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氷結の夜明けの果て (R16)  作者: Wolfy-UG6
第1幕 - 第4巻 : 新たなる始まり
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第72章:旅立ちの前夜

アリニアは小さな宿の扉を押し開けた。

そのすぐ後ろを、ヴェイルが静かに続く。


中は賑やかだった。

談笑の声に混じって、皿を擦る音やジョッキがぶつかる音が飛び交っている。

そこへ、若い店員の一人が近づいてきた。


「いらっしゃいませ。ご宿泊ですか? それともお食事だけ? あるいは両方でしょうか?」


柔らかくもはっきりした声で問いかけてくる。


「部屋はもう一つ欲しいわ。私はすでに泊まってるから。それと、二人分の席もお願い」


アリニアが淡々と答えると、若者は頷いて指を一つ振る。


「では、奥のカウンターで女将と部屋の手続きをどうぞ。終わったら、そちらの席にお持ちしますので、ご注文はその時に伺います」


そう言って別の客のもとへと足早に去っていく。


アリニアは無言でカウンターへ向かい、ヴェイルも腹を鳴らしながら後に続いた。


「こんにちは、エリナリーゼ。もう一部屋、お願い」


小さな鈴を軽く鳴らしながら、アリニアはそう告げる。


帳簿に目を落としていた女将が顔を上げ、にこりと笑った。


「まあ、アリニア。久しぶりじゃない。そろそろ荷物を処分しようかと思ってたところよ」


くすくすと笑う彼女は、ちらりとヴェイルへ目をやる。


「この若い子の部屋ね? ふふ、あんたも少しは丸くなったのかしら。普段じゃ誰も寄せつけないのに」


「くだらないこと言ってないで、鍵をちょうだい。一週間分まとめて払うわ。そのあとは彼が自分で払うから」


アリニアはため息交じりに目を回しながら、手を差し出す。


「まったく、昔のままね……。はい、415号室、西棟よ」


鍵を渡しながら、エリナリーゼは声をひそめて一言添える。


「口ではどうでもよさそうに言ってても、気にしてるのはバレバレよ」


アリニアはその言葉に何も返さず、ただ鍵を受け取り、ヴェイルに目配せする。


彼らは階段を上がり、二階の左側へと進んでいく。

やがて、小さな扉の前で立ち止まった。


「ここがあんたの部屋。荷物置いたら下に来て。だけど、貴重品は置きっぱなしにしないこと。

 ここ、別に安全な場所ってわけじゃないから。扉もしっかり閉めてね。盗賊ってのは、遠慮って言葉を知らないから」


そう言い残すと、アリニアはスタスタと階段へ戻っていった。


ヴェイルは、しばらくその場に突っ立っていた。

何が起きたのか、すぐには把握できなかった。


気づけば、アリニアが鍵を手のひらに滑り込ませていたことすら、意識していなかったのだ。


扉を開けると、そこには素朴な一室が広がっていた。


厚いマットレスの乗ったベッドに、ちょっとした机。

その上には花瓶が置かれ、窓は開け放たれていた。


窓辺に近づくと、外の通りの喧騒がはっきりと聞こえてくる。


「今夜は、ふかふかの上で寝られるのか……やっと、だな」


そう呟きながら、ヴェイルはマットレスに手を伸ばした。


ジャケットを椅子の背にかけ、部屋を出ると再び一階へと向かう。

視線でアリニアを探し、やがて壁際の一角に彼女の姿を見つけた。


彼は向かいの席に腰を下ろす。


アリニアは頬杖をつき、虚空を見つめていた。


「……そんな顔、初めて見るな。何か気になることでもあるのか?」


「いいえ。ただ、あんたがどれだけ待たせるのか考えてただけ」


彼女は目線をヴェイルに戻し、淡々とそう言い放つ。


だが、ヴェイルには分かっていた。

その目の奥には、何か隠されたものがある。


だがそれを問いただす暇もなく、アリニアが手を上げた。


さきほどの若い店員が再び現れ、二人の前にメニューを差し出す。


「ごゆっくりお選びください。数分後にまた伺いますので」


そう言って、彼は二人の前に水の入ったグラスを静かに置くと、他の席へと歩いていった。


ヴェイルは手元のメニューを取り上げ、じっと見つめる。

どれも見慣れない料理名だったが、添えられた説明を読むだけで、次々と食欲をそそられる。


その中で一つ、特に気になる一品が目に留まった。


オークモウのもも肉ロースト ~はちみつフライドポテト添え~


味の組み合わせは妙に思えたが……それでも惹かれるものがあった。

彼は、それに決めた。


数分後、先ほどの店員が小さなメモ用紙を手にして戻ってくる。


「お決まりでしょうか? もしご相談があれば、お気軽にどうぞ」


「私はメラス風カエル料理に、焼き野菜を添えて。それとビールを一杯」


アリニアが即答する。


「えっと……僕はオークモウのもも肉と、はちみつフライドポテトを……お願いします。あと、果汁ジュースも」


ヴェイルはやや緊張した様子で答えた。


若者は素早くメモを取り終えると、にこりと笑ってその場を離れた。


アリニアはふぅと息を吐き、背もたれに身を預けて軽く伸びをする。

そしてすぐに、真剣な表情へと戻った。


「……クリオループなんて、味がしないって思えるくらい、美味しいわよ。……でも、食べる前に話さないといけないことがあるの。ちびオオカミ、あんたには、ちょっと嫌な話だけど」


彼女の耳がわずかに垂れた。


「……嫌な話? この数日で散々ひどい目に遭ってきたし、それ以上って、何があるんだよ」


冗談めかして返したものの、ヴェイルの腹の奥には、冷たい塊が生まれつつあった。


「明日、出発する。別の任務が入ったの。でも、あんたは連れていけない。……一週間、あんたはこの街で一人で過ごすことになるわ」


アリニアの口調は落ち着いていたが、その言葉は容赦なく心に突き刺さった。


「……そっか。さっき戻ったとき、ぼんやりしてたのは、そのせいか」


「うん。補給品のことを考えてただけ。……でも……」


その先の言葉は、喉の奥で消える。


「……でも? なにか不安なことがあるの? また、あのときみたいになると思ってる?」


ヴェイルは問いかける。

混乱していながらも、それを表に出さぬよう努めていた。

アリニアを不安にさせたくなかったのだ。


「……そう、かもね。似たようなものよ」


彼女はヴェイルの視線を避けたまま、曖昧に答えた。


ヴェイルはゆっくりと辺りを見回す。

アリニアがちらりと彼に目をやったが、喉が詰まったように言葉が出てこなかった。

まるで、口にしてはいけない何かがあるかのように。


「……まぁ、ルールは教わったし、頭ではわかってる。

 でもさ……こっちには、何も拠り所がないんだ」


その小さな声は、どこか寂しげだった。


「……見捨てるわけじゃない、ちびオオカミ。たった一週間よ。

 それに、自分の力で学べる機会だと思えばいい。

 ヒュドラを倒せたんだから、大抵のことは乗り越えられるはず」


アリニアの声が、わずかに震える。


だが――


ヴェイルは、返事をしなかった。

その目は、薄暗い灯火の方へ向いたままだ。


ヒュドラ、か……

でも、あいつらより――人間のほうがよっぽど怖い気がする。


「大変なのはわかってる。無理に話しかけたりしなくていいから。……ね、ちょっとしたことやってみない? 元気出そうよ」


アリニアが口調を変えて、無理にでも明るくしようとする。


「やってみるって……でもさ、君いないんだろ? どうせ見れないじゃん」


ヴェイルは俯いたまま、目をそらした。


「一週間でEランクに上がるっていうのは、どう? 私はいなくても構わない。戻ったときに確認すればいいから。

 それに、私がいないってことを忘れるくらいには、やることがある方がいいでしょ。

 毎日一つか二つ任務をこなせば、すぐに昇格申請できるはずよ」


そう言って、アリニアは手を差し出した。


「悪くないな。ランクが上がれば、また君についていけるしな。

 君って意外と後ろがガラ空きだし、カバーしてやらないと」


ヴェイルは照れたように笑いながら、彼女の手をしっかりと握る。

まるで何かの契約を交わすように。


そのタイミングで、料理と飲み物が運ばれてきた。

店員は丁寧に皿を置くと、にこやかに「ごゆっくり」と告げて席を離れる。


ヴェイルは目の前の皿を見つめた。


こんがりと焼かれた大きな肉塊。表面には艶やかな焼き色と甘い香りの漂うカラメルのような皮。

その周囲には輪切りにされたジャガイモが、ほんのりとろみのあるソースをまとって並べられている。


フォークを手に取り、一枚のポテトを刺す。

滴るソースを受け止めながら、それを口に運んだ。


――じゅわっ。


初めて出会う味わいだった。

記憶の中にさえ存在しないような、濃密で複雑で、それでいて温かい風味。


二人はその後、ほとんど言葉を交わすことなく、静かに料理を楽しんだ。


皿の上には何一つ残らなかった。


やがて食器が下げられ、代わりに色とりどりの果物を盛り付けたカップが運ばれてくる。


「そういえば……明日は何時に出発するの? 君、まだ言ってなかったよね」


数分ぶりにヴェイルが口を開いた。


「夜になる前に着きたいから、夜明けと同時に出るわ」


アリニアは淡々と答える。


「だからこそ、あんたもちゃんと休みなさい。初級者向けの任務って言っても、甘く見たら怪我するわよ」


「わかった。でもその前に、買い出しに付き合ってもいいかな?

 何を持ってくのか、商人がどんな物売ってるのかも見てみたいし」


ヴェイルの提案に、アリニアは小さく頷く。

二人とも果物を食べ終えると、立ち上がり、アリニアはカウンターへ向かって会計を済ませる。


そして、外へと出た。


すでに太陽は建物の影に隠れ、街には少しずつ夜の空気が広がり始めていた。


それから、彼らはあちこちの店を回った。

薬屋や錬金術師の店、なかには怪しい品ばかりを並べた店もある。


アリニアは手慣れた様子で必要なものを買い揃えていく。

もう次に向かう準備が、すでに頭の中に全てできているかのように。


やがて夜が完全に訪れ、冷えた風が吹き始めた。

ヴェイルは思わず身震いをする。


通りには、フォタライトが灯り始めていた。

小さな箱の中に閉じ込められたホタルの光を、魔石が増幅する幻想的な灯り。


人通りもまばらになり、街は静けさを取り戻し始める。


二人は再び宿へと戻ってきた。


席に座り、飲み物を一杯ずつ頼む。


「……明日から君がいないって、まだ信じられないよ。

 なんだか、現実じゃないみたいだ」


ヴェイルはグラスを指先で回しながら、ぽつりと呟いた。


「……飲み終わったら、もう寝ましょ。私は明日早いから」


アリニアは目を閉じるように言う。


店の中もすっかり静かになり、時折聞こえるのは他の客の小さな笑い声だけ。


彼らは飲み干したグラスをテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がった。


階段を並んで上がっていく。


「……おやすみ。無理しないでね。君の任務も……気をつけて」


ヴェイルは階段の途中で立ち止まり、振り返って囁く。


「心配いらないわ。私、案外タフだから」


アリニアは背を押すように言って、彼を促す。


ヴェイルが自室へと向かって歩き出すと、アリニアはその背中をじっと見送る。


「……おやすみ、ちびオオカミ。あんたも、気をつけて」


誰にも届かないほどの小さな声で、彼女は呟いた。


部屋に入ったヴェイルは服を脱ぎ、荷物を机の上に並べると、そのままベッドに身を沈めた。


厚い布団をかぶり、目を閉じる。


自然と、唇に笑みが浮かんだ。


そして、夜の静寂が、彼を静かに包み込んでいく――


アリニアはというと、しばらく窓辺に腰をかけたまま、物思いに耽っていた。

明日ひとりで出発することを考えると、胸の奥がざわつく。


「……こんなの、私らしくない。

 今まで何度もあったのに、どうして今回はこんなに躊躇うの……?」


ぽつりと漏れた言葉は、誰にも届かない。


月明かりに照らされた街並みを、ただじっと見つめていた。

視線の先には何もないはずなのに、心は過去を彷徨っていた。


あの日、彼と出会ってからの出来事が、次々と思い浮かぶ。


……本当なら、もっと冷静に、距離を保つべきだったのに。


頬をなでるように、夜風がそっと吹き込む。


ひやりとした感触に、アリニアは小さく身をすくめた。


「……ふぅ」


溜息をついて、ようやく立ち上がる。


ゆっくりと着替えを済ませ、ベッドに身を沈めると、

身体はすぐに重くなっていった。


思考が霞んでいく中、最後に頭に浮かんだのは――


彼の顔だった。


そして――


静かに、静かに、眠りの底へと沈んでいった。

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