第72章:旅立ちの前夜
アリニアは小さな宿の扉を押し開けた。
そのすぐ後ろを、ヴェイルが静かに続く。
中は賑やかだった。
談笑の声に混じって、皿を擦る音やジョッキがぶつかる音が飛び交っている。
そこへ、若い店員の一人が近づいてきた。
「いらっしゃいませ。ご宿泊ですか? それともお食事だけ? あるいは両方でしょうか?」
柔らかくもはっきりした声で問いかけてくる。
「部屋はもう一つ欲しいわ。私はすでに泊まってるから。それと、二人分の席もお願い」
アリニアが淡々と答えると、若者は頷いて指を一つ振る。
「では、奥のカウンターで女将と部屋の手続きをどうぞ。終わったら、そちらの席にお持ちしますので、ご注文はその時に伺います」
そう言って別の客のもとへと足早に去っていく。
アリニアは無言でカウンターへ向かい、ヴェイルも腹を鳴らしながら後に続いた。
「こんにちは、エリナリーゼ。もう一部屋、お願い」
小さな鈴を軽く鳴らしながら、アリニアはそう告げる。
帳簿に目を落としていた女将が顔を上げ、にこりと笑った。
「まあ、アリニア。久しぶりじゃない。そろそろ荷物を処分しようかと思ってたところよ」
くすくすと笑う彼女は、ちらりとヴェイルへ目をやる。
「この若い子の部屋ね? ふふ、あんたも少しは丸くなったのかしら。普段じゃ誰も寄せつけないのに」
「くだらないこと言ってないで、鍵をちょうだい。一週間分まとめて払うわ。そのあとは彼が自分で払うから」
アリニアはため息交じりに目を回しながら、手を差し出す。
「まったく、昔のままね……。はい、415号室、西棟よ」
鍵を渡しながら、エリナリーゼは声をひそめて一言添える。
「口ではどうでもよさそうに言ってても、気にしてるのはバレバレよ」
アリニアはその言葉に何も返さず、ただ鍵を受け取り、ヴェイルに目配せする。
彼らは階段を上がり、二階の左側へと進んでいく。
やがて、小さな扉の前で立ち止まった。
「ここがあんたの部屋。荷物置いたら下に来て。だけど、貴重品は置きっぱなしにしないこと。
ここ、別に安全な場所ってわけじゃないから。扉もしっかり閉めてね。盗賊ってのは、遠慮って言葉を知らないから」
そう言い残すと、アリニアはスタスタと階段へ戻っていった。
ヴェイルは、しばらくその場に突っ立っていた。
何が起きたのか、すぐには把握できなかった。
気づけば、アリニアが鍵を手のひらに滑り込ませていたことすら、意識していなかったのだ。
扉を開けると、そこには素朴な一室が広がっていた。
厚いマットレスの乗ったベッドに、ちょっとした机。
その上には花瓶が置かれ、窓は開け放たれていた。
窓辺に近づくと、外の通りの喧騒がはっきりと聞こえてくる。
「今夜は、ふかふかの上で寝られるのか……やっと、だな」
そう呟きながら、ヴェイルはマットレスに手を伸ばした。
ジャケットを椅子の背にかけ、部屋を出ると再び一階へと向かう。
視線でアリニアを探し、やがて壁際の一角に彼女の姿を見つけた。
彼は向かいの席に腰を下ろす。
アリニアは頬杖をつき、虚空を見つめていた。
「……そんな顔、初めて見るな。何か気になることでもあるのか?」
「いいえ。ただ、あんたがどれだけ待たせるのか考えてただけ」
彼女は目線をヴェイルに戻し、淡々とそう言い放つ。
だが、ヴェイルには分かっていた。
その目の奥には、何か隠されたものがある。
だがそれを問いただす暇もなく、アリニアが手を上げた。
さきほどの若い店員が再び現れ、二人の前にメニューを差し出す。
「ごゆっくりお選びください。数分後にまた伺いますので」
そう言って、彼は二人の前に水の入ったグラスを静かに置くと、他の席へと歩いていった。
ヴェイルは手元のメニューを取り上げ、じっと見つめる。
どれも見慣れない料理名だったが、添えられた説明を読むだけで、次々と食欲をそそられる。
その中で一つ、特に気になる一品が目に留まった。
オークモウのもも肉ロースト ~はちみつフライドポテト添え~
味の組み合わせは妙に思えたが……それでも惹かれるものがあった。
彼は、それに決めた。
数分後、先ほどの店員が小さなメモ用紙を手にして戻ってくる。
「お決まりでしょうか? もしご相談があれば、お気軽にどうぞ」
「私はメラス風カエル料理に、焼き野菜を添えて。それとビールを一杯」
アリニアが即答する。
「えっと……僕はオークモウのもも肉と、はちみつフライドポテトを……お願いします。あと、果汁ジュースも」
ヴェイルはやや緊張した様子で答えた。
若者は素早くメモを取り終えると、にこりと笑ってその場を離れた。
アリニアはふぅと息を吐き、背もたれに身を預けて軽く伸びをする。
そしてすぐに、真剣な表情へと戻った。
「……クリオループなんて、味がしないって思えるくらい、美味しいわよ。……でも、食べる前に話さないといけないことがあるの。ちびオオカミ、あんたには、ちょっと嫌な話だけど」
彼女の耳がわずかに垂れた。
「……嫌な話? この数日で散々ひどい目に遭ってきたし、それ以上って、何があるんだよ」
冗談めかして返したものの、ヴェイルの腹の奥には、冷たい塊が生まれつつあった。
「明日、出発する。別の任務が入ったの。でも、あんたは連れていけない。……一週間、あんたはこの街で一人で過ごすことになるわ」
アリニアの口調は落ち着いていたが、その言葉は容赦なく心に突き刺さった。
「……そっか。さっき戻ったとき、ぼんやりしてたのは、そのせいか」
「うん。補給品のことを考えてただけ。……でも……」
その先の言葉は、喉の奥で消える。
「……でも? なにか不安なことがあるの? また、あのときみたいになると思ってる?」
ヴェイルは問いかける。
混乱していながらも、それを表に出さぬよう努めていた。
アリニアを不安にさせたくなかったのだ。
「……そう、かもね。似たようなものよ」
彼女はヴェイルの視線を避けたまま、曖昧に答えた。
ヴェイルはゆっくりと辺りを見回す。
アリニアがちらりと彼に目をやったが、喉が詰まったように言葉が出てこなかった。
まるで、口にしてはいけない何かがあるかのように。
「……まぁ、ルールは教わったし、頭ではわかってる。
でもさ……こっちには、何も拠り所がないんだ」
その小さな声は、どこか寂しげだった。
「……見捨てるわけじゃない、ちびオオカミ。たった一週間よ。
それに、自分の力で学べる機会だと思えばいい。
ヒュドラを倒せたんだから、大抵のことは乗り越えられるはず」
アリニアの声が、わずかに震える。
だが――
ヴェイルは、返事をしなかった。
その目は、薄暗い灯火の方へ向いたままだ。
ヒュドラ、か……
でも、あいつらより――人間のほうがよっぽど怖い気がする。
「大変なのはわかってる。無理に話しかけたりしなくていいから。……ね、ちょっとしたことやってみない? 元気出そうよ」
アリニアが口調を変えて、無理にでも明るくしようとする。
「やってみるって……でもさ、君いないんだろ? どうせ見れないじゃん」
ヴェイルは俯いたまま、目をそらした。
「一週間でEランクに上がるっていうのは、どう? 私はいなくても構わない。戻ったときに確認すればいいから。
それに、私がいないってことを忘れるくらいには、やることがある方がいいでしょ。
毎日一つか二つ任務をこなせば、すぐに昇格申請できるはずよ」
そう言って、アリニアは手を差し出した。
「悪くないな。ランクが上がれば、また君についていけるしな。
君って意外と後ろがガラ空きだし、カバーしてやらないと」
ヴェイルは照れたように笑いながら、彼女の手をしっかりと握る。
まるで何かの契約を交わすように。
そのタイミングで、料理と飲み物が運ばれてきた。
店員は丁寧に皿を置くと、にこやかに「ごゆっくり」と告げて席を離れる。
ヴェイルは目の前の皿を見つめた。
こんがりと焼かれた大きな肉塊。表面には艶やかな焼き色と甘い香りの漂うカラメルのような皮。
その周囲には輪切りにされたジャガイモが、ほんのりとろみのあるソースをまとって並べられている。
フォークを手に取り、一枚のポテトを刺す。
滴るソースを受け止めながら、それを口に運んだ。
――じゅわっ。
初めて出会う味わいだった。
記憶の中にさえ存在しないような、濃密で複雑で、それでいて温かい風味。
二人はその後、ほとんど言葉を交わすことなく、静かに料理を楽しんだ。
皿の上には何一つ残らなかった。
やがて食器が下げられ、代わりに色とりどりの果物を盛り付けたカップが運ばれてくる。
「そういえば……明日は何時に出発するの? 君、まだ言ってなかったよね」
数分ぶりにヴェイルが口を開いた。
「夜になる前に着きたいから、夜明けと同時に出るわ」
アリニアは淡々と答える。
「だからこそ、あんたもちゃんと休みなさい。初級者向けの任務って言っても、甘く見たら怪我するわよ」
「わかった。でもその前に、買い出しに付き合ってもいいかな?
何を持ってくのか、商人がどんな物売ってるのかも見てみたいし」
ヴェイルの提案に、アリニアは小さく頷く。
二人とも果物を食べ終えると、立ち上がり、アリニアはカウンターへ向かって会計を済ませる。
そして、外へと出た。
すでに太陽は建物の影に隠れ、街には少しずつ夜の空気が広がり始めていた。
それから、彼らはあちこちの店を回った。
薬屋や錬金術師の店、なかには怪しい品ばかりを並べた店もある。
アリニアは手慣れた様子で必要なものを買い揃えていく。
もう次に向かう準備が、すでに頭の中に全てできているかのように。
やがて夜が完全に訪れ、冷えた風が吹き始めた。
ヴェイルは思わず身震いをする。
通りには、フォタライトが灯り始めていた。
小さな箱の中に閉じ込められたホタルの光を、魔石が増幅する幻想的な灯り。
人通りもまばらになり、街は静けさを取り戻し始める。
二人は再び宿へと戻ってきた。
席に座り、飲み物を一杯ずつ頼む。
「……明日から君がいないって、まだ信じられないよ。
なんだか、現実じゃないみたいだ」
ヴェイルはグラスを指先で回しながら、ぽつりと呟いた。
「……飲み終わったら、もう寝ましょ。私は明日早いから」
アリニアは目を閉じるように言う。
店の中もすっかり静かになり、時折聞こえるのは他の客の小さな笑い声だけ。
彼らは飲み干したグラスをテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がった。
階段を並んで上がっていく。
「……おやすみ。無理しないでね。君の任務も……気をつけて」
ヴェイルは階段の途中で立ち止まり、振り返って囁く。
「心配いらないわ。私、案外タフだから」
アリニアは背を押すように言って、彼を促す。
ヴェイルが自室へと向かって歩き出すと、アリニアはその背中をじっと見送る。
「……おやすみ、ちびオオカミ。あんたも、気をつけて」
誰にも届かないほどの小さな声で、彼女は呟いた。
部屋に入ったヴェイルは服を脱ぎ、荷物を机の上に並べると、そのままベッドに身を沈めた。
厚い布団をかぶり、目を閉じる。
自然と、唇に笑みが浮かんだ。
そして、夜の静寂が、彼を静かに包み込んでいく――
アリニアはというと、しばらく窓辺に腰をかけたまま、物思いに耽っていた。
明日ひとりで出発することを考えると、胸の奥がざわつく。
「……こんなの、私らしくない。
今まで何度もあったのに、どうして今回はこんなに躊躇うの……?」
ぽつりと漏れた言葉は、誰にも届かない。
月明かりに照らされた街並みを、ただじっと見つめていた。
視線の先には何もないはずなのに、心は過去を彷徨っていた。
あの日、彼と出会ってからの出来事が、次々と思い浮かぶ。
……本当なら、もっと冷静に、距離を保つべきだったのに。
頬をなでるように、夜風がそっと吹き込む。
ひやりとした感触に、アリニアは小さく身をすくめた。
「……ふぅ」
溜息をついて、ようやく立ち上がる。
ゆっくりと着替えを済ませ、ベッドに身を沈めると、
身体はすぐに重くなっていった。
思考が霞んでいく中、最後に頭に浮かんだのは――
彼の顔だった。
そして――
静かに、静かに、眠りの底へと沈んでいった。




