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氷結の夜明けの果て (R16)  作者: Wolfy-UG6
第1幕 - 第4巻 : 新たなる始まり
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第77章:霧の帳の下で

挿絵(By みてみん)


「……はあ? 本当に俺は一日も落ち着いて過ごせないのか?

 任務も終わってないってのに……。

 でも――助けを求める声を無視するなんて、できるわけがない。」


ヴェイルは低く唸りながら、声の方角を探った。


木々の奥から、断続的に悲鳴が響く。

それはやがて、嗚咽のような震えを帯びていた。


ヴェイルは数歩進んだが、すぐに立ち止まる。


「どうする……? 助けを呼びに行っても間に合わない。

 聞かなかったふりなんてできない。もし本当に危険なら、今すぐ行かないと……。」


苛立ち混じりに呟く。


だが、その逡巡を断ち切るように――森の奥から別の声が響いた。

今度は獣の唸り。

鋭く短い、獰猛な音。


ヴェイルは目を細め、鞄から短剣を抜いた。

何故か、剣よりもこちらの方が適している気がした。


彼は駆け出す。

枝を踏み割りながら森に飛び込み、悲鳴の止んだ闇へ進んでいく。


やがて辿り着いた小さな空間で、彼は目にした。


地面に仰向けに倒れた若い女。

風に揺れる外套。

淡い桃色の長い尾がかすかに動き、猫の耳は伏せられている。

同じ色の髪は乱れ、地面に散らばっていた。


近くには一振りの剣が落ちている。


ヴェイルは辺りを警戒しつつ、女に近寄る。

膝をつき、そっと頭を支えた。


呼吸は安定している。

額に小さな傷がある以外、致命傷はなさそうだ。


彼は頬を軽く叩いた。

やがて彼女の瞼が開きかけ――次の瞬間、驚愕したように身を引いた。


ヴェイルの腕の中から飛び退き、意識を取り戻そうと首を振る。

視線が彼に定まる。


「大丈夫か? 俺は危害を加えるつもりはない。

 叫び声を聞いて、駆けつけただけだ。」


ヴェイルは立ち上がりながら説明した。


だが、彼女の目は彼ではなく――その背後を見据えていた。

恐怖に揺れ、震える瞳。


ヴェイルは振り返った。


そこに立っていたのは――


以前見たクリオループに似た獣。

だが一回り大きく、全身から黒い瘴気のような蒸気を立ちのぼらせている。


牙は血で濡れ、赤い光を帯びた眼差しが鋭く突き刺さる。

濃い毛並みは逆立ち、全身が敵意を剥き出しにしていた。


さらに――頭部。

二つの目の上、額の中央に、縦に裂けたもう一つの眼が開いていた。

耳の中程にまで伸びる異形の眼。


ヴェイルはその吐息を肌で感じた。

腐臭と血の臭いが混じり合い、鼻を刺す。


前脚が大地を叩くたび、地面が震えた。

視線はヴェイルを捕らえ、僅かな動きすら逃さない。


そのとき、女が縋るようにヴェイルの腕を掴んだ。

涙に滲む目。

荒くなる呼吸。


「……に、逃げないと……。あの獣は……強すぎる……。

 でも……でも、誰かが囮にならないと……速すぎて……。」


声は嗚咽に震えていた。


「その状態で走れるとは思えない。

 動くな。俺がやる。」


ヴェイルはそう告げ、獣に向き直る。


〈俺がやる? はは……他に言い方なかったのか。

 どうやってこんなの相手にしろってんだよ……〉


短剣を握る手に、力がこもる。


考える間もなく――獣は飛んだ。


待ちきれなかったかのように。


ヴェイルは咄嗟に女を突き飛ばす。

同時に、自らも後方へ飛び退く。


裂けるように振り下ろされた爪は、間一髪で二人の顔を掠めた。

獣は地面に着地し、爪を突き立てて静止する。


ヴェイルは素早く立ち上がり、数歩後退した。

大きな音を立てて獣の注意を引き、まだ地に伏す女から遠ざけようとする。


胸が高鳴る。

アリニアなしで、こんな化け物と対峙するのは初めてだった。


獣は素早い。

だがヴェイルは気づいた。

その身を覆う霧が散り、再びまとわりつくまでに、僅かな間があることに。


赤い双眸は彼に固定され――ただし、額の第三の眼だけは落ち着きなく動き、周囲を探っていた。


「……何を恐れてる? その霧で何を隠してやがる、化け物め。」


低く吐き捨て、構え直す。


その瞬間、獣が咆哮を上げた。

狼の遠吠えに似て、だがもっと濁り、重い。


霧が大きく広がり、帷幕のように辺りを覆う。

三つの目は閉じられ、姿は闇に溶けた。


「気をつけて! 霧の中を移動できるの! どこからでも現れるわ!」


女の叫びが響く。


ヴェイルは両手を突き出し、風の魔力を解き放った。

突風が霧を切り裂く――だが濃すぎる。

消えたかと思えば、すぐに新しい霧が生まれる。


その時、赤い閃光が暗闇を裂いた。


ヴェイルは横に飛ぶ。

直後、獣が唸りを上げて飛び出した。


彼は短剣を差し出し、爪を防ぐ。

甲高い金属音が響いた。


獣はそのまま日差しの差す一角へ転がり込む。

わずかな光に触れた前脚から、煙が上がる。


「グルァァァッ!」


苦悶の声。

ヴェイルは息を呑む。


だが獣は霧を待たなかった。

そのまま再び飛びかかる。


ヴェイルは身を捻って避けた――その刹那、皮膚から黒い液が噴き出した。

頬を掠め、焼けつくような痛みが走る。


「っ……!」


触れた指先さえ灼かれ、血が沸き立つような激痛に顔を歪めた。


「……くそったれ。どうしてこの世界の魔物は、みんな吐き出すのが好きなんだ……?」


低く唸り、耐える。


獣は再び突進してきた。

顎を開き、右脚に狙いを定める。


ヴェイルは地面に手を向け、風を解き放つ。

土煙が巻き上がり、獣の狙いを逸らす。


だが衝撃までは避けられなかった。

巨体がぶつかり、ヴェイルは吹き飛ばされる。


「ヴェイル!」


女の悲鳴。


「……いい加減にしろよ……! 遊びたいなら、相手になってやる!」


ヴェイルは歯を食いしばり、睨み返した。

瞳が固く燃える。


痛みを無視して駆け出す。

剣を抜き、魔力を込める。

緑の光が刃を包む。


獣は顎を鳴らし、威嚇する。

ヴェイルは横に跳び込み、その脚へ刃を突き立てた。


悲鳴を上げた獣の足が裂け、血飛沫が飛ぶ。


すかさず短剣を握り直し、頭を狙う――


だが獣は大きく身を引いた。

負傷した脚が裂け、肉が裂ける。

再び凄まじい咆哮が森を震わせ、鳥たちが一斉に舞い上がった。


地に腰を落とし、瞳を閉じる。

黒い霧が身体を包む。

圧のある波動が辺りに広がった。


静寂。

森は息を潜める。


次の瞬間――


耳を裂くような咆哮がヴェイルの全身を震わせた。

理由もなく背筋に冷気が走る。


霧が風に攫われるように散り、獣の姿が再び現れる。


その顎には――


自ら引き裂いた脚が咥えられていた。

残った断面は血に濡れ、滴り落ちる。


獣は脚を噛み砕き――そのまま貪り始めた。


獣は自ら喰らった脚を飲み下すと、傷ついた残りの脚へと顎を向けた。

口から黒い蒸気を吐き出し、断面に絡ませる。

肉が収縮し、じわじわと塞がっていく。


「……お前……自分の肉まで食って癒やすのかよ。

 本当に気持ち悪い……しつこいにも程があるだろ。」


ヴェイルはうんざりと吐き捨てた。


――もう終わらせる。

この最悪な一日の締めくくりとして。


彼は地面に突き刺さった剣を拾い上げる。

獣は脚を引きずりながらも睨み続けていた。


ヴェイルは剣を鞘に収め、両手を大地へ向ける。

息を整え、掌をわずかに獣へ向け――風を放った。


砂塵が舞い上がり、濃い煙幕のように辺りを覆う。

その隙にヴェイルは回り込み、獣の背後へ。


だが獣もすぐに反応する。

しかし――


ヴェイルは風で身体を横へ滑らせ、逆方向へ一気に移動した。

その尾に掴まり、一気に背へよじ登る。


反応が追いつく前に、短剣を振り下ろした。

刃は頭蓋を貫き、第三の眼が音もなく閉じる。

他の瞳から光が失せ、四肢が崩れ落ちた。


巨体は血を流しながら、動かなくなる。


ヴェイルは短剣を引き抜き、息を荒げながら後退する。

生気は完全に途絶えていた。


だが――彼が女のもとへ向こうとした瞬間。


「っ……!」


短剣が手から滑り落ち、彼自身も地に崩れ落ちた。

身体が言うことを聞かない。


灼けつく痛みが、足と右手を貫く。

慌てて手袋を外す――裂け目はない。

だが、その下の皮膚は焼け爛れていた。

頬に受けた傷よりも、遥かに深く。


「動かないで!」


女が駆け寄り、ヴェイルの傍らに膝をつく。

鞄を探り、一本の小瓶を取り出した。


「脚をここに乗せて。手も出して、すぐ処置するから。」


鋭い声。だが、揺るぎない。


ヴェイルは言われるままに足を彼女の腿に預け、手を差し出す。


小瓶の栓が外れ、悪臭が漂う。

腐ったキャベツのような臭いに、思わず顔をしかめる。


瓶を脇に置き、彼女はヴェイルの靴を脱がせる。

露わになった足は、指先から足首まで真っ赤に焼けただれていた。


「……どういうことだ……? 手袋も靴も無事なのに……。

 いったいどこから――」


「後だ。説明は後。今は広がる前に抑えることが先。」


彼女は液体を垂らし、両手で擦り込んだ。

薬草の冷たさと共に、痛みが次第に引いていく。


ヴェイルは息を荒げながら、焦げ付く足を見下ろす。


〈……おかしい……。奴は触れていない……なのに、どうして……?

 この怪物、一体何を――〉


思考は焼け付く痛みに揺らぎ、疑念だけが残った。

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