第74章:募るわだかまり
冒険者たちの列は、すでにかなり短くなっていた。
だが――ヴェイルは、まだその場に立ち尽くしていた。
頭の中を巡るのは、アリニアのこと。そして、これから自分を待ち受ける現実。
どちらに意識を向けても、答えは出なかった。
「……ん?」
背後から伸びてきた大きな手が、肩に触れる。
その瞬間、ヴェイルの思考は霧のように消えた。
「おいおい、ボーッとしてんなよ、坊主。
進まねぇと、後ろから抜かれちまうぜ?」
どこか優しげな、だが低く響く声。
「……初めてなら、そんなに緊張するなって。みんな最初はそうだ」
ヴェイルは前を向き、すぐ目の前に並ぶのがたった一人だけだと気づく。
軽く手を上げて男に謝ると、列を進んだ。
前の冒険者が、書類にギルドの判を受け取り、そそくさとその場を離れていく。
カウンターの向こうに座る受付嬢は、疲れた表情のまま、次の人間を呼んだ。
「次の方、どうぞ」
視線を机から上げることなく、淡々とした声。
ヴェイルは少し緊張した面持ちで、口を開く。
「あの……すみません。依頼を受けたいんですが……」
その声に、彼女はふと顔を上げた。
そして――思わず、頬をゆるめる。
「あら、ヴェイルくん。まさか登録の翌日に来るとは思わなかったわ。
大抵の新人は数日迷ってから来るものよ?」
彼女は机の上の書類を片づけながら、柔らかく話しかけてくる。
「アリニアに、一週間でランクを上げろって言われて……。
一緒に旅がしたいから、のんびりしてられなくて……」
両手の指を絡ませ、少し恥ずかしそうに目を伏せながら答えるヴェイル。
彼女は無言で立ち上がると、奥の部屋へと消えていった。
突然の行動に、ヴェイルはきょとんとする。
やがて彼女は戻ってきて、小さな冊子と何かの紙を持っていた。
「なるほどね。じゃあ最初は、ランクアップのための基本依頼から始めましょう」
再び椅子に腰かけると、手早く紙に情報を書き込んでいく。
ヴェイルは、その様子をじっと見つめる。
紙には自分の名前と、現在のランクが記されていた。
「これに署名してくれる? これは正式に依頼を受けた証明書よ。
難しいことは何もないから、安心して」
そう言って紙と羽ペンを手渡してくる。
ヴェイルは紙を手に取り、ざっと目を通す。
────────────────────────────
依頼内容 :薬草の採集
期限 :受領日より二日以内
依頼者 :ヴェイル=ワンダラー
契約者ランク:F
────────────────────────────
ギルド公式印 契約者署名
軽く息を吐き、署名欄に自分の名前を書く。
紙を戻すと、彼女は笑顔でそれを受け取った。
(薬草採集……アリニアが挑むダンジョンとは、まるで別世界だな)
ふと、そんな皮肉めいた思いが胸をよぎる。
「はい、手続き完了。
地域に不慣れだと思うから、周辺地図と薬草図鑑、それと依頼内容をまとめた簡易マニュアルを渡しておくわね」
彼女は小さな冊子と巻物を机に置く。
「ありがとう。でも……もし間違えて違う草を採ったら、どうなるの?」
ヴェイルは目を細めながら、少し不安そうに尋ねる。
「間違えたら? ――そうね、そのときは……」
受付嬢は唐突に真顔になり、声を落としてこう言った。
「もし間違えたら? ……そのときは広場で吊されることになるかもね」
背後の男が、けたたましく笑い出した。
それに釣られるように、周囲の冒険者たちも声を上げる。
受付嬢さえも、口元を押さえてくすくすと笑っていた。
だが――
ヴェイルの目は、一気に冷めた色を宿していた。
「冗談よ、そんなに動揺しないで」
「ちゃんと専門の人が確認するから、間違えても大丈夫。
初心者なんて、だいたい一回は取り違えるものだしね」
彼女は穏やかに笑いながら説明したが、ヴェイルの脳裏には、
すでに処刑台と自分の首にかかる縄が浮かんでいた。
(……この国のユーモアって、本当に分かりづらい。
まぁ、冷静に考えれば、あんなことで処刑はないか)
そう自分に言い聞かせながら、無理に笑みを浮かべた。
「肩の力抜けよ、坊主。
そのうち慣れるさ。……このちっこい嬢ちゃんですら、
場末の酒場みたいな冗談ぶっ放してくるんだぜ?」
後ろにいた男――エルザンと呼ばれた彼が、ニヤつきながら言った。
「ふん、私を酒浸り扱いするつもり?
そっちこそ、この前の勝負でフラフラになってたでしょ?
また教えてあげてもいいけど?」
受付嬢が挑発的に言い返す。
ヴェイルはただ困惑していた。
この軽いノリが当然かのような空気に、どう反応すべきか分からなかった。
「いや、もういい。あのときは連中にからかわれて二週間は引きずったんだ。
もうゴメンだよ。……けど、今夜暇なら部屋に来いよ。飲み直そうぜ」
エルザンはニヤニヤしながら言葉を続けた。
「えっと……もう、行っても大丈夫ですか? 何か足りないものありますか……?」
ヴェイルが口を挟むと、ようやく受付嬢の視線が彼に戻った。
「あ、ごめんごめん。全部大丈夫よ。
気をつけて行ってきてね。……大事なのは“ちゃんと帰ってくること”だから、忘れないで?」
彼女は小さくウインクしながら微笑んだ。
「……ありがとうございます。気をつけます」
ヴェイルはぺこりと頭を下げ、出口に向かって歩き出す。
背後では、エルザンと受付嬢の軽口がまた始まっていた。
扉を開けると、澄んだ空気が頬を撫でた。
朝日がギルドの玄関口を黄金色に染めていた。
(ここまでいろんなものを見てきた。薬草集めくらい、どうってことない……よな?)
そう自分に言い聞かせるように、ヴェイルは一歩を踏み出した。
建物の陰に入り、手にした地図を広げる。
中央の噴水や大通りの位置から、今いる場所を確認する。
街には四つの門があり、それぞれ東西南北に通じていた。
次に任務の紙を取り出し、目的地を確認する。
(クラルノーゼ平原か……。確か南門の方だったな)
再び地図を見比べ、南へと歩き出す。
だが――
人気のない裏通りに差しかかったそのとき、後ろから声が飛んできた。
「おいおい、見ろよ。
子犬ちゃんが迷子になってらあ」
やけに大きな声。その直後、複数の笑い声が響き渡る。
ヴェイルが振り向くと――
そこには五人の男たちが立っていた。
全員がフードを被り、顔は影に隠れていた。
「……あの小娘は一緒じゃねぇのか?
チッ、あのクソ女のせいで治療費がバカにならなかったんだぞ。
きっちり払い返してもらわねぇと困るな――」
そう言いながら、一人の男が腰の剣を抜いた。
ギラリと光る刃が、日の光を受けて鈍く輝く。
後ろにいた連中も、それに続くように武器を取り出した。
剣、金属の鉤爪、ナイフ――様々な凶器が彼を囲む。
「どうした? 何も言えねぇのか?
震えてんじゃねぇかよ。……おい、どうだ?
このガキ、安っぽい売女みてぇな匂いしてんぞ。
望むなら、俺の連れが“可愛がって”やってもいいけどよ?」
男の口調は下卑た笑みに満ちていた。
一歩、また一歩とヴェイルに近づいてくる。
「おいダーナン、こいつのツラ見たか?
犬でもこいつにはションベンかけねぇぞ」
後ろの男の一人が、あざけるように吐き捨てた。
ヴェイルは腰の剣に手をかけようとしたが――
目の前の男が、すぐには誰なのか分からなかった。
だが、その名前を聞いた瞬間、思い出す。
(……あのときの、アリニアにやられたやつだ)
思わず数歩後退し、なんとかこのバカげた状況が壊れることを願う。
「で……でさ、ぼ、僕が何かしたっていうの?
アリニアに負けたのは君自身だよね?
女の子にやられて、なんで僕に怒りぶつけてんのさ……」
震える声で、ようやく返した言葉。
だが、ダーナンの表情は怒りで歪んでいた。
「チッ、クソッたれめ……!
あんな化け物みたいなハーフが、力だけで勝ち誇りやがって。
アイツらにゃプライドってもんがねぇのかよ……!」
怒声と共に、拳で壁を殴る。
そして、今度は剣の切っ先をまっすぐヴェイルへと向けた。
ヴェイルはさらに一歩下がりながら、口を開く。
「……言い訳ばっかりだよ。
ただ、あの場で恥かいたのが悔しいだけなんじゃないの……?」
声が徐々に震え始める。
わかっていた。
挑発なんてするべきじゃなかった。
けれど、もう後戻りできない。
男たちの空気は、じわじわと荒々しさを増していく。
(……逃げるしかないか?)
身体が自然と、反転する準備を始める。
「……もういい。
さっさと金を出せ。じゃなきゃ、
お前の骨を一本ずつへし折ってやる。分かったか、小僧……?」
ダーナンの声が、まるで死刑執行人のように冷酷だった。
ヴェイルは強く、サコッシュを握りしめた。
ダガーを抜くか、それとも――。
(……でも、ここで渡したらきっと、またやられる。
アリニアが言ってた……“自分を安売りするな”って。
……けど、アイツ、俺に他人の恨みまで押しつけていったんだな)
心の中で複雑な思いが渦巻く。
だが、男たちが詰め寄ってきたその瞬間――
ガシャン――!
「てめぇら、何の騒ぎだ! ここで何してやがるッ!」
金属が擦れ合う音と共に、怒声が響いた。
ヴェイルの背後から、重たい足音が近づいてくる。
全員の視線が音の方に向く。
そこには、剣の柄に手をかけたまま現れる二人の衛兵の姿があった。
その場にいた四人の男たちは、一瞬顔を見合わせ――
そして、何も言わずに散り散りに走り出した。
「覚えてろよ、小僧……!
今度会ったときは、その幸運は通じねぇからな。
次は絶対、逃がさねぇ……!」
ダーナンは捨て台詞を吐くと、仲間に続いて暗い路地へと消えていった。
衛兵の一人がヴェイルの横を走り抜け、逃げる男たちを追う。
もう一人は、ヴェイルの前に立ちはだかった。
「おい、身分証と任務証明書を出せ。今すぐだ」
鋭く乾いた命令に、ヴェイルはハッとし、急いで書類を取り出す。
登録証とギルドの依頼書を衛兵に渡すと、男はそれをしばらく見つめた後、低く唸る。
「ふむ……問題はなさそうだな」
少し表情を和らげながら、だが声のトーンは崩さず続ける。
「で、聞こうか。
なんでこんな裏路地で、あんな連中と鉢合わせた?」
「い、いえ……僕は何も……。その、ただ……」
喉が詰まり、声にならない。
事実を話すべきかどうか――
逡巡する心が、指先に出ていた。
「……いいか、坊主。
お前が黙ってるなら、こっちは“そういうヤツ”として報告するしかない。
嫌なら、ちゃんと話せ」
衛兵の声は、冷たいが正論だった。
数秒だけ、ヴェイルは目を閉じた。
そして――意を決し、言葉を紡ぎ始めた。
「その……僕はギルドを出て、任務に向かう途中でした。
南門に向かうために、この路地を通ってたんです。
そしたら、あの人たちが急に脇道から出てきて……」
ヴェイルは、できるだけ落ち着いた口調で説明した。
「ふん……だが、それだけじゃ納得できんな。
あいつらとは面識があったのか?」
「いえ、ほとんどありません。
昨日、一緒に来た人との間でちょっとした揉め事があったみたいです。
でも、それ以上のことは分かりません。
僕も昨日この街に来たばかりなんで……」
衛兵は数秒の沈黙の後、じっと書類を見つめた。
目は、何か不備や偽造の痕跡を探しているようだった。
だが――
結局、彼はゆっくりと息を吐き、書類をヴェイルに返した。
「……よし、行っていい。
だがな、次はないと思え。
怪しい連中とは距離を取れ、小僧。……いいな?
今回は、見逃す」
「……はい、ありがとうございます」
返事をする前に、衛兵はすでに背を向けて走り出していた。
男たちの逃げた方向へ、鎧の音を響かせながら遠ざかっていく。
ヴェイルはその場にしばらく立ち尽くしていた。
手の中には、まだ書類が残っている。
ようやくそれを鞄に戻し、再び歩き出した。
もう誰にも話しかけられないようにと、
大通りまで急ぎ足で戻っていく。
噴水の前にたどり着いた時、ようやく足を止めた。
冷たい水をすくい、顔を洗う。
そして――
水面に映った、自分の揺れる顔を見つめる。
――アリニア、早く帰ってきてよ。
一週間なんて、……もつかな、俺。
ヴェイルの呟きは、水音にかき消され、
やがて噴水の音だけが響く静かな朝に溶けていった。




