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氷結の夜明けの果て (R16)  作者: Wolfy-UG6
第1幕 - 第4巻 : 新たなる始まり
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第75章:奇妙なゼラチン

挿絵(By みてみん)


街の通りは次第に活気を帯びていった。

商人たちが店を開き、他の者たちは荷馬車を並べて準備を進める。

子どもたちの叫び声が朝の静寂を破り、あちこちで飛び交う談笑が空気を満たしていた。


ヴェイルは南門へ向かって歩き続けていた。

思考はまだ乱れていたが、街の息づかいに触れるうち、少しずつ心のざわめきは薄れていく。


やがて門に辿り着き、書類を差し出す。

衛兵が細かく確認した後、それを返して道を開いた。

ヴェイルが歩き出したその瞬間――


走り出してきた犬と、それに続く子犬 に、足を取られそうになった。


〈……おいおい、幸先いいな。犬に驚かされてたら、この先どうなるんだ?〉


小さく笑みを浮かべながら、そう思った。


街に入ろうと列を作っていた老商人が、その様子を目にし、大きな笑顔をヴェイルへ向けた。


「おや、駆け出しの冒険者か。道をもっと安全にしてくれると助かるよ。気をつけな、小僧。」


馬を進めながら、そう声をかけてくる。


「ありがとうございます。精一杯頑張ります。それでは、よい一日を。」


ヴェイルは頭を下げ、返す。

男は軽く手を振って応え、その言葉はヴェイルの胸を奮い立たせた。


そのまま道を進んでいく。

時間が経つごとに、木々は深くなっていった。

彼は小道に分け入り、木々の間を縫うように歩く。

そよ風が衣を揺らす。


だが――茂みの奥で、不意に葉がざわめいた。

ヴェイルは素早く剣を抜く。


〈……何だ? いや、何であれ気を抜くな。今日はアリニアがいない。俺ひとりで何とかしないと……〉


心臓が高鳴り、剣の柄を強く握る。

どんなものが飛び出してきても構えるつもりでいた。


だが現れたのは、想像とは違うものだった。


小さな青い塊――ぷるりと揺れるゼラチン状の球体が、道の中央に転がり出た。

透明な体の内側には、奇妙な石と繋がった大きな二つの目が浮かんでいる。


それはころころと転がりながらヴェイルへ近づいてくる。

反射的に、彼は剣を振り下ろした。


刃はほとんど抵抗なく球体を両断し、内にあった石を砕いた。

すると、青い塊は動きを止め、溶けるように地面に広がり、ただの粘ついた水溜まりとなった。


「……はあ? これが初心者用の魔物ってやつか。狼やあの忌々しいヒュドラに比べたら……恐れるほどじゃないな。」


残骸を見下ろしながら、吐き捨てるように言う。


だが、死骸は何も残さなかった。

戦利品もなく、ヴェイルは剣を収め、再び歩き出した。


十分ほど歩いた頃、木々は徐々にまばらになり――


目の前に広がったのは、大平原だった。


これまで目にしたどんな光景とも違う。

果てしなく続く草原に、色鮮やかな花々や低木が散りばめられ、その間を小川が流れている。

陽光は大地を照らし、水面に反射して木々を煌めかせていた。


吹き抜ける風は水辺の涼しさを運び、せせらぎと鳥の囀りが混じり合い、心地よい響きを奏でていた。


遠くには――先ほどの犬と子犬 が見えた。

棒を咥えて走り回る犬を、子犬が楽しげに追いかけている。


ヴェイルは景色を楽しみながら近づいていく。

だが、足元で枝を踏み砕く音が響き、二匹は耳をぴんと立てた。


「怖がらなくていい。俺はお前たちに危害を加えるつもりはない。」


そう、静かに声をかけた。


子犬 は嬉しそうに跳ねながらヴェイルへ駆け寄った。

その小さな体を彼の足の間にすり寄せ、尾を激しく振りながら座り込む。


ヴェイルは腰を下ろし、そっと手を伸ばす。

撫でてやると、子犬はころりと横に転がり、腹を見せて甘えるように鳴いた。


それを見ていた成犬も、ためらいがちに近づいてくる。

ゆっくりと歩み寄り、ヴェイルの近くに座ると、口に咥えていた棒を放し、尾を振って見上げてきた。


ヴェイルは木片を拾い上げ、立ち上がる。

子犬 も吠えながら跳ね起きる。


彼は腕を振りかぶり、思い切り遠くへと棒を投げた。

二匹は全速力で駆け出し、競い合うように追いかけていく。


「一日中こうしててもいいな……本当に、こんなふうに過ごせるのは気持ちがいい。」


ヴェイルは棒を奪い合う二匹を見つめながら呟いた。


彼はしばらくの間、犬たちと遊んでいた。

棒を投げ、撫でてやり、時間は穏やかに過ぎていく。


だが、やがて成犬が棒を咥えて戻る途中で、突然立ち止まった。

低く唸り声を上げ、牙をむく。


その隙に子犬 は棒を奪い取り、尻尾を振りながらヴェイルへ持ち帰ってきた。

だが、ヴェイルの視線は別のものを追っていた。


草むらから――小さな青い塊が、ぬるりと現れた。

それを目にした成犬は怯え、すぐに逃げ去ってしまう。


青い塊の目がヴェイルに向けられ、ゆっくりと転がり始める。


そのとき、子犬 も異変に気づいた。

無邪気に跳ねながら、青い球体へと近づいていく。


小さな鼻先で押し、転がし、くんくんと匂いを嗅ぐ。

球体は震えながら、その場に留まっていた。


「……危険には見えないな。さっきのを殺す必要はなかったのかもしれない。」


ヴェイルは低く呟き、草の上に腰を下ろした。


子犬 は遊び始めた。

鼻で押したり、転がしたり、仰向けになって前足で転がしたり。


ヴェイルの頬に自然と笑みが浮かぶ。

〈……この世界にも、悪くないものがあるんだな。〉


だが――その時。


青い塊が異様な動きを見せた。

ぐつぐつと喉を鳴らすような音を立て、体を波打たせる。


膨らみ、口のような裂け目を開いた。

そして――粘つく液体を吐き出し、子犬 の足に絡みついた。


子犬は甲高い声で鳴き、必死に足を引こうとした。

だが、小さな力では振りほどけない。


ヴェイルはまだ気づいていなかった。

それを遊びの一つだと思い込み、ただ見守っていた。


だが――草むらからさらに四つの青い塊が現れた。

子犬の周囲を取り囲み、ぶるぶると震えて奇怪な音を響かせる。

まるで互いに意思を交わすかのように。


ようやく、その瞬間。

ヴェイルは事態の異常さに気づいた。


だが――理解が追いつかず、体は凍りついたままだった。


一体の塊が跳ね、子犬の鼻先に張り付く。

粘つく体はすぐに口元を覆い、息を奪った。


必死にもがき、首を振り、くぐもった鳴き声が漏れる。

だが、青い体はさらに硬さを増し、足に絡みついていく。


やがて――


小さな体が倒れ、痙攣する。

前足が不自然に反り返り、関節が軋む音がした。


もがく動きは次第に弱まり……

その瞳は、助けを求めるようにヴェイルを映しながら――


虚ろになっていった。


そして、静寂。


風の音と小川のせせらぎだけが残り、

小さな体は草の上に横たわったまま動かない。


白く濁った瞳が、空を見開いたまま――


命の終わりを告げていた。


子犬の鼻先に覆いかぶさっていた塊が、ずるりと離れた。

再び元の位置へ戻ると、五つの塊は揃って震え出す。

そして、動かなくなった小さな体に近づいていった。


一体ずつ、子犬の上に乗りかかる。


ヴェイルは顔を背けた。

青い体に吸い込まれるように皮膚が消え、溶かされていく。

視界を閉ざしても、吐き気は止まらなかった。


鼻を突く鉄の匂いが辺りに広がっていく。


血の匂いは次第に濃くなり、ヴェイルは堪え切れず膝をついた。

喉の奥からこみ上げ、朝の食事を吐き出す。


粘ついた咀嚼音が、耳を埋め尽くす。

頭の中から別の思考を追い払うことすらできない。


数分――永遠にも思える時間が過ぎた。

やがて、音は途絶える。


ヴェイルはおそるおそる顔を上げた。


そこには、骨だけが残されていた。

力なく崩れた骨格が散らばり、皮肉にも陽に照らされていた。


「な……なんで……?

 今のは一体……なんでこんなに歪んでるんだ、この世界は……?

 一つくらい……まともなものはないのか……?」


呟きながら、彼は目をこすった。

悪夢から覚めようとするかのように。


だが、骨は確かにそこにあった。

血の匂いは徐々に薄れ、青い塊たちは森の奥へと消えていく。


ヴェイルはふらつきながら小川へ歩み寄った。

水辺に膝をつき、両手を浸して顔に浴びせる。

何度も口をすすぎ、吐き気を押さえ込もうとする。


それでも、鉄の匂いは鼻の奥にこびりついて離れなかった。


「……一日くらい……静かに過ごせないのか。

 いつも、何かが何かを喰らおうとしてる……そんな世界しかないのか……?」


水を滴らせた顔で、低く吐き出す。


彼はゆっくりと立ち上がり、木陰に身を預けた。

剣を横に置き、鞄から地図と任務の書類を取り出す。

だが、思考はただ一つの光景に縛られていた。


つい先ほどまで、無邪気に跳ねていた子犬の姿。

自分の手で撫でていた小さな体。


彼は震える手で植物図鑑を開いた。

目を走らせ、任務に記された二つの名を探す。


ルメファ。

クロシュ=リーヴ。


ページの隅に描かれた小さな絵と、簡素な説明が目に入る。


ルメファ

種類:薬草

生息地:小川や清らかな泉の縁、岩や土手の影に生える。


説明:

薄水色の葉を広げる低草。葉脈が透けるほど淡く、触れるとわずかに光を宿す。

中央には銀色の五弁花が咲き、香りはなく、撫でると震えるように揺れる。


クロシュ=リーヴ

種類:水草(半水生)

生息地:澄んだ小川の縁、石に絡むように群生する。


説明:

細く透明な茎の先に、逆さまの青い鐘形の花を咲かせる。

水流に揺れると、微かな音色を響かせる。

群れを成して揺らぎ、水面にさざ波のような歌を広げる。


ヴェイルは震える指先で図鑑を閉じ、鞄へ戻した。

木陰に身を預けたまま、しばし目を閉じる。


忘れようとしても、忘れられなかった。

あまりに鮮烈で、記憶から消えるはずのない光景。


彼は深く息を吐き、草に身を横たえた。

風に撫でられ、柔らかな大地に支えられながら――


目を閉じた。

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