第78章:月の光の下の太陽
火傷を覆うように包帯を巻き終えると、少女はそっとヴェイルの足元に靴を履かせた。
鎮痛液が傷みに効いてはいたが、それでもヴェイルは顔をしかめる。
続けて、彼女は自身の手の手当てに取りかかる。
同じように液体を塗り、包帯を巻きながら、鼻をひくつかせた。
「……匂いがきついなら、無理にやらなくてもいい。俺が――」
彼女の手が止まることはなかった。
ヴェイルの言葉には応じず、そのまま黙って手当てを続ける。
包帯を結び終えたあと、少女はゆっくりと顔を上げた。
そして、まっすぐヴェイルの目を見る。
「……ありがとう。助けに来てくれて。
あんなふうに叫んでも、誰かが来てくれるとは思ってなかったの。
この森は辺鄙で……若い冒険者が来る場所じゃないから。」
「偶然通りかかっただけさ。
向こうの草原にいたんだ、すぐ裏手の。」
ヴェイルも彼女に視線を向ける。
その顔立ちは、どこか不思議な魅力があった。
淡い桜色の瞳が印象的で、
乱れた髪を手櫛で整えながら、彼女は一輪の暗紅色のバラを飾ったバレッタを髪に留める。
「……あんまり、そんなふうに見つめられると……ちょっと、恥ずかしいんだけど。」
視線を逸らしながら、彼女は照れたように言った。
ヴェイルは、ようやく自分が見とれていたことに気づき、
慌てて顔を逸らす。
そのまま、足元に気をつけながら、ゆっくりと立ち上がった。
「……ごめん。
今日はいろいろありすぎてさ……
こうして“まともな何か”を見ると、ホッとするんだ。」
少女は小さく口を開き、返すべき言葉に迷った様子だった。
「……それって、どう受け取ればいいのかな?
褒めてるのか、それとも……私が“まともじゃない何か”って言いたいの?」
「ち、違う! 違う違う、そうじゃない……!」
ヴェイルは慌てて言葉をつなげながら、髪をかき上げた。
「その……モンスターじゃなくて、人を見て安心したってだけで……」
《――バカか、俺は。
何だよ、“モンスターじゃなくて人”って。
そんなふうに言ったら、かえって失礼じゃねぇか……!》
心の中で自分を叱責する。
「ふふっ、そんな口説き文句じゃ、彼女なんてできないでしょ。」
少女はクスクスと笑った。
「でも……まあ、気持ちは伝わったよ。
ちょっと不器用だったけどね。」
「……ありがと。」
肩を落としながらも、ヴェイルは素直に礼を言う。
そして、話題を変えるように口を開いた。
「ところでさ……聞いてもいい?
君も、冒険者なのか?」
少女は腰の小さなポーチに手を伸ばすと、
中から一枚のカードを取り出して、彼に手渡した。
そのカードには、“Kaela”という名前と、“ランクE”の文字が記されていた。
「うん、そう。……Eランクで、あんなのに手も足も出なかったけどね。
情けない話だけど、あんなのは初めてだったの。」
言いながら、彼女の声は少しだけ陰る。
「でも、君の戦いぶりを見てたら……きっと、私よりずっと上なんでしょ?」
彼女のカードを返しながら、ヴェイルは自分のポーチを探る。
そして、ためらいがちに自分の冒険者カードを差し出した。
Kaelaがそれを受け取り、目を通した瞬間――
「……Fランク!? え、うそ、マジで?
……うわ、私……ますます自信なくなってきた……
やっぱり、私って冒険者向いてないのかも……」
ショックを隠しきれない声で、彼女は肩を落とした。
ヴェイルはそっと彼女に近づき、肩に手を置いた。
カエラは驚いたように顔を上げる。
「そんなこと言うなよ。……俺は、そんなに強くない。
小さな犬一匹……助けてやることもできなかったんだ。
あんな化け物と戦えたのは……ただ、冒険者になる前に、もっと酷いものを見てきたからだ。
――そう思ってた。あの青い小さな玉を目にするまではな。」
「青い小さな玉? スライムのこと?」
カエラが小首をかしげる。
目線は宙をさまよい、なにやら懐かしそうな口調になった。
「あれね、見た目は可愛いけど、油断するととんでもなく厄介よ。
なんでも食べるし、放っとくとすぐに増えて群れるし。
だから、ちゃんと数を管理しておかないと……“転がる災厄”になっちゃう。」
「最初に見たときなんて、食べられるかと思って一口試そうとしたの。
――おすすめしないけどね。」
彼女はヴェイルから少し離れ、地面に転がったままだった剣を拾い上げた。
そのまま森の端へと足を向けると――
ヴェイルには見えていなかった、もう一つの道具を手に取る。
それは、奇妙な装飾が施された杖だった。
先端には淡く光る宝石が埋め込まれている。
「それ、何だ?」
ヴェイルが指差しながら尋ねた。
「これ? これは魔法を使うための杖よ。
私、土の魔法にちょっとだけ適性があるの。
でも魔力が弱くて……だから、この杖で吸収して、
この石で威力を上げてるの。まだ練習中だけど。」
そう言って、彼女は杖をヴェイルに手渡す。
ヴェイルはそれを受け取り、興味深そうに眺めた。
ちょうどその時、沈みかけの太陽が地平線の向こうへと消えようとしていた。
彼は静かに杖を返すと、軽く息を吐いて言った。
「……もう用事がなければ、街へ戻らないか?
さすがに今日は、いろいろありすぎた。早く休みたい。」
カエラは頷き、剣を背中へと戻す。
ヴェイルも小さく相槌を打ちながら、自分の短剣を鞄へしまった。
二人は連れ立って歩き出す。
太陽の残光が森を離れ、月の光が足元に降り注ぐ。
晴れた夜空には、星々がゆっくりと顔を出し始めていた。
道すがら、二人は軽く雑談を交わす。
互いの任務について、街での出来事について――
ヴェイルは言葉を選びながら、
“アリニア”のことには触れないように注意していた。
彼女から、固くそう言われていたのだ。
およそ一時間ほど歩いた頃、
冷たい風が吹き始め、やがてアルデリオンの門が視界に現れる。
門番が彼らのギルドカードを確認し、あっさりと通してくれた。
二人はそのままギルドへ向かうが――
カエラは足を止め、通り沿いの店先に視線を向けていた。
「うーん……ここの店、直してくれるかしら。
……ほら、私ってハーフだから。
それ自体はいいんだけど、服を選ぶのがほんと面倒で。」
そう言いながら、カエラは自分の尻尾にそっと触れる。
「昔さ、ズボンを買おうとしたら、店のやつに言われたの。
“だったら、その尻尾を切ればいいじゃないか”って。」
「……ああ、街に来たときに気づいた。
“違う”ってだけで、やたら見てくるやつも多い。」
ヴェイルは、あの日の視線を思い出していた。
破れた服を着て歩いた街中で、あの“違和感”をはっきりと感じていた。
ようやくギルドにたどり着く。
だが、建物の中は不思議なほど静かだった。
「……あっ、あそこにゼニエルいる。
先に報告してくるね!」
嬉しそうな声でそう言うと、カエラは足早にカウンターへ向かう。
「俺はあっちだ。じゃあ、ここで解散かな。
今度はモンスター抜きで会えるといいな。」
ヴェイルが冗談まじりに言うと、カエラは顔を赤らめた。
彼女のつま先が、無意識に地面をくるくると回る。
「ねぇ……その……
お礼がしたいの。……助けてくれたお礼に……
一緒に、食事でもどうかな?
その……話してて楽しかったし……普段は一人だから……」
はにかみながらそう言うと、ヴェイルは返事に詰まった。
どう答えていいのか、戸惑っていたその時――
「――あーもう、イチャつくなら別の場所行けよ!」
背後から、不機嫌そうな怒声が飛んできた。
カエラは咄嗟に後ろへと身を引いた。
慌てて足をもつれさせそうになった彼女の手を、ヴェイルが素早く掴んで引き寄せる。
倒れかけた身体が支えられ、ようやく二人は声の主に視線を向けた。
そこには、威圧感をまとった大柄な男が立っていた。
「……もう少し、言い方ってもんがあるだろ。」
ヴェイルが苛立ちを込めて言い返す。
だが男は鼻を鳴らしながら、拳を握りしめた。
「ここを遊び場と勘違いしてんのか、ガキ。
今すぐその脳味噌ごと外に放り出されたいか?」
鋭く低い声がギルドに響いた。
ヴェイルが一歩踏み出そうとする――その腕を、カエラが必死に引っ張る。
だがその緊張を断ち切るように、もう一つの低い声が場に割って入った。
「……そいつらに手を出したら、その拳ごと地に沈めてやる。
――俺の言ってること、理解できたか?」
現れたのは、もう一人の男。
大柄な体格に、顔中を刻む無数の古傷。
その目は獣のように鋭く、静かに怒気を帯びていた。
「ここで法律を振りかざすな。
お前のランクじゃ誰一人、見下す権利はねぇ。
それとも、俺の拳でそれを理解したいのか?」
言葉が終わると同時に、周囲の空気が一気に冷え込む。
男は舌打ちをして目をそらし、頭を垂れた。
「……は、ハラルドさん……す、すみませんでした……。
悪かったよ、ほんと……」
小さく呟くように謝罪を口にしながら、ヴェイルたちの脇をすり抜けていく。
だがその背中からは、忌々しそうな呟きが漏れ聞こえていた。
「……ったく、ガキに噛みついたくらいで……チッ、くだらねぇ……」
ハラルドと呼ばれた男は肩をすくめ、
そのまま階段へと歩き出しながら、ぼそりと呟いた。
「子供相手に威張り散らしてるようじゃ、ランクなんて上がるわけがねぇ。
あの脳筋どもは、スライムより頭が回ってねぇな……」
ヴェイルとカエラは呆然とその背中を見送りながら、しばし言葉を失っていた。
「……と、とにかく。
私、クエストの報告してくるね。終わったら、ギルドの前で待ってて。」
そう言ったあと、カエラは恥ずかしそうに顔をそむけた。
「それと――あの、ヴェイル。
そろそろ手、離してくれる?」
ヴェイルは自分の手を見下ろす。
そういえば、まだ彼女の手を握ったままだった。
慌てて指を放す。
「わ、悪い! 気づかなかった……その、アイツのせいで……」
「……ふふ、平気。
でも、このままじゃ本当に恋人だと思われちゃうからね。」
軽く笑って手を振ると、カエラは足早にカウンターへ向かう。
ヴェイルもその様子を見送ったあと、自分の担当窓口へと歩き出す。
「こんばんは。……えっと、今朝受けたクエストの報告に来ました。」
彼が声をかけた相手は、いつもの担当ではなかった。
代わりに、優しげな雰囲気を持った女性が受付に座っていた。
「こんばんは。では、受注の用紙を見せてもらえるかしら?」
ヴェイルは頷きながら、鞄からミッション用紙を取り出す。
それを受け取った彼女は、内容をさっと確認し、前に置き直した。
「なるほど、採取依頼ですね。初参加の方かしら?
では、回収した植物を見せていただけます?」
笑顔を崩さぬまま、彼女は丁寧に尋ねる。
ヴェイルは再び鞄を開き、中から二枚の布を取り出す。
その中には、集めた草や薬草が丁寧に包まれていた。
それを女性に手渡すと、彼女は一つ一つを確認しながらうなずいた。
やがてすべてを確認し終えると、奥の部屋へと姿を消す。
数分後――
彼女は再び戻ってきて、席に座る。
「確認できました。問題なしです。
……ですが、手続きの前に一つだけ。道中は大丈夫でしたか?
何かトラブルなどは?」
その問いに、ヴェイルは一瞬迷った。
あのスライムの件を報告すべきかと。
だが――結局、口を閉ざす。
「特には。……少し探すのに手こずったくらいで、問題はなかったです。」
そう答えるヴェイルの声は、少しだけ張り詰めていた。
だが――
その声色と、わずかな仕草が、
彼の言葉がすべてではないことを物語っていた。
受付の女性は、眉をわずかに上げて目を細めると、
小さくため息をつきながら目を転がす。
「……隠さなくていいのよ。
一見些細なことでも、報告してくれた方が助かる場合もあるから。
そういう情報が、他の誰かの命を守ることだってあるの。」
穏やかな口調だったが、その声にはしっかりとした芯があった。
ヴェイルは迷っていた。
……だが、やがて口を開く。
森で見かけたスライムの異常。
そして、カエラを襲った得体の知れない怪物のこと――
彼は一つひとつ、正直に語った。
受付の女性は、黙って最後まで耳を傾けていた。
「……よく話してくれたわね。
……ほら、やっぱり。全部が役に立つ。」
優しく微笑んだ彼女は、ふと真剣な顔に戻る。
「ちなみに、君が草原で見たっていう仔犬――
飼い主が、ずっと探していたの。
あれは別の依頼だったけど……結果的に、君はそれを達成したのよ。」
そして、彼女は立ち上がる。
「ちょっと待ってて。報酬を用意してくるから。」
軽く頭を下げると、彼女は奥の部屋へと消えた。
しばらくして、再び現れた彼女は小さな革袋を手にしていた。
そのままカウンターに袋を置き、中の貨幣をテーブルに広げる。
「はい、こちらが植物採取の報酬。
それと、迷子の仔犬を“発見”してくれた分を加えて――合計、銅貨十五枚よ。」
丁寧に指を使って数えながら、彼女はそう伝えた。
ヴェイルは頷き、小さな自分の財布を取り出して、
手早くすべての銅貨をしまっていく。
きちんと枚数を確認し終えると、彼は女性に向かって小さく手を振った。
「ありがとう、助かりました。」
彼女も笑顔で頷き、軽く手を振り返す。
そのままヴェイルはギルドの扉を抜けて外へ出る。
だが、カエラの姿はまだなかった。
彼はギルドの外壁に寄りかかりながら、夜風に身を預ける。
涼しい風が頬を撫でる中、
彼は静かに、カエラの姿を待ち続けていた。




