠いから、行ってきて……」
「ママって……俺かよ。」
苦笑しながら、ヴェイルは目をこすりつつ立ち上がった。
まだ半分眠ったまま、ふらつく足取りで扉へ向かう。
――ガタン。
椅子の脚に足をぶつけ、危うく転びかけたが、どうにか机に手をついて体勢を立て直した。
その瞬間、再びノックの音。
ヴェイルは息を整え、取っ手に手をかけて扉を開いた。
「ヴェイルお兄ちゃん!」
弾けるような声とともに、小さな体が飛び込んでくる。
「ママがね、朝ごはんのケーキを作ったの! 一緒に食べよっ!」
「こら、エレノア。もう少し静かにしなさい。
見てごらん、二人ともまだ寝ぼけてるわ。」
母親――昨夜の女性が、申し訳なさそうに笑った。
「旅立つ前に、少しでもお腹を満たしてもらおうと思って。」
「ありがとう。……ほら、来い。」
ヴェイルは膝をつき、エレノアを抱き上げた。
彼女は嬉しそうに両腕を首に回し、にっこりと笑う。
そのままヴェイルはベッドの方へ向かい、まだ眠るカエラを見下ろした。
「なあ、エレノア。カエラを起こしてみるか?
そっとベッドに乗って……思いっきり飛び跳ねるんだ。」
悪戯っぽい笑み。
エレノアは一瞬ためらったが、すぐに勢いよく頷いた。
「聞こえてるわよ。」
カエラが顔をしかめたまま、ゆっくりと身を起こす。
「アリニアと同じで、私も耳がいいの。小声でも丸聞こえ。」
大きく伸びをして、欠伸をひとつ。
その欠伸が伝染したのか、エレノアも口を大きく開けて真似をする。
「ふふっ……やっぱり似てるわね。」
エリナリス――彼女の母親が微笑みながら言った。
「狭い部屋だものね。
支度が済んだら、うちで朝食にしましょう。外で待ってるわ。」
「ありがとう。でも……そういえば、まだお名前を聞いてなかったですね。」
「私はエリナリス。
でも“エリン”でいいわ。みんなそう呼ぶの。」
柔らかく微笑んでから、母娘は外へ出て行った。
扉が閉まると、再び静けさが戻る。
カエラは装備を整えながら、どこか居心地悪そうに視線を落とした。
「……昨日のこと、ごめん。
あんな過去を言うつもりじゃなかった。
でも、あの人に“自分だけじゃない”って伝えたくて……。
結局、無駄だったけど。」
ヴェイルは一歩近づき、そっと彼女の頬に触れた。
そのまま、指先で顔を上げさせる。
「謝るな。
お前が悪いわけじゃない。
……あいつの怒りに、お前が応える必要はなかったんだ。
俺にはわからない痛みかもしれないけど、それを背負って生きてきたお前を責める奴はいない。
話したくないなら、それでいい。……忘れよう。」
真っ直ぐな声だった。
カエラは目を伏せ、そして小さく息を吐く。
次の瞬間、彼の胸にそっと身を寄せた。
「……ありがとう。」
その言葉が、微かに震えていた。
ヴェイルは何も言わず、静かにその背を抱く。
だが――
「ママぁぁっ! 大変!!」
勢いよく扉が開き、エレノアが駆け込んできた。
二人の姿を見た瞬間、ぴたりと足を止める。
数秒の沈黙。
そして――一目散に外へ。
「ママ――!
ヴェイルお兄ちゃんとピンクの女の人が、赤ちゃん作ってたぁ!!」
その叫び声が、外に響き渡った。
ヴェイルとカエラは固まった。
「……は?」
次の瞬間、二人の顔が真っ赤になる。
そして、堪えきれず吹き出した。
「ちょ、ちょっと待って、どういう誤解よ……!」
「……まあ、元気で何よりだな。」
笑いながら顔を覆い、二人は外へ出た。
外では、エリナリスが困った顔で娘を抱き上げていた。
エレノアはヴェイルの手をしっかり握りしめ、ちらちらとカエラを睨んでいる。
まるで――母親を取られた子猫のように。
ヴェイルは小さく苦笑を浮かべ、空を見上げた。
明るい陽光の下、今日もまた、新しい一日が始まろうとしていた。
家の中に入ると、エレノアは勢いよく椅子を引いた。
「ヴェイルお兄ちゃん、こっちに座って! あたしはここ!」
「ありがとう。」
ヴェイルは笑いながら席に着き、エレノアがその隣にちょこんと腰を下ろす。
カエラは向かいの席へ。
エリナリスは小箱をテーブルの上に置き、台所へ消えていった。
ほどなくして戻ってきたとき、手には温かなミルクと数枚の木皿があった。
「さあ、冷めないうちにどうぞ。」
湯気の立つ白い液体をカップに注ぎ、それぞれの前に置く。
ヴェイルとカエラが礼を言うと、彼女は穏やかに微笑んだ。
だがその後――場に少し静けさが落ちた。
エリナリスは喉を鳴らし、娘に視線を向ける。
「どうしたの、エレノア?
そんなに人をじっと見つめて。
それに、“ありがとう”も言ってないわよ。」
エレノアははっとして、カエラからヴェイルへと視線を移した。
潤んだ瞳が揺れる。
「……ねえ、ヴェイルお兄ちゃん。
もし……ピンクの人と赤ちゃん作ったら、
もうあたしのこと、妹って呼んでくれないの……?
……また、あたしを置いていっちゃうの?」
小さな声。
けれど、その言葉は刃のように胸に刺さった。
テーブルの空気が固まる。
カエラは目を伏せ、エリナリスは唇を噛んだ。
ヴェイルの喉が、きゅっと締まる。
〈……“置いていく”って……。
まさか、俺がずっとここにいると思っていたのか……〉
彼は目を閉じ、息を整える。
どうすれば、彼女を傷つけずに伝えられるのか――。
そのとき、エリナリスが静かに口を開いた。
「エレノア、昨日も話したわよね。
この人たちは村に帰らなきゃいけないの。
他の子どもたちを助けるために、また旅に出るのよ。」
「でも……でもね。
もしまたモンスターが来たら?
ヴェイルお兄ちゃんがいなかったら……ママ、また泣いちゃうよ……」
エレノアの声は震えていた。
母親は何も言わず、そっと椅子を引いて娘を抱き上げる。
その手つきは、まるで壊れやすい宝石を包むように優しかった。
ヴェイルはそんな二人を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「……なあ、エレノア。
もしまたモンスターが出たら、ギルドに頼むんだ。
そうしたら、俺ができるだけ早く来る。
それに――お前が立派な女の子になったら、
毎年、一度は会いに来るって約束する。
そのとき、お前がどれだけ強くなったか見せてくれ。」
ヴェイルの声は、できるだけ穏やかで優しくあろうとしていた。
エレノアは一度、悲しそうに顔をしかめた。
だが、すぐに小さな笑顔が戻る。
「うん……わかった。
じゃあそのときまでに、すっごく強くなる!
ママが怖がったら、あたしがモンスターをやっつけるんだから!」
その言葉に、場の空気が和らぐ。
笑い声がこぼれ、エリナリスも小さく息をついた。
だが、エレノアの表情はまた少し曇った。
彼女は椅子を降り、カエラの方へ歩み寄る。
そっと彼女の膝に手を置き、俯きながら言った。
「ごめんなさい……さっき、意地悪言っちゃったの。
……ごめんなさい、カエラさん。」
「ふふ……いいのよ。
でもね、“カエラさん”じゃなくて“カエラ”でいいわ。
その方がずっと嬉しいから。」
カエラが優しく囁くと、エレノアは照れくさそうにうなずいた。
エリナリスは再び席に戻り、穏やかに微笑んでいる。
ヴェイルは黙って鞄を開け、机の上に小さな革袋を置いた。
中から三枚の銀貨――ジルン硬貨を取り出す。
「エレノア、ちょっと来て。」
少女は首をかしげながら、椅子に戻る。
「これを預ける。
もし本当に危ないことがあったら、ギルドに持っていくんだ。
そうすれば、俺か……別の冒険者がすぐに来る。
でもね――“大きなモンスター”のときだけだ。
困ってもいないのに呼んだら、ちゃんと怒るぞ?」
エレノアは真剣にうなずき、両手で硬貨を包み込んだ。
そして、くるりと母親の方へ振り返る。
「ママ! 見て! ヴェイルお兄ちゃんがくれたの!」
エリナリスはその光景を見つめ、微笑んだ。
けれど――その瞳の奥に、ほんの少しだけ寂しさが滲んでいた。
「ヴェイル……これは、少し多すぎるわ。
この村では、こんな硬貨を持っている人なんていないの。」
エリナリスの声には驚きが混じっていた。
「エレノア、そのお金はママに預けなさい。
大事にしまっておくから……誰にも見せちゃいけないわよ。」
「……すみません。考えが足りませんでした。」
ヴェイルは息を吐き、苦笑いを浮かべる。
よく考えれば、こんな村でジルン貨を渡すなど無用の危険だった。
村の貧しさを改めて感じ、胸の奥に小さな痛みが走る。
「……まあ、難しい話はやめましょう。
さあ、冷めないうちに食べましょう? 帰りが遅くなると困るでしょう。」
エリナリスはそう言いながら、テーブルに焼き菓子を並べた。
香ばしい匂いが部屋に満ち、空気が一気に明るくなる。
エレノアの笑い声が響き、カエラもつられて微笑む。
ヴェイルの胸の中には、ほんのひとときの安らぎが広がっていた。
――この時間が、永遠に続けばいい。
そんな考えがよぎったその瞬間。
――コン、コン。
扉が叩かれる音がした。
エリナリスが立ち上がり、扉を開く。
「……ああ、やっぱりここにいたのね。」
立っていたのはエルジナだった。
息を整えながら、手短に告げる。
「食事が終わったら、村長が呼んでるわ。
ギルドへの書類も全部用意できた。
大きな建物で待ってる。」
それだけ言って、彼女は振り返る間もなく去っていった。
扉が閉まると、静寂が戻る。
ヴェイルとカエラは視線を交わし、小さくうなずいた。
食事を終え、彼らは立ち上がる。
だが、エレノアが椅子を押して立ち上がり、ついて行こうとした。
「だめよ、エレノア。私たちは行けないって、昨日話したでしょ。
またあとで会えるから……ね?」
エリナリスが娘の手をそっと握る。
エレノアは唇を尖らせ、涙ぐみながらも、母の手を離さなかった。
ヴェイルとカエラは外へ出る。
その後ろで、小さな声が響いた。
「……やだ……一緒に行きたいのに……」
二人は歩きながらも、その言葉が背中に突き刺さるように感じた。
村を抜け、大きな建物の前に着くと、中ではエスメスとエルジナが待っていた。
円卓の向こう、いつも座っていたはずのメルローンの席は空のままだった。
「やあ、お二人とも。元気そうで何よりだ。」
エスメスが微笑みながら立ち上がる。
「依頼の件、すべて書類にまとめておいた。
これがギルドへの正式な報告書だ。
どう伝えるかは、君たちの自由だ。」
差し出された紙を見つめ、ヴェイルは小さく息を吐いた。
「……あなたたちのしたことを、完全に許すことはできません。
結果的に、冒険者を死なせる危険を生んだのですから。」
その言葉に、エスメスの微笑みが静かに消えた。
「ですが――同時に、助けを呼んでも誰も来ない現状も間違っています。
金がなければ命が救えないなんて……そんなの、間違ってる。
……エレノアは、あの小さな子は、そんな理由で死んでいい存在じゃない。」
ヴェイルの声は静かだが、熱がこもっていた。
エスメスは俯き、小さく頷いた。
「……そうだな。
理屈ではわかっているが、この世界は……あまりに冷たい。
もし君たちがいなかったら――私はきっと、一生この罪を抱えたままだった。」
ヴェイルは何も言わず、テーブルに置かれた書類を手に取った。
そして一歩前へ出て、エスメスの肩に手を置く。
「もう十分です。
俺はギルドには何も言いません。
ただ――覚えていてください。
俺みたいな新米でも、誰かにとっては“希望”でいられる。
……次に誰かが助けを求めたら、今度は迷わず手を差し伸べてください。」
そう言って、彼はわずかに頭を下げた。
カエラも同じように一礼し、二人は背を向ける。
エルジナは動かず、ただその背を見送っていた。
エスメスの瞳には、悔しさと敬意が入り混じった光が宿っていた。
建物を出たその先――
扉の影で、エレノアがしゃがみ込んでいた。
小枝を使って地面に絵を描いていたが、母親の「しっ」という小さな声で顔を上げる。
ヴェイルを見つけた瞬間、彼女は立ち上がり、駆け出した。
「……ヴェイルお兄ちゃんっ!」
小さな体が彼の腰に飛びつく。
涙で濡れた瞳が、まっすぐ彼を見上げた。
「忘れないでって言ったでしょ……!
ちゃんと約束したもん……絶対、帰ってきてよ……!」
ヴェイルは膝をつき、彼女の肩に手を置く。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
小さな手の温もりが、心に深く残って離れなかった。
「できるだけ早く戻るよ。
だから……いい子で待っててくれ。
……本当に、ありがとう。」
ヴェイルは静かにそう言い、エレノアを抱きしめた。
小さな身体が腕の中で震える。
肩に触れる呼吸は不規則で、頬を濡らす涙の温かさが服を通して伝わってくる。
彼女はしばらくそのまま動かなかった。
やがて、そっと顔を上げる。
涙を拭い、無理にでも笑顔を作って――
「約束するね。
あたし、ママをちゃんと守る。
ヴェイルお兄ちゃんみたいに、強くなるんだから。」
その言葉に、ヴェイルは小さく微笑んだ。
「……ああ。きっとな。」
エレノアは母のもとへ戻り、エリナリスの手をしっかりと握った。
二人は並んで立ち、去っていくヴェイルたちを見送る。
エリナリスは静かに頭を下げ、
「ありがとう」と口の動きだけで告げた。
ヴェイルとカエラは背を向け、村の出口へと歩き出す。
エリナリスの手を振る姿が、遠ざかっていく。
朝の光が、森の奥まで射し込んでいた。
鳥の声が微かに聞こえ、木々が風に揺れる。
それでも――ヴェイルの胸の奥には、
何かが欠けたような、説明のつかない虚ろさが広がっていた。
あの小さな笑顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
それは悲しみでも後悔でもなく――
ただ、静かに胸を締めつける“喪失”の余韻だった。
二人の影が、森の奥へとゆっくり伸びていく。
その先に待つのが新たな旅路であることを、
ヴェイルは痛いほど理解していた。




