第83章:灰燼に揺れる想い
女の嘆きが続く中、ヴェイルはふと血に混じる黒い痕跡に気づいた。
くそ……どうすりゃいいんだよ。
あんな化け物、俺には倒せねぇ。
でも……何もしなきゃ、あの子は死ぬ。
いや……もう、手遅れかもしれない。
髪を掻き上げながら、ヴェイルは苦悶の表情を浮かべた。
「それで終わりかよ!?
ただ突っ立ってるだけか?
今すぐ動かなきゃ、あの子は死ぬんだぞ!!」
メルローンが怒鳴りながら弓を強く握りしめ、顔をしかめた。
「……こんなもん、自分でやるしかねぇか」
誰かが反応する前に、彼は痕跡を辿って走り出した。
その背に、エルジナが短く目をやり、ヴェイルに向き直る。
「文句があるなら、戻ってきてから聞くわ。
でも今は……お願い、助けてほしいの」
その声には焦燥と不安が滲んでいた。
ヴェイルは長く息を吐き、小さく頷いた。
エルジナが走り去ったあと、彼は女性とカエラの元へ駆け寄る。
「カエラ、ここに残れ。
……もし俺たちが戻らなかったら、逃げてギルドに知らせろ。
無駄に命を投げ出すな。
……ここで踏みとどまらなきゃ、誰も生き残れねぇ」
声を潜めながら、彼はカエラに真剣なまなざしを向けた。
「奥さん……必ず、娘さんを連れ戻します。だから――」
女の肩にそっと触れ、そう言い残してヴェイルは走り出した。
地面に残る血の跡は、少女が傷を負っていることを物語っていた。
だが、間隔は広く……致命傷ではないかもしれない。
……で、どうすりゃいい。
追いついて、それで?
ここはダンジョンじゃねぇ。
奴には広すぎる。
アイツの外での動きなんて、俺は知らねぇんだよ……
息を切らしながらも、思考が止まらなかった。
数分後、森の奥で何かを抑えるような声が聞こえた。
駆け寄ると、エルジナがメルローンを地面に押さえつけ、怒りを抑えた声で叱りつけていた。
「バカなの?
遊びじゃないのよ!?
何がしたかったの、あんた……
あの子の代わりになりたかったわけ?」
ヴェイルは静かに近づき、あたりを警戒しながら口を開いた。
「……静かにしてくれ。
今はまだ近くにいるかもしれない。
音を立てりゃ、あっちに気づかれる」
メルローンはエルジナの手を振り払い、起き上がって睨みつける。
弓を拾い上げながら、怒りを爆発させた。
「うるせぇな……お前に何がわかる!?
あの子が攫われたのは、あんたらが来てからだろ!
全部お前らのせいだ!!」
ヴェイルの表情に苛立ちが浮かぶ。
この緊迫した状況で、メルローンの言動は無責任にも程がある。
「英雄気取りか?
突っ込めば助けられるとでも思ってんのかよ?
いい加減にしろ……
お前が死ぬだけならまだしも、俺まで巻き込む気かよ」
低く抑えた声だったが、その奥には確かな怒気があった。
メルローンが反論しようとした瞬間――
エルジナが彼の襟を掴んで引き戻した。
「黙りなさい、メルローン。
彼の言う通りよ。
あんたのせいで、みんな危ない目に遭う。
……死にたいなら、囮にでもなってきなさい。
でも、その傲慢さがいつまで保つか見ものだけどね」
言い捨てるようにそう言うと、メルローンは地面に座り込んだ。
苛立ちを隠そうともせず、背を向けたまま黙りこむ。
ヴェイルとエルジナは再び森に目を向け、神経を研ぎ澄ませた。
枝が揺れる音、虫の羽音……すべてが警戒の対象だ。
「……どうする?
血の量は少ないし、たぶんまだ生きてるとは思うけど……」
エルジナが問いかける声も、静かに揺れていた。
「どうするんだ……でも、ここまで来たんだ。進むしかない」
「三人いれば囮くらいはできる。
誰かが気を引いて、その間に他の二人で少女を助ける。
それしか……手はない」
落ち着きを取り戻したヴェイルが、息を整えながら静かに言った。
「もう他に、どうしようもねぇよな」
三人は再び歩き出した。
メルローンは不満を滲ませながらも黙って後ろをついてくる。
森を進むうちに、次第に空気に異様な変化が現れた。
「……あんたらも感じる?
生臭いっていうか……腐った肉の匂いと混ざってる」
エルジナが鼻を押さえながら呟いた。
風が運ぶその悪臭は、進むにつれて強さを増していく。
鼻腔にまとわりつくような、嫌な重さだった。
そして、木々が開けた先に小さな崖が現れた。
茂みに隠れるように、ぽっかりと開いた洞窟の入り口が見える。
「……くっそ、何の匂いだよこれ……」
エルジナが顔をしかめる。吐き気を催すような臭気に、歩みも鈍る。
彼らはそっと茂みに身を潜め、洞窟の様子を伺った。
そして、そこで見た光景に息を呑んだ。
洞窟の前には無数の白骨――だけではなかった。
緑色に変色した肉片、斬り落とされた手や脚、千切れた胴体が転がっていた。
その中を這うように無数の蠅が飛び交い、異様な音を立てている。
だが、最も目を引いたのはその中央にあった黒い影――
音を立てて骨を砕きながら、腕を咥えて貪る影。
ぬめった黒い毛皮に覆われたその姿は、血の沼に横たわりながら、なおも肉を貪っていた。
「……で、どうするんだ? どうやってあの化け物を動かす?」
メルローンが息を呑みつつ、小声で尋ねる。
ヴェイルは答えず、洞窟の奥を指差した。
そこには――
小さな影が横たわっていた。
血に濡れてはいたが、まだ肌には生気が残っていた。
「……あれか? 誘拐された子か?
にしても、間違いねぇ……
あの魔物、ダンジョンで見たのと同じだ……」
「確証はないけど……子どもには見えるわね」
エルジナが目を凝らしながら呟いた。
その時だった。
カタキシスがぴたりと耳を立てた。
周囲の空気を探るように鼻を鳴らし、数回嗅いだ後――
突如、素早く立ち上がると、洞窟を離れ森の奥へと走り去った。
「っく……見つかった!? いや、違う……なんでこっち来ないんだ……?」
メルローンが怯えた様子で地面に身を伏せる。
だがカタキシスは彼らの存在には気づかなかったのか、別方向へと姿を消していく。
ヴェイルはすぐに顔を振り、即座に判断を下した。
……今しかねぇ。
「ここで待ってろ。何があっても、絶対に音を立てるな」
そう言い捨てて、ヴェイルは茂みから飛び出す。
洞窟の入口へ向かって足早に進む。
お願いだ……間に合ってくれ。
もし戻ってきたら、もう……終わりだ……
焦りに胸を締めつけられながら、ヴェイルは入り口に辿り着いた。
その場に漂う腐肉の臭いは、想像以上だった。
だが――
彼の心を強く揺らしたのは、その直後の出来事だった。
洞窟の奥、横たわっていた少女が身を動かした。
血にまみれた手をじっと見つめ、ぎこちなく顔を拭う。
鼻をひくつかせ、嫌悪の表情を浮かべた少女は――
ゆっくりと、目を開いた。
静寂。
少女は目を見開き、周囲を見回す。
次第に、その表情が恐怖に変わっていく。
「……ま、まま……?」
「ママァ……! どこ……? ママァァァ!!」
悲鳴にも似た泣き声が、洞窟内に響き渡った。
ヴェイルは即座に駆け寄り、少女の目元を覆った。
震える小さな体を強く抱きしめ、耳元でささやく。
「大丈夫……もう大丈夫だから。
怖くない、俺が……君を助けに来た」
左腕に噛み跡が残っていた。
深く抉れ、まだじわじわと血を流している。
少女の体は震え、涙は止まらなかった。
「しっ……大丈夫、ここにいるよ。
今からおんぶするから、ずっとこっちを見ててね。
泣かないで。ママのところに、必ず戻るから」
ヴェイルはそう囁きながらも、心の中では焦りが渦巻いていた。
少女の叫びで、あの魔物が戻ってくる可能性――それが頭から離れない。
エレノアをそっと抱き上げ、ゆっくりと洞窟の外へ向かう。
骨を踏む音が、やけに大きく響いた。
「エレノア……だったよね?
このまま、ゆっくり進もう。音を立てちゃだめだよ」
そう声をかけながらも、自分自身にも言い聞かせていた。
少女は必死に泣くのを堪えながら、ヴェイルの目をまっすぐ見つめ続けた。
小さな体が震え、押し殺した嗚咽でピクピクと痙攣する。
ようやく洞窟の外へ出た瞬間――
ヴェイルは遠くから何か異常な気配を感じた。
エルジナとメルローンの挙動が明らかにおかしい。
その視線の先にいたのは――カタキシス。
口から血を滴らせながら、前足で何かを大事そうに下ろしている。
それは二つの卵だった。淡いクリーム色の殻に、マグマのような赤い脈が走っていた。
その口元にはまだ、犠牲者の残り香が漂っている。
「くそっ、なんてタイミングで戻ってきやがる……」
ヴェイルは、エレノアの目を手で覆いながら小さく息を呑んだ。
「聞いてくれ、エレノア。もし、俺が手を離したら……全力で逃げて。絶対に後ろを振り向かないで。いいね?」
少女は、恐怖に満ちた目で必死にうなずいた。
カタキシスは、まるで遊びの続きを楽しむかのように身を低く構えた。
地面にめり込むほどに爪を食い込ませ、助走をつけて一気に突進する。
「チッ、来やがった!」
メルローンが慌てて立ち上がり、矢を放つ――
だがそれは空を切り、岩に弾かれてしまった。
魔物の黒い身体がうねりながら加速する。
ヴェイルはエレノアを抱えたまま、地面に身を投げ出した。
「……逃げろ。俺が離したら、すぐに走るんだ。ごめんな……!」
その囁きと同時に、カタキシスの巨体が宙を舞う。
巨大な爪が、今まさにヴェイルを引き裂こうとしていた――
だが、その瞬間。
空気が変わった。
焼けつくような熱が辺りを包み込む。
太陽が爆発したかのような熱量に、皮膚が真っ赤に染まる。
オレンジ色の閃光が、ヴェイルの前を横切った。
次の瞬間、火のような爪がカタキシスの顎に突き刺さる。
そのまま巨体を岩肌へと叩きつけた。
ヴェイルが顔を上げた時――
そこにいたのは、あの時の存在。
──フェニラだった。
優雅に舞い降り、翼を大きく広げる。
その翼が炎を纏った瞬間、空間全体が灼熱と化す。
ヴェイルはエレノアを抱き上げると、全力で駆け出した。
エルジナのもとへ走り寄り、少女をその腕に託す。
「何して……フェニラ!? なんで……?」
エルジナは驚きに目を見開く。
だが、ヴェイルの表情を見てすぐに言葉を飲み込んだ。
「今が唯一のチャンスだ。
連れていけ、エレノアを村まで戻せ!」
「えっ……でも、あなたは……?」
「行け! 今しかねぇんだよ!」
彼は指差す。
炎の中でぶつかり合う二体の怪物。
フェニラがその鋭い爪で、カタキシスの粘液にまみれた皮膚を容赦なく引き裂いている。
「奴を弱らせておけば、二度と同じ被害が出ないかもしれない。
だから……あんたは、あの子を母親の元へ戻してくれ。それが、一番大事なことだ」
「……俺も一緒に残る。弓があれば、少しは役に立てるはずだ」
「お前が残ったら、エレノアを誰が守る?
エルジナが戦うことになったらどうする。
落ち着けよ、せっかく助けられたんだ……だったら、行け。今すぐだ!」
ヴェイルの怒号に、メルローンは何も言えなくなった。
エルジナは少女を背負い、しっかりと抱え込んで森の奥へと走り出す。
その後ろ姿を見送りながら、エレノアが涙を流し、小さな手をヴェイルへと伸ばした。
二人が森に消えたあと、ヴェイルは再び振り返った。
──目の前に広がる、二体の魔物。
(……どうすればいい。人を助けるのはいいけど、俺にこんな化け物と戦う力なんて……)
カタキシスは動きが鈍くなっていた。
原因は分からないが、フェニラが攻撃を仕掛ければ、勝機はあるかもしれない。
だが、そのフェニラの様子が……何か違った。
翼を大きく広げ、天に向けて掲げると、
そこから無数の火の粉が舞い上がり、翼のあいだに吸い込まれていく。
やがて、それは一つの球体となり――
膨れ上がっていく。
そのサイズは、彼女の体には不釣り合いなほど巨大だった。
熱風が空気を歪ませ、ヴェイルの呼吸が困難になる。
肌が焼けるように赤く染まり、木々がざわめきをあげる。
そして、音が消えた。
まるで世界が息を潜めたかのように、沈黙が支配した。
翼が一気に閉じられると同時に、
白い閃光が爆ぜ――
轟音とともに、爆発が起きた。
「うぐっ……!」
ヴェイルの体は吹き飛ばされ、地面に何度も叩きつけられる。
森の木々がなぎ倒され、大地には巨大なクレーターが生まれた。
視界はぼやけ、耳の奥で甲高い音が鳴り止まない。
必死に立ち上がり、足元をふらつかせながら前を見る。
そこに――カタキシスの姿はなかった。
爆心地だった崖は抉れ、洞窟もろとも消え失せていた。
粉々になった岩の中、ただフェニラだけが立っていた。
彼女の体から漏れていた光も、少しずつ弱まっていく。
やがて、静かなぬくもりのような光へと変わっていった。
「……すごいな、お前。
正直、カタキシスでもう無理だと思ってたけど……敵に回したくないわ」
ヴェイルがそう呟くと、フェニラは何かに気づいたように動き出した。
彼女が向かった先――そこには、カタキシスが残した卵が転がっていた。
彼もそっと近づき、地面に腰を下ろした。
フェニラは、まるで本能のように卵を翼で包み込む。
その行動を見たヴェイルは、安心したように笑みを浮かべた。
「……ああ、大丈夫だよ。奪ったりしない。
お前の力を見たばっかりだしな。俺じゃ勝てないって、もう分かったから」
そう言って土の上に体を預けると、
フェニラは彼を一瞥し、卵を抱えて森の奥へと飛び去っていった。
(……本当に、終わったのか)
ヴェイルは静かに目を閉じる。
さっきまでの熱も、今は消え去り、心地よい風が肌を撫でていた。
全てを出し切った彼は、静かに眠りへと落ちていく――




