第71章:新たな身分
ヴェイルは静かに椅子に腰掛けたまま、部屋の中を何となく見渡していた。
受付嬢の戻りを待ちながら、どこか落ち着かない気分で、足元に視線を落とす。
やがて――コン、と軽い音と共に、扉が開いた。
だが戻ってきたのは彼女ではなかった。
代わりに入ってきたのは、まだ年若い少年だった。
手には小さな銀のトレイ。その上には小ぶりのカップが二つと、小さなポットが乗っている。
「……こ、こんにちは。お冷の……お茶、です。」
か細い声でそう言いながら、少年はそっとトレイをテーブルに置いた。
そして、ポットを持ち上げ、丁寧にカップへと注ぎ始める。
「ありがとう。でも、自分でできるよ。そんなに気を使わなくても……」
戸惑いながらも、ヴェイルはそう言って手を伸ばそうとした。
だが、少年は小さく首を振った。
「だ、大丈夫です。これも、ぼくの仕事なので……」
そう言い終えると、彼は一礼し、音もなく部屋を出ていった。
ヴェイルはそっとテーブルに近づき、一つのカップを手に取る。
ふわりと鼻をつく香りが立ちのぼった。
草のような、少し刺すような香り――その奥に、かすかなキャラメルの甘い香りも混じっている。
だが、それだけではなかった。
何か……これまで嗅いだことのない、異国めいた香りが鼻腔をくすぐった。
彼はそっと口をつけ、一口だけ含む。
……味がしない?
そう思って、もう一口。
途端に、喉がきゅっと締めつけられた。
苦味――強い、そして乾いた草の苦味が喉奥に広がり、思わず目が潤む。
息が速くなり、背中がぴくりと震えた。
だが次の瞬間、キャラメルの甘味がじんわりとその苦さを包み込んでいく。
ほっとしたように体がゆるみ――
最後には、ほんのりとした温もりが体内に広がっていく。
まるで、自分の中のざわめきが、静かに落ち着いていくようだった。
再び扉が開く。
今度こそ、エルフの受付嬢が戻ってきた。
手にはいくつかの書類を抱え、そのままテーブルに広げていく。
彼女は何も言わず、カップを手に取り――一息に飲み干した。
「はあ……やっぱり最高ね。アルグアニオンの灰は高いけど、それだけの価値はあるわ。」
そう呟くと、カップを置き、ヴェイルを見つめる。
「じゃ、続けましょうか?
別に暇じゃないけど、これ以上長引くと残業になっちゃうからね。」
ヴェイルは何も言わず、黙ってうなずいた。
お茶の後味がまだ喉に残っていたが、なんとか平静を保とうとした。
「じゃ、まずは確認。名前と、年齢を教えて。」
彼女は真剣な顔で書類とペンを構え、ヴェイルを見つめる。
「え、えっと……名前はヴェイルです。」
喉が詰まりそうになりながらも、どうにかそう答える。
「でも……それ以外は……。ごめんなさい。
本当に……思い出せないんです。自分のこと、何も……」
手のひらが震え、太ももの上でぎゅっと握られる。
彼の声には、迷いと焦り、そして無力感が滲んでいた。
受付嬢はしばし黙ったままヴェイルを見つめたが――
やがて、ふっと笑みを浮かべると、ゆっくりと立ち上がった。
「そう……まあ、変な嘘をついてるようには見えないし、信じてあげる。」
「ちょっと立ってくれる?」
彼女の声に従い、ヴェイルはおずおずと椅子を離れ、立ち上がる。
まるで審判を待つような気持ちで、指先までこわばっていた。
受付嬢は無言のまま、彼の周囲をゆっくりと歩き出す。
視線は彼の体を上から下へ、まるで何かを見極めるかのように。
それは数分にも感じられたが、実際は一瞬の出来事だった。
「はい、座っていいわよ。」
ようやく彼女は元の席に戻り、軽やかに言った。
ヴェイルも安心したように、深く息をついて再び腰を下ろす。
「ふむ……体格的にも、まだ成長途中ね。
見たところ、年齢は“十五”くらいで登録しておきましょう。多少の誤差は問題ないから。」
彼女はペンを走らせながら、さらりと続けた。
「さて、問題は“名前”ね。
そのまま“ヴェイル”だけでもいいけど――姓がないと、身分証には『浮浪者』って表記されちゃうの。あまりカッコよくないでしょ?」
「……うん……でも、本当に……何も思い出せないんです。」
ヴェイルは静かに首を振り、そのまま俯いた。
記憶を必死に探るも、黒い霧の中には何もなかった。
思い出せるのは――
あの森で、アリニアに出会ってからの出来事だけだった。
彼の目に、かすかな悲しみが滲んでいた。
「じゃあ、何か適当に考えようか。
“ワンダラー”なんてどう? “浮浪者”って書かれるよりはマシでしょ?」
受付嬢が微笑みながら、そう提案してくる。
「……他に思いつかないし、それでお願いします。」
ヴェイルは小さく笑いながら、頷いた。
彼女は再びペンを走らせ、書類に情報を記していく。
そして顔を上げ、再びヴェイルに視線を向けた。
「さて、次はクラスね。最大で三つまで選べるわ。
タンク、ウォーリア、メイジ……いろいろあるけど、何か希望はある?」
「……僕は、魔法がちょっとだけ使えます。
でも、戦士としても強くなりたいと思っていて……」
「だから、魔法と戦士、両方の道を進みたいです。」
「なるほど。じゃあ、その二つで記載しておくわね。
クラスは固定じゃないから、将来的に変えたくなったら言ってちょうだい。
カードの情報はいつでも更新できるから、心配しなくていいわよ。」
彼女はにっこりと笑いながら、羽ペンを置いた。
そして両手をそっと書類の上に置き、目を閉じて何かを呟きはじめる。
聞き取れないほど小さな言葉。
次の瞬間、青と緑が混ざり合った柔らかな光が、書類全体を包み込む。
書かれていた文字たちが、ふわりと宙へ浮かび上がり――
光の筋となって、隣に置かれていた白いカードへと吸い込まれていく。
一瞬、カードが強く輝き――そして、何事もなかったかのように静かに光を失った。
「手を出して。ちょっとだけチクッとするけど、
血を一滴だけ……登録に必要なの。」
受付嬢は、細い銀の針を取り出す。
「……わかりました。」
今まで命の危機も経験したヴェイルにとって、針の痛みなど大したことはなかった。
針が指先に触れると、赤い雫が一滴、ポトリと落ちる。
彼女はその血をすくい、カードの上にそっと垂らす。
再び淡い光がカードから立ち昇り――
今度は、ヴェイルの目にもはっきりと文字が浮かび上がって見えた。
「はい、完了。
このカードには、あなたの血……つまり魔力の波長が記録されたわ。
今後、他人には“何も書かれていない白いカード”に見えるけど――
あなたや信頼した人には、ちゃんと読めるようになってる。」
彼女は微笑みながら、カードをヴェイルに手渡す。
彼はゆっくりとそれを受け取り、じっと見つめた。
――これは本当の名前じゃないかもしれない。
でも今、自分には確かに“身分”がある。
それだけで、胸の奥に何かが灯る気がした。
カードをサイドポーチの小さなポケットに仕舞いながら、
彼は受付嬢に視線を向けた。
「これで……終わりですか?
次に何をすればいいですか?」
「ええ、登録はこれで完了。
あとは、自分の好きなタイミングで依頼を受けに来ればいいわ。」
「さっき説明した通り、掲示板から選んでもいいし、
私に直接聞きに来てもらってもいい。」
「もし私が不在のときは、代わりに“ルシニア”っていう子がいるから、
その子に頼んでね。休暇中は彼女が担当になるから。」
「……わかりました。
でも、もう少しこの街を知ってからでもいいですか?
いきなり依頼に出るのはちょっと……」
「もちろんいいわよ。
一年以内に一件こなせば、それでいいの。
旅に出るのも自由。
他のギルドで依頼を受けてもちゃんと反映されるから安心して。」
受付嬢はそう言って立ち上がり、扉を開ける。
「落ち着いたら、また来てね。
少しずつ始めれば大丈夫。」
ヴェイルは静かに立ち上がり、ぺこりと頭を下げて部屋を出た。
階段を降りていくと、下のフロアでは、
冒険者たちが再び賑やかに談笑していた。
まるで、アリニアとあの男の衝突など、なかったかのように――
アリニアは一人、テーブルに腰を掛けていた。
周囲の誰もが、まるで彼女を避けるように。
ヴェイルは静かに彼女の元へと歩き、
少し重たそうに、その向かいの椅子へと腰を下ろした。
「やっと戻ってきたわね。
もうちょっと遅かったら、あのエルフの子を口説いてるんじゃないかって思うところだったわよ?」
アリニアがからかうように笑う。
「ん? もしかして、俺が他の子見てたら、嫉妬でもするの?」
その言葉に、アリニアの笑顔がピタリと消えた。
「……夢見るのは勝手だけどね、ちびオオカミ。
私はまだ十六歳だけど、目の前に現れた男にすぐ靡くような女じゃないの。」
「でも、そんな強すぎる態度じゃ、誰も寄ってこないだろ?
てか、さっきから気になってたけど――なんでそんなに他人に厳しいんだよ?
ここに来てから、ずっとピリピリしてるっていうか……」
「今それを話す気はないし、
……それに、あなたには関係ないわ。」
言い切るようにそう言って、テーブルの上に一枚のメニューカードを滑らせた。
「何か飲みなさい。その後、ちゃんとした食事に行くわよ。
クリオウルフの肉とは比べ物にならないから。」
ヴェイルはそれ以上突っ込まず、カードを手に取った。
彼女の口ぶりから察するに、これ以上答えはもらえそうにない。
仕方なく、果物のジュースを一つ頼んだ。
しばらくすると、給仕の女性がグラスを運んでくる。
その後ろには――どこか見覚えのある少年の姿があった。
さっきの……お茶を運んでくれた子だ。
だが今は、他の冒険者たちと楽しげに話しながら、笑顔を見せていた。
「ふーん……今度は男の子までじっと見つめて、どういう趣味なの?」
アリニアが小さく息を吐きながら、横目で言う。
「違うって。ただ、さっき会った時はすごく緊張してたのに――
今はあんなに自然に笑ってるのが、なんか意外でさ。」
ジュースを飲み終えたヴェイルは、ちらりと彼女を見た。
「で、次はどこ行くんだ?」
「よし、じゃあ行きましょ。
ご飯食べて、それから今後のことを話すわ。
それと、街でちょっとした装備も整えなきゃね。
初依頼に行くには、今の格好じゃ心許ないし。」
そう言って、アリニアは立ち上がった。
「それと……あの“短剣”。
よっぽどのことがない限り、誰にも見せないで。
あれは、どこにでも売ってる代物じゃない。
狙われるわよ?」
「……わかった。」
ヴェイルも立ち上がり、彼女の後に続く。
外に出ると、夕陽のような光が街をやさしく包んでいた。
建物の陰が心地よく風を遮り、少しずつ夜の気配が近づいてくる。
言葉は交わさず、二人はまたメイン通りを歩き始める。
どこからか香辛料の香りや、焼き上げたパンの匂いが流れてきて――
商人たちの呼び声、鍛冶の打音、街のざわめきが途切れなく続いていた。
やがて、一軒の大きな建物の前で、アリニアが足を止めた。
看板には『エルクリンの宿』と書かれている。
「ここよ。ご飯なら、この宿に勝る場所はない。
宿泊費も良心的で、夜を過ごすのにも最適。」
そう言った彼女の声を、ヴェイルは半分も聞いていなかった。
空腹のあまり、鼻をくすぐる香りに意識を奪われていたからだ。
――香ばしく焼かれた肉の匂い、
湯気を立てる野菜スープ、
ジューシーな魚のグリル……。
脳内に浮かぶのは、次々に現れるご馳走のイメージばかり。
焚き火で炙った魔物の肉とは、まるで別世界。
彼の胃袋は、今にも悲鳴を上げそうだった。




