第80章:苦き朝のひととき
街はまだ眠りの中にあった。
月の光が屋根を優しく照らし、カーテンが夜風に揺れている。
ヴェイルはベッドの端に腰を下ろしていた。
もう何分も前に眠気は消えていたが、
それでも目覚めきることもできず、
ただ、ぼんやりと宙を見つめていた。
やがてゆっくりと服を身に着けると、
気分転換にと部屋を出る。
階段を音を立てぬように下りる途中――
聞き覚えのある声が耳に届いた。
「おはよう、ヴェイル。こんな朝早くに……
朝食でも食べるの?」
目をこすりながら顔を出したのは、アヴェリンだった。
「あ、……おはよう。いや、まだいい。
ちょっと寝付けなくてさ。
少し歩こうと思ってたんだ。起こしたなら、ごめん。」
声は小さく、どこか申し訳なさそうだった。
「ふふ、ならちょうどよかった。
もう少し寝ててもいいんだね? うん、助かる~」
彼女はそう言って、大きなあくびを一つ。
そしてテーブルに腕を組んでうつ伏せると、すぐに小さな寝息を立て始めた。
ヴェイルは静かに宿を後にし、大通りを進む。
(……もしかしたら、どこか一軒くらいは開いてるかもな。)
淡い期待を抱きながら、店の並ぶ通りを歩く。
灯りの見えた店先で立ち止まってはみるが、どこもまだ扉を閉ざしていた。
そんな中――
ふと、小さな路地から微かな光が漏れているのに気付いた。
覗き込むと、石畳の奥にぽつんと灯る灯火。
一枚の古びた看板が目に入る。
《アポティケーレ・ルミネル 》
(なんだこれ……
変わった名前だな。いや、それ以前に……この店、ちゃんとしてるのか?)
眉をひそめながらも、足を進める。
(まぁ、確かめるには中に入るしかないか。)
そっとドアを押して中に入ると、
目に飛び込んできたのは――
惨憺たる光景だった。
床一面に散らばったガラス片。
ぐらついた棚からは、本や紙がはみ出していて、
所々破れたページが無残に垂れ下がっている。
掃除の気配もなく、薬草の匂いもどこか薄汚れて感じた。
その混沌とした室内の中、
一人の少女が――ヴェイルと同じくらいの年頃か、あるいは少し年下か――
素手で床に落ちたガラスを拾い集めていた。
「……こ、こんにちは。えっと……開いてますか?」
おずおずと声をかけると、少女はびくりと肩を震わせた。
そして、こちらを見るなり、瞳が大きく見開かれる。
だが、返事はなかった。
そのまま彼女は、突然慌てふためいた様子で奥の小さな扉に駆け込んだ。
(え……?)
ぽかんとしたまま、ヴェイルは入口のドアに手をかける。
この場の意味も分からず、帰ろうとしたその時――
「おおっと、失礼。驚かせたかね、坊や?」
聞こえてきたのは、くぐもった男の声だった。
嫌味を含んだような、耳障りな声音。
「さっきの無能は気にしなくていい。
安い奴隷ってのは、結局こんなもんさ。」
扉の奥から現れたのは、
くすんだローブを纏った大柄な男だった。
年齢は五十を超えていそうだが、背筋は真っ直ぐで、目には冷たい光が宿っていた。
まるで、目の前のヴェイルを“商品”として値踏みしているかのように、無遠慮に見つめてくる。
「エルフィン、貴様もだ。さっさと戻ってこい!
何をのうのうと逃げていやがる。
……俺はお前を“遊ばせてやる”ために金を払ってるんじゃねぇんだぞ。」
「……すぐに片づけを再開しろ。
さもなけりゃ、一週間食事抜きだ。」
吐き捨てるように言ったその男の声には、容赦という言葉はなかった。
しばらくして、小柄な少女――先ほどの娘が再び現れ、黙ってガラスの破片を拾い集め始める。
その手はすでに、何箇所か赤く傷ついていた。
(……この空気、最悪だ。)
ヴェイルは、目の前に広がる状況に言葉を失いながらも、
何か、胸の奥にひっかかるものを感じていた。
なんなんだよ、あれは……。
あんなのが“人を扱う”って言えるのか?
ヴェイルは憤りを隠せず、拳をぎゅっと握りしめていた。
「なにか言いたいことでもあるのか、坊や?」
先ほどの男の声が、嘲るように響く。
「忠告しておくが、余計な口出しはしないことだ。
……お前のような甘っちょろいガキは、壊すのが一番楽しいんだよ。
希望とか、優しさとか……そんな幻想を踏みにじるのがな。」
胸の奥がざわついた。
反論しようと口を開きかけた瞬間――
ガラスを拾っていた少女が、ヴェイルを見た。
その瞳が、なにかを必死に訴えていた。
(……やめろってことか。)
彼女の視線に言葉を呑み込み、ヴェイルは何も言わずに顔を背けた。
周囲を見回すが、店内には商品らしきものは一切ない。
棚も空で、瓶も、薬も、何一つ売り物になりそうなものはなかった。
「……何も売ってない? ああ、今は“改装中”でね。
見世物はないから、お引き取り願おうか。」
男は苛立たしげにそう言い、カウンターに立てかけてあった杖を手に取る。
(……やる気か?)
だが、男は杖を手にしたまま、ヴェイルの横を無言ですり抜け、
扉を開けて無言の圧を放つ。
出口へと向かうように顎をしゃくり、冷たい視線を突き刺してくる。
ヴェイルは最後にもう一度、少女に目をやる。
だが、彼女はただ黙って、手を切りながらも破片を拾い続けていた。
何もできず、何も言えず。
ヴェイルはそのまま店を後にする。
「忘れるなよ、小僧。
余計なことに首を突っ込むと……後悔するぞ。」
閉じられた扉の向こうで、鈍い音が鳴った。
ヴェイルは早足で大通りに戻る。
通りには酔っぱらいが数人、鼻歌交じりにふらついていた。
(……あの子、どうしてあんなところに?
あんなクズの下で……
しかも、売るものがないのにどうして店を開けてた?)
問いが頭を駆け巡る。
苛立ちと無力感が混ざり合い、歯を食いしばる。
夜が明け始め、街の屋根が朝の光に照らされていく。
ヴェイルは一度深呼吸をし、宿へと戻ることにした。
(他の薬屋に行くのは……今日はやめておこう。)
宿へと戻ると、すでに広間は活気を取り戻し始めていた。
笑い声や話し声が静寂を押しのけるように満ちてくる。
「おや、ヴェイル君。今日はテーブル使う?」
アヴェリンが、グラスを持ちながら声をかけてくる。
ヴェイルは頷いて指定された席へ。
果汁のジュースだけを頼み、カエラの到着を静かに待つ。
「おい坊主、一人でしょんぼり飲むなんて味気ないぞ~!
こっち来い、ビールおごってやるから!」
酔っ払いたちの笑い声と共に声が飛んできたが――
「すみません。お酒の匂いがどうも苦手で……
お気持ちは嬉しいです。ありがとう、アヴェリン。」
ヴェイルは柔らかく笑って断る。
男はそれ以上何も言わず、仲間たちとの酒に戻った。
騒がしくも穏やかな時間が流れる中、ヴェイルはぼんやりと次の任務について考えていた。
……そんな時だった。
小さな手が、彼の肩をぽんと叩く。
「おはよう、ヴェイル。……待っててくれたんだ。」
振り向くと、カエラがそこにいた。
「昨日のこともあって……てっきりもう行っちゃってるかと思ってた。」
そう言いながら、彼女は向かいの席にちょこんと座る。
その尻尾は嬉しそうにぴこぴこと揺れていた。
ウェイターがすぐに気づき、二人分の注文を取りに来る。
注文が済むと、カエラはふわっと微笑んだ。
だが、その顔にはほんのわずかに疲れの色が浮かんでいた。
「もう行った? カエラ、昨日約束したろ?
朝になったら会おうって。」
「うん、でも……昨日の私、ちょっとウザかったかなって。
……だから、もういないかなって、勝手に思っちゃってた。」
耳を垂らし、声を小さくして俯くカエラ。
その時、店員が料理を持って戻ってくる。
湯気を立てる焼きたてのタルト。
こんがり焼けた生地の中から、りんごとシナモンの甘い香りが広がる。
熱々のミルクが入った大きなマグと、
果汁のグラスも、丁寧に目の前に並べられた。
「ありがとうね。」
そう言いながら、カエラは腰の小さなポーチを探り始める。
「これ、受け取って。お会計、私がするから。」
テーブルに数枚の硬貨を置くと、再び視線をヴェイルに戻す。
彼はタルトを切り分けていた。
「……君、本当に大変な人生送ってきたんだな。
……どんな奴らに囲まれてたら、そんな考え方になるんだよ。」
そう呟きながら、タルトの一片を口に運ぶ。
「大変? どうだろうね。
世の中にはもっとひどい目にあってる人もいる。
……ただ、ちょっとだけ、運がなかっただけかな。」
その言葉に、ヴェイルの頭に浮かんだのは――
今朝見た、あの薬屋の少女の姿だった。
(ああ……カエラは、ああいう人のこともわかってるんだな。)
そのまま話題が重くなりすぎるのを避け、彼は言葉を切り替える。
「……ところで、昨日の話だけど。
一緒にクエスト行きたいって言ってたよな? でもさ、俺まだランク下だし、いいの?」
不安げな声で問うヴェイルに、カエラは少し驚いたように首を傾げた。
「なに言ってるの? 昨日、あの化け物と戦ってたのは君でしょ?
私は逃げることしかできなかった。
だから、お願い。私、学びたいの。君と一緒に行動して、成長したいの。」
その真剣な眼差しに、ヴェイルは少し押され気味だったが――
マグを持ち上げ、一口。
……だが勢いよく飲みすぎた。
「ぷはっ……」
その瞬間、ミルクが口の端からもれ、
唇の周りに白い泡がくっついた。
「……ぷっ……ふふっ……ヴェイル、なにそれ。
雲みたいになってるよ。小さい白い雲。」
カエラはくすくすと笑い、思わず手で口を押さえる。
その無邪気さに、ヴェイルも吹き出して笑った。
「……くそ、やられたな。
……じゃあ、飯食ったらギルド行こう。
でも俺、昨日も言ったけど、記憶がないんだよ。
……あまり役に立てないかも。」
「大丈夫だよ。それでも一緒に行きたいんだから。」
カエラの笑顔は、心からのものだった。
食事を終え、代金をテーブルに置いたヴェイルは立ち上がる。
扉を開けると、外にはすっかり陽光が広がっていた。
「今日はあんまり大変なクエストじゃないといいな。
せっかくだから、草の上でゴロゴロしたいなぁ。
日向ぼっこって最高じゃない?」
カエラが嬉しそうに話しかける。
「そうかもな。
……まあ、俺が森で昼寝したときは、目が覚めたら魔物に囲まれてたけどな。」
ヴェイルは苦笑しながら、かつてのダンジョンの出来事を思い出す。
「むしろ俺自身が厄介なのかも。
トラブル、引き寄せる体質なのかもな。」
二人の笑い声が、朝の街に溶けていく。
通りには活気が戻り始め、彼らはギルドへ向けて歩を進めた。
そして――
ギルドの扉を開けた瞬間、激しい口論の声が飛び込んできた。
掲示板の前で、冒険者たちが激しく言い争っている。
「おい、俺が先に見てたんだ。どけ。これは俺たちの依頼だ。」
「はぁ? お前の名前はどこにも書いてないだろ。
その紙、よこせ。ママに泣きつく暇もなくしてやるぞ、テメェ。」
威圧し合う二人の男。周囲はそれを止めようともせず、距離を取って見守っていた。
「……またかよ。」
呆れたように目を細めるヴェイルが、肩をすくめてカエラを見る。
「毎日こんな感じなのか?
昨日も一昨日もトラブルばっかだぞ。」
「……毎日は言い過ぎかもだけど、しょっちゅうね。
ギルドも困ってるみたい。処罰しても効果ないし。
だから、掲示板はなるべく避けてるの。」
そう言って、カエラは彼の腕を軽く引っ張る。
「こっち、カウンターに行こう。」
彼女に導かれ、ヴェイルは奥のカウンターへ。
そこには一人の男性スタッフが立っており、
カエラが近づいてくるのを見ると、ぱっと笑顔を浮かべた。




