第67章:奇妙な入場
ヴェイルはアリニアの後ろを歩いていた。
彼女のしっぽと耳が、そよ風に揺れてリズムを刻む。自信に満ちた足取りで丘を下り、人々の姿がはっきりと見えてきたそのとき――ヴェイルは立ち止まった。
「……ア、アリニア……」
両手をぎゅっと握りしめ、かすれた声で呟く。
アリニアはその呼びかけに足を止め、振り返った。
驚いたように目を瞬かせ、そして首を傾げる。
「どうしたの? その震え方……今にも枝から落ちそうな葉っぱみたいよ。」
その声は優しかったが、ほんのわずかに不安をにじませていた。
「わ、わからない……これでいいのかなって……。俺は何も知らないし、どう振る舞えばいいのかも……。それに……もし歓迎されなかったら? もし……余計なことを言って、誰かを怒らせたら……?」
視線を落とし、指先を落ち着きなく絡めながら小さく吐き出す。
アリニアは彼に歩み寄ると、片手をヴェイルの肩に置いた。
もう一方の手で彼の顎をすくい上げ、無理やり視線を合わせさせる。
「言っちゃいけないのは――このダンジョンで見たこと全部、それだけ。他のことなら心配いらないわ。あの人混みを見なさい。誰があんたなんか気にすると思う?」
彼女は柔らかく微笑む。
「まあ、服装は確かにちょっと変で目立つけど……あんたは人間。群衆に混じっちゃえばそれで十分よ。」
そして声を少し低める。
「でも、街に入る前は全部私に任せて。口を開くのは質問されたときだけ。いい?」
ヴェイルは迷いを残しつつも、小さくうなずいた。
彼女の言葉が、不安を少しだけ和らげてくれる。
二人は歩みを再開し、門前の群衆へ近づいていった。
立派な馬に牽かせた大きな荷馬車、小さな手押し車――さまざまな列ができている。
アリニアの姿を見かけると、何人かが笑顔で手を振った。
やがて二人は門前の列へ。そこでは衛兵が一人ひとりを厳しく確認しているのが見えた。
「アリニア……もしあの短剣を見られて、怪しまれたら……?」
ヴェイルが小声で問う。
「余計なこと言わないの。聞かれたら――ドワーフとエルフの合作で、特定の土地でしか作られない品って答えるのよ。わかった?」
彼女はきっぱりと断言した。
列が進み、ついに前の冒険者たちの番が終わる。
「よし、問題なし。通っていいぞ。」
衛兵がそう告げると、「次だ、急げ」と声を張り上げた。
アリニアはすぐに前へ出て、腰のポーチを探る。
取り出したのは小さなカード。衛兵に差し出すと、男は右手を重ね――カードから淡い紫の光がにじんだ。
「よし。では……その若者のカードを。」
衛兵の視線がヴェイルに移り、低い声が落ちた。
「持ってないわ。でも彼は私と一緒。ギルドへ連れていって、新しく発行させるつもり。」
アリニアが即座に答える。
「ふむ……」
衛兵は目を細め、不機嫌そうに眉をひそめた。
「嬢ちゃん、規則では無証の人間を冒険者門から通すわけにはいかんのだがな。」
「わかってるわ。でも見て、この子の様子。どう見ても危険人物に見える?」
アリニアは静かに返す。
「冒険者じゃないのにダンジョン攻略を手伝ってくれたの。そこをなんとか見逃して。私が保証する。……もし粗相をしたら――」
彼女は一瞬、ヴェイルに視線を投げてから、冷たく言い切る。
「私が責任を取るわ。」
やり取りの間、ヴェイルは強い視線を浴びていた。
単なる好奇心の目もあれば、疑いの色を帯びたものもある。
さらに後ろについた冒険者たちは、もうすでに苛立ちを隠さなくなっていた。
「……ったく、なんで俺たちがこんなチビのために足止めされなきゃなんねえんだ?」
わざとらしく呟いた男の声が列に響く。
「やめときなさい、ベルラン。あいつはここじゃ見ない顔よ。それに迷子みたいな顔してるでしょ。二分くらい我慢できないの?」
仲間の女性が鋭くたしなめた。
アリニアと衛兵のやり取りは、ようやく終わりを迎えた。
条件付きではあったが、合意が取れたのだ。
「わかった。だが次に会うときは、必ず身分証を用意しておけ。ほかの衛兵にも伝えておく。」
衛兵が低く言い放つ。
アリニアはこくりと頷き、手を軽く振ってヴェイルに合図を送った。
「……ありがとうございます。」
ヴェイルは小さな声でそう囁き、警備兵の前を通り過ぎる。
男は視線を下げ、ヴェイルはアリニアを追うように足を進めた。
そして――彼の街への第一歩が始まった。
胸を締めつけていた恐怖は、門をくぐった瞬間にすっと消え去った。
目の前に広がる大通りは、山のふもとまで果てしなく伸び、その先には堂々たる城がそびえている。
通りは人でごった返していた。
種族も姿もさまざまな者たちが、入り混じったり避け合ったりしながら歩いている。
荷馬車や小さな屋台が並び、商人たちの声が飛び交う。
軒を連ねる店のショーウィンドウには、ヴェイルには信じがたいほど精緻で異質な品々が飾られていた。
少し先には巨大な噴水が交差点の中央に立っていた。
後脚で立ち上がる馬、その背に鎧をまとった騎士が剣を掲げる姿。
水しぶきの周りでは子供たちが遊び、笑いながら追いかけっこをしている。
親たちは談笑しつつ、ときどき叱る声を飛ばす。
――そのとき。
鼻腔をくすぐる香りに、ヴェイルの腹が盛大に鳴った。
唾が溢れ、彼は目を閉じる。
焼きたてのパンの匂い、香ばしい肉の匂い――いくつもの香りが重なっていた。
「もうちょっと我慢して。まずは治療所に行ってからギルド、そのあとで食べましょう、ちびオオカミ。」
アリニアはそう言ったが、彼女自身の腹もぐぅと鳴り、言葉を裏切る。
「ふふ……今までの食事とは比べ物にならないわよ。」
だが、ヴェイルは返事をしなかった。
視線は通りに並ぶ店や露店へと奪われていた。
鎧を飾るガラス窓、室内装飾の小物、すべてが目新しく、足を止めずにはいられない。
さらに先では、二人の商人が言い争っていた。
「うちの魚が腐ってるだと? てめぇのしなびたキャベツ、オークモーだって見向きもしねぇわ! 犬のションベンで野菜育ててんのか、あァ!?」
「なにぃ!? 俺のキャベツはピンピンしてんだ! その魚こそ腐臭がひどすぎて、蠅すら死ぬわ、詐欺師が!」
罵声は次第に激しくなり、やがて取っ組み合いに発展した。
地面を転げ回り、服を引き裂き合う。
そこへ鋭い声が響いた。
「騒ぐな貴様ら! ここをどこだと思っている!? 立てッ!!」
長柄のハルバードを鳴らしながら、衛兵が飛び込んできた。
「牢屋で頭を冷やしてもらうぞ!」
商人二人は髪を乱し、目を血走らせながらも立ち上がった。
だがその隙――。
ヴェイルは見た。
小さな影が彼らの背後をすり抜け、素早く商品を掠め取って逃げ去るのを。
「商品をしまえ! 今すぐこの街から出ろ! 二度と戻るな!」
衛兵は冷酷に命じ、手を差し出した。
「商売の許可証を出せ。さもなくば牢行きだ。」
ヴェイルが事の成り行きに釘付けになっていると、不意に肩へ手が置かれた。
「……わかってる。全部初めてで気になるのは当然よ。でも、今は治療が先。」
アリニアが低く囁いた。
「もう六日もこの状態で無理してるんだから。身体を立て直してから街を案内してあげるわ。」
衛兵が商人たちを叱りつけているあいだに、ヴェイルとアリニアは再び歩き出した。
大通りを進み、遠目に見えていた噴水のそばを通り過ぎる。
歩を進めるごとに、建物はどんどん豪華になっていった。
黄金で縁取られた店先、隙のない衣装に身を包んだ商人たち。
彼らの視線はヴェイルに突き刺さる。まるで彼の存在そのものが侮辱であるかのように。まるで別世界を踏み込んだ異物を見るかのように。
「気にしないで。ああいう連中は自分が特別だと思ってるだけよ。言ったでしょ? 綺麗な顔してても、中身はただの馬鹿だって。下を向かずに私についてきなさい。」
アリニアは遠慮なく吐き捨てた。
「言われたけど……なんだか、もうダンジョンが恋しくなってきたよ。バカみたいだけど……あっちのほうが、まだ邪魔者扱いされてる気分は薄かった。ここは……いやな感じだ。」
ヴェイルの声はかすかに震えていた。
「慣れるしかないわよ、ちびオオカミ。冒険者の世界でも視線は重い。でも、みんながみんな愚か者じゃない。きっといい人にも出会える。」
彼女はそう言って、柔らかく微笑んだ。
二人は進み続け、ついに山のふもとへとたどり着く。
高い城壁が周囲を囲み、白い煉瓦の小道が延び、その両脇は生け垣で整えられていた。
「きれいでしょ? でも、ここを通れる日は来ないわ。門を抜けられるのは貴族や高官だけ。私たちの行き先は――あっち。」
アリニアが左手の先を指す。
彼女が示した方向には巨大な建物が聳えていた。
大きなアーチが塔に連なり、その頂には鐘が鎮座している。
「任務を終えて治療が必要になったら、ここへ来るの。詳しいことはあとで説明するわ。さあ、行くわよ。」
彼女は再び歩き出した。
「……わかった。でも、あの建物って一体何? どうしてこんなに大きいんだ?」
「人々が崇める神々の聖堂よ。供物を捧げて加護をもらうとか、そういう場所。」
アリニアは少し鼻で笑うように答えた。
「でも正直、馬鹿げてると思うわ。本当に神が人を助けたいなら、この世界で起こったはずのない出来事なんて、山ほどあるもの。」
「……森に戻って、雪に埋もれたまま眠ってしまいたい。クリオループたちの方が、まだわかりやすい。やつらは“食うため”に襲う、それだけだ。」
ヴェイルの吐息は冷たかった。
「正直ね……私も任務の時が一番自由を感じる。欲にまみれた連中から離れて、世界を自分の足で歩いてる気になれるから。」
アリニアは唇をかみ、握った拳に力を込める。
「……あんたも嫌ってるんだね。ここに来てから、ずっと目つきが変わってた。」
「そうかもね。でも今はそんな話してる場合じゃない。――着いたわ。あとは任せて。」
彼女は会話を打ち切った。
巨大な門扉がそびえ立つ聖堂にたどり着く。
人々が次々と出入りしていた。籠を抱えた者、純白の衣をまとった者――笑顔はあれど、どこか形式張った雰囲気が漂う。
だがヴェイルは、その中に妙な違和感を覚えた。
温かな視線の裏に、冷たく刺すような眼差し。
――誰かが、自分を狙っている。
背筋がぞわりと震えた。
ヴェイルは首を振り、その感覚を振り払う。
そして、奥の小さな扉へ向かうアリニアの背を追った。
どうなるのかはわからない。
けれど、ようやく二人の苦痛に終わりが訪れようとしていた。




