第79章:求めの裏にある意図
「待たせちゃった? ごめん、思ったより時間かかっちゃって……
あの壊れた道具の説明とか、さっきのモンスターの報告とかしてたらね。
ギルドの人が言ってたんだけど、あれ……ネスラリスっていう魔物らしいの。
でも、本来ならこの辺りにはいないはずなんだって。」
そう語るカエラの声には、どこか疲れがにじんでいた。
ヴェイルはその声に驚いて我に返る。
彼は、ギルド内のテーブルで話す他の冒険者たちをぼんやり眺めていたのだ。
隣に立つカエラは、両手を背中に回し、つま先でゆらゆらと身体を揺らしている。
「……ああ、いや、全然。
ちょっと考え事してただけ。……それより、行こっか?」
目をこすりながら、ヴェイルは小さく笑う。
「うん、でも……その前に。
――あなたの治療を優先しよ?」
カエラがふいに真剣な声になる。
「さっき塗った薬は、あくまで応急処置。
ちゃんと治療しないと、悪化するわよ。……ね?言ったでしょ、放っておくと広がるって。」
その静かな口調に、ヴェイルは返す言葉を見つけられなかった。
二人はギルドを出て、夜の空気に身を晒す。
ひんやりとした風が頬を撫で、
カエラの尻尾と耳がびくりと揺れる。
髪が月光に透けながら、ふわりと風に揺れた。
人通りの少ない裏通りを抜け、やがて大通りへと向かう。
今ではヴェイルにとっても見慣れた道だ。
カエラはヴェイルの少し前を歩きながら、腕を左右に振っていた。
まるで、無邪気な子供のように。
「……ねぇ。
人とこうやって出歩くの、久しぶりなんだ。
昔、何度かパーティーを組もうとしたこともあったけど……
“荷物持ちの飾り”って言われた。役立たずのポンコツだって。」
どこか沈んだ声。
だが、ヴェイルは黙っていた。
彼女がまだ話し足りないのだと、感じ取っていた。
「……ごめん。変なこと言っちゃったね。
……ただ、今回は違ってほしいって思ったの。
ヴェイルには……見た目だけで私を判断してほしくないなって。」
声が少しだけ震えていた。
ヴェイルは、彼女の手をそっと握った。
その瞬間、カエラは驚いたように足を止め、手を引こうとする。
だが、ヴェイルは優しく力を込めて、それを止めた。
「……カエラ。俺は君のこと、まだよく知らない。
でも、判断なんてするつもりはないよ。
俺だって……一人だったら、とっくに死んでた。」
彼は胸に手を当てる。
そこには、あの霊体に貫かれた傷が残っている。
アリニアが何度も救ってくれた記憶が蘇る。
「困ってるからって、それが弱いって意味じゃない。
弱いってのは……何もせず、諦めることだと思う。」
その声は静かだが、芯があった。
「……あいつに勝てなかったなら、次は勝てるようにすればいい。
逃げたくないって思うなら、その気持ちを信じればいい。」
言葉が、胸の奥に届く。
カエラの目に、一瞬だけ光が揺れた。
「……ふふっ、
前に比べて、ずいぶん口が達者になったじゃない。」
袖で目元をそっと拭うと、彼女は笑った。
「最初は、私のことモンスターと間違えてそうだったのに。」
「……だから、謝っただろ?」
「うん。……でもね、ありがと、ヴェイル。
誰かに“頑張れ”って言われたの、初めてかもしれない。
さ、行こ。治療終わったら、いっぱい食べよう?」
カエラは再び歩き出し、今度はヴェイルもすぐに後に続いた。
そのあとの会話は、少し軽いものだった。
好きな食べ物や、街で見かけた面白い人の話。
他愛もない言葉を交わしながら、街中を歩いていく。
やがて、目的の建物が視界に入る。
夜も遅くなった街は静かで、足取りも自然と早くなった。
二人は扉を開け、建物の中へ。
受付の小さなカウンターには、前回と同じ女性が座っていた。
彼女は小さな本を読んでいたが、
カエラの声に顔を上げる。
「こんばんは。
この人の治療、お願いできますか?
ネスラリスにやられて、火傷してるの。」
そう言って、カウンターに軽く体を預ける。
受付の女性は本を閉じ、まっすぐにヴェイルに視線を向けた。
「こんばんは。またお会いしましたね、坊や?」
受付にいた女性が、ふわりと笑いながら顔を上げた。
「こんな短期間でまた来るなんて……
もう会員証でも作っちゃおうかしら?
それとも、私に会いたくて来たの?」
「ケガなんてなくても、顔見せに来てくれていいのよ?」
からかうような口調で、クスクスと笑う。
「……っぷ!」
隣でカエラが笑いを堪えるように口元を押さえたが、
ヴェイルはどう反応していいか分からず、顔を強張らせたままだった。
「ふふ、ごめんなさい。冗談よ。
夜は静かすぎて、つい口が軽くなっちゃうの。」
そう言いながらも、彼女は真面目な顔に戻る。
「じゃあ、治療の手続きね。前回と同じよ。
この紙に必要事項を書いて、それと希望する治療の等級を選んでね。」
彼女は一枚の紙を差し出す。
ヴェイルは素直に紙を受け取り、必要な欄を見つめた。
だが、ふと手が止まり、小声で呟く。
「……カエラ、これ……どれ選べばいいんだ?
前は勝手にやってもらったし、さっぱり分からないんだけど……」
「え? 誰も教えてくれなかったの?」
驚いたように言いながら、カエラは紙を覗き込む。
「その火傷なら、“第二等級”が妥当よ。
簡易治療ってやつで、傷口が浅い場合はこれで十分。
第三等級からはちょっと本格的で、痛みも強いし、
専門の人じゃないと扱えないの。」
指差しながら丁寧に説明する。
「そっか、ありがとう。」
ヴェイルは頷いて、該当する欄に印をつけた。
そして鞄から財布を取り出し、所定の金額を紙の隣に置く。
受付の女性はそれを確認し、笑顔で頷いた。
「ありがとうございます。それじゃあ……十三番の部屋へどうぞ。
すぐに担当の者が伺います。」
指差された通路を進み、ヴェイルは部屋の扉を開ける。
室内は静かで落ち着いた空気に包まれていた。
やがて、治療師が現れ、手際よく処置を進める。
カエラの言葉通り、今回は痛みもほとんどなく、
ほんの数分で治療は終わった。
部屋を出たヴェイルは再びカエラの元へと戻り、
受付の女性に軽く頭を下げてから、二人で建物を後にした。
「……はあ、やっと皮膚が戻った気がする。
それに、あの薬の匂いが消えたのも嬉しいな。」
外に出た瞬間、ヴェイルは大きく息を吸い込む。
二人は夜の街を歩き出す。
だが、ふとヴェイルの眉がわずかに動いた。
「……カエラ、どこ行くの? こっちって、宿の方だよな?」
問いかけると、彼女は振り返ってにっこりと笑った。
「うん。私、『エルクリンの宿』に泊まってるの。知ってる?」
「そこなら美味しい料理がいっぱいあるのよ。
――まあ、エロネアの酒場には敵わないけどね。」
ヴェイルは足を止め、呆れたようにため息をついた。
カエラも、彼の顔を見て首を傾げる。
「……なあカエラ。
“この道って宿の方向だよな”って言った時点で、
俺が知ってるって分かるだろ?」
「――あっ、そっか! えへへ、ごめんごめん。
つい喋っちゃうのよね、思いついたことそのまま。
お母さんにもよく言われたの、“もっと頭使いなさい”って。」
カエラは照れたように笑い、肩をすくめる。
ヴェイルは彼女の言葉に、ふっと息をつく。
「……思ったことをすぐ口にするのはやめとけよ。
相手によっては、誤解されることだってある。
この街の連中、見た感じ……脳味噌スライム以下のやつも多いしな。」
冷ややかな口調。
「時々、考えるんだ。
もしかして、本当の化け物って――俺たちの方なんじゃないかって。」
その言葉に、カエラは何も言わず、歩みを緩める。
やがて、二人は宿の前にたどり着く。
重たい沈黙が、そのまま二人の間に降りた。
中へ入り、空いていたテーブルへと座る。
周囲の喧騒から少し離れた場所。
どこか安心できる空間だった。
だが――
空気は、どこか沈んでいた。
二人は無言でメニューを手に取る。
その時、カエラがようやく口を開いた。
「……私は、そうは思わない。」
彼女の声は小さく、けれどはっきりと響いた。
「もし、ヴェイルが“化け物”なら――
あの時、私を見捨ててたはず。
あんな風に……助けに来てなんか、くれなかった。」
「仔犬を見て、あんなに悲しそうな顔もしなかった。」
「だから私は、信じてる。
“人間らしさ”っていうのは、行動に出るものでしょ?
見た目や、言葉や、間違いじゃない。」
その言葉は、重たい空気をゆっくりと払いのけていく。
しばらくして、ウェイターがテーブルへとやって来た。
いつものように、水を注いだコップを二つ置き、注文を取ってから去っていく。
その場には、ふたたび静寂が落ちた。
「……全員が悪いわけじゃない。
……それは、出会いが証明してくれた。」
ヴェイルは俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「でもな……それでも、心の中に――疑念があるんだ。」
静かに、視線を水の揺らめきへと落とす。
「俺たちは、魔物を倒すことに迷いなんて持たない。
殺して、次へ進むだけだ。
……でも、相手が人間だと、頭がぐるぐる回るんだ。」
「……傷つけたくない、って思ってしまう。
でも、さっきは……君を守るためなら、躊躇なく殺せた。」
「なあ……なんでなんだろうな。
――どうして、こんなに迷うんだ……?」
答えを求めていたわけじゃない。
だが、カエラは黙っていた。
どんな言葉を返せばいいのか分からず、目を伏せていた。
ヴェイルは水を注ぎ、自分のコップを一気に飲み干した。
「……悪い、変なこと言った。
正直……俺、自分がよく分からないんだ。」
「全部、忘れてしまってる。
過去も、記憶も、何もかも――何ひとつ。」
「それでも……
こうして、まるで普通の人間みたいに振る舞ってる。」
「……だけど、全部嘘みたいでさ。
まるで、ここにいること自体が間違いって感じるんだ。」
声は低く、けれど確かな痛みを帯びていた。
そんな彼の手に、そっと重ねられるぬくもり。
カエラが手を取り、少しだけ顔を赤らめながら言った。
「……それだけ思えるなら、
ヴェイル、あなたは――“化け物”なんかじゃないよ。」
「何も考えずに殺せる人がほとんどの中で、
あなたは……迷ってる。
悩んでる。
それって、とても人間らしいことだと思う。」
優しく、芯のある声だった。
だが、そのやり取りを遮るように――
料理が運ばれてきた。
二人の前に皿が並び、食欲をそそる香りが立ち昇る。
少しだけ、空気が和らいだ。
だが、その瞬間――
運んできた給仕が椅子の脚に躓き、隣のテーブルを倒してしまう。
食器や料理が音を立てて床に散らばった。
慌てて起き上がる給仕は、平謝りしながらその場を離れる。
「……っぷ!」
カエラが思わず笑い出し、口元を手で押さえる。
「ごめん……だって、あれ完全に私がやりそうなやつじゃない?」
肩を震わせながら笑う姿は、どこか無邪気だった。
「さ、食べよ。せっかくなんだから、美味しくいただこう。」
そうして始まった夕食は、先ほどとは打って変わって、和やかな雰囲気となった。
日常の話や、冒険中の小さな出来事。
何気ない会話が続き、
ギルドでの重たい空気が、少しずつほどけていく。
まるで、他の客たちの笑い声が、彼らにも届いてきたかのようだった。
「……さて。そろそろ寝るよ、カエラ。
目がしょぼしょぼしてきた。」
大きく欠伸をしながら、ヴェイルが言う。
「もうそんな時間? ……あっという間だったね。」
名残惜しげにカエラが呟いたが、
彼女の手は落ち着きなく動いていた。
視線も、どこか泳いでいる。
椅子の下で揺れる足が、ヴェイルの膝に触れた。
「……カエラ、なんか落ち着きないな?
どうかした?」
ヴェイルが不思議そうに尋ねる。
「えっと……あのね……」
声が小さすぎて、ほとんど聞き取れなかった。
「え? 何だって?
もしさっきの件を気にしてるなら、そんなの気にしないでいいよ。
別に、助けたことに見返りなんて期待してないし――」
「ち、違うのっ!」
ようやく声が届いた。
カエラは、大きく息を吸ってから言った。
「その……もし、迷惑じゃなければなんだけど……
明日、また一緒に……冒険に行かない?」
顔を赤くして、まっすぐに見つめてくる。
その言葉に、ヴェイルはしばし固まったが――
すぐに表情を和らげ、椅子に背を預けた。
(……なんだ、そんなことか。)
内心で胸を撫で下ろしながら、彼は穏やかに笑う。
「ここに泊まってるんだよな?
だったら、明日の朝飯のときに決めようか。
疲れてる時に考えても、いい答えは出ないしさ。」
「……うん。うん、そうしよう。」
カエラは嬉しそうに頷き、席を立つ。
「じゃあ、明日の朝、ここで待ってるね。
今日一日、本当にありがとう。おやすみ、ヴェイル。」
手を振って階段へと向かう後ろ姿。
揺れる尻尾と、ペタリと倒れ気味の耳が、まだ緊張を伝えていた。
ヴェイルはその場に残り、静かにグラスを傾ける。
中に残った果汁の香りが、かすかに鼻をくすぐった。
(……俺って、ほんと鈍いな。
“見返りはいらない”とか言って、
飯に誘ってくれたの、カエラなのに……)
軽く頭をかきながら、彼も席を立つ。
階段を上り、自室へ入ると、
窓のカーテンを開け、風を通す。
服を脱ぎ、ベッドに横になる。
まぶたを閉じる、その刹那――
(……アリニアなら、どう思うだろうな。
こんな俺を、見て……)
その問いは夜に溶け、
彼の意識もまた、闇の中へと沈んでいった。




