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氷結の夜明けの果て (R16)  作者: Wolfy-UG6
第1幕 - 第4巻 : 新たなる始まり
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第66章:雪の下に潜む静寂

ヴェイルとアリニアがダンジョンを脱出し、この小さな洞窟に身を寄せてから、三日が過ぎていた。


朝日がいつものように冷たい風を伴って昇り、森を淡い紅色に染める。鳥たちのさえずりが、それに寄り添うように響いていた。

先に目を覚ましたヴェイルは、鍋に水を汲みに外へ出た。朝食の準備のためだ。


戻るとすぐに火を起こし、その鍋を火にかける。アリニアが昨日採ってきた薬草を、数枚、そこに加えた。


「なあ、そっちはどうだか知らないけど……こうしてデカい何かに襲われる心配もせず、ゆっくりできるのって、けっこう幸せなことだよな。」

アリニアが伸びをしている横で、ヴェイルはぽつりとつぶやく。


「そうね。でも、それも街に着くまでは気が抜けないわよ? この森にはカエル族が生息してるんだから。」


ヴェイルは苦笑しながら、温まった煎じ薬を二つのカップに注ぎ、一つをアリニアに差し出す。


「やめてくれよ、縁起でもない。今まで戦ってきたやつらに比べたら、カエル族の一匹くらい、千倍マシだって……俺は思いたい。」

そう言って、カップを唇に運ぶ。

「ところでさ……その街って、どんな場所なんだ?」


「ふふ、そうだった。あんた、記憶ないんだったわね。向かうのは“エロラス王国”の王都、アルデリオンよ。」


「王都……?」


「ええ。どういう場所かは、着いてからのお楽しみってことで。」

アリニアは小さく笑いながら肩をすくめる。


「いや、なんかその言い方、逆に不安なんだけど。だってさ、あんた『このダンジョンは簡単』って言っておいて、結局死にかけたじゃん……二十回くらい。」


「それでも、私が助けたでしょ?」


ヴェイルはわずかに目をそらしながら、小さくうなずいた。

ふたりはその後、言葉を交わさず静かにカップを空ける。どちらも、なんとなく目を合わせるのを避けていた。

やがてヴェイルが立ち上がり、道具を片付けて火を消す。そして、アリニアの方を振り返った。


「そろそろ出発しようか? その“有名な”王都とやらに向かってさ。……で、どっちに行けばいいんだ? この森に入ってから、街の影も形も見えてないけど?」


「当然よ。アルデリオンは、ここから一番近い都市だけど……たどり着くには、六日間歩く必要があるの。」


「……六日?」


思わず肩を落とし、出口の方を見やるヴェイル。


「マジかよ……。こんな寒い森、早く抜けたいってのに、まだ六日も……」

そう言って、顔をしかめながら目を伏せる。


アリニアは苦笑しながら立ち上がり、サコッシュを肩にかけてヴェイルの肩に手を置いた。


「文句は終わり? 外の空気が吸えるだけマシだと思いなさいよ。もう二度と、太陽を見られないところだったんだから。」

深く息を吸い込みながら、目を細める。


「それに、ダンジョンの中でも言ったはずよ?」


そう言って、彼女は洞窟を出ていった。その足取りはまだ、かすかに不安定だった。

ヴェイルは残された唯一の防寒具であるコートをしっかりと羽織り直し、ため息交じりにその後を追った。


森はその朝、静かだった。太陽の熱を帯びたそよ風が、地面に伸びる影を優しく揺らしている。

時折遠くでクリオループの咆哮が聞こえるほかは、鳥たちの鳴き声が耳に心地よく響いていた。


「光を浴びられるってだけで、こんなにも……いや、確かに彼女の言う通りだな。」

ヴェイルはぽつりと呟く。


「まだ、この世界には知らないことが山ほどある。……頼むから、これ以上は変な化け物が出てこなけりゃいいけど。」


彼らはその後、三日間の道のりを何事もなく進んだ。まるで自然そのものが、短い安息を与えようとしてくれているかのようだった。

ヴェイルの腕にはまだ鈍い痛みと、ぬめりを帯びた感覚が残っていたが、少しずつ可動域は戻りつつあった。


だが――


森の中にぽっかりと開いた小さな空き地に差しかかったとき、その静寂は破られた。


唸るような、低く、重い咆哮。

木々の間から、影が三つ――


クリオループたちが、姿を現した。


アリニアが一歩前に出て、指先に鋭い爪を伸ばす。

だが、それをヴェイルが手で制した。


「任せてくれ。別に、誰かに守ってもらう必要なんかないし。」

苛立った声で、アリニアが反論する。


「……また同じこと言わせるつもり? あのヒュドラ戦、もう忘れたのか? 無理したら傷が開くだけだ。そうなったら、王都に着くのなんて夢のまた夢だぞ。」

苛立ちを隠さずに返すヴェイル。

「動くな。俺がやる。……口答え禁止。」


アリニアは舌打ちして、しぶしぶ爪を引っ込めた。

その間にヴェイルは短剣を抜き、彼女から距離を取るようにクリオループたちの方へ歩み出る。


「……鬱陶しい。あたしはお姫様じゃないってのに。人間なんかに庇われるとか……冗談でしょ。」

彼女は小さく、誰にも届かない声でそうつぶやく。


だが――その胸の奥に、言葉とは裏腹な“何か”が芽生えていた。

ヴェイルが怪物たちと向き合うその背中を見ていると、心の中にふわりとした温かさが生まれる。


感じたくない感情。知らないはずの感覚。


「……なんで? あんなただの人間に……。私はただ、あいつがなぜあの柱から出てきたのか、それが知りたかっただけなのに。」

揺れる心を打ち消すように首を振る。


だが――消えてはくれなかった。


数分後、ヴェイルは最後のクリオループを仕留めた。

額には汗がにじみ、呼吸も荒い。肩で息をしながら、アリニアの方を振り返る。


「……とりあえず、食料は確保できたな。少し歩いてから休憩しようぜ。」


だが、アリニアは答えなかった。

代わりにゆっくりと近づき、クリオループの死骸のそばにしゃがみこむ。

落ちていた素材を丁寧に拾い集め、サコッシュにしまい込んでから立ち上がる。


「……で? 歩いていいの? それとも、お姫様を背負って運ぶつもり?」

声は淡々としていたが、言葉には棘があった。


「はは、丁寧に頼んでくれるなら考えてやってもいいぜ。どうせ、一度や二度じゃないしな?」


その瞬間、アリニアの頬がほんのりと紅く染まる。

唇を噛みながら、何かを呟くように小さく口を動かすが、その言葉は誰にも聞こえなかった。

それからしばらく、彼女はヴェイルとほとんど言葉を交わさなかった。


「……その体で、何ができるっていうのよ。」

低く、吐き捨てるように呟く。


次の日。

ふたりの間に流れていた空気は、わずかに和らいでいた。

旅路には特に障害もなく、ただ体の痛みだけが静かに残っている。


それでもアリニアは、動物の耳をぴくりと動かし、わずかな音にも反応しながらヴェイルを導いていた。


そして――六日目の夜明け。

ヴェイルは、香ばしく焼けた肉の匂いで目を覚ました。


「……うっ、いい匂い……」

腹が鳴る。だが、すぐに眉をひそめる。


「……外に出て狩ってきたのか? どうして起こしてくれなかった? 俺が行ったのに……」

大きなあくびをしながら、ヴェイルはのそのそと起き上がり、身体を伸ばす。


「だから言ったでしょ、任せてって。勝手に心配すればいいけど、別に守られたいわけじゃないの。」

アリニアは冷たく言い放ちながら、肉を裏返す。

「それに、言い訳しても無駄。腕、まだ痛むんでしょ? 顔見てればわかる。」


ヴェイルは目をこすりながら、ゆっくりと立ち上がる。

その言葉が、妙に胸に刺さる。


自分がただ、彼女にとって迷惑な存在なのではないか――そんな思いが、心にちらつく。


「……ああ、痛いよ。だけど、お前の傷の方が深刻だろ。」

一呼吸置いて、少し低い声で続ける。

「……教えてくれよ。なんでそんなに助けを拒むんだ?」


「別に、恥ずかしいことじゃないだろ? 無理してるわけじゃない。俺がやるのは――」


「……だって……」


言いかけて、言葉が詰まる。

指先をいじりながら、目をそらしたまま、ヴェイルはかすかに呟いた。


「……俺が、そうしたいからだよ。」


アリニアが一歩前に出て、爪を伸ばした。

だが、ヴェイルが手をかざしてそれを止める。


「……なによ。私が頼りないって言いたいの? 怪我してバカだったって責めたいの? 確かに、あんたがいなかったらあのダンジョンから生きて出られなかった。でも、そんなの最初からわかってる。」

声を荒げるアリニア。その目には、怒りと痛みが入り混じった涙が浮かんでいた。


「この仕事は、いつ死んでもおかしくないって、覚悟して選んだ道なのよ。」


だがヴェイルはゆっくりと立ち上がり、焚き火のそばに腰を下ろす。

アリニアの目をまっすぐ見つめながら、はっきりと言った。


「……あんたが大切だからだよ、このバカ。」


「……っ」


「俺は何も知らない。自分が何者なのかも、この世界で何をすればいいのかも、全部わからない。でも――あんたは、俺にとって唯一の存在なんだ。」


「弱いだなんて、そんな風に思ったこと、一度もない。あの魔物たちを倒したときの姿、見ただろ。……俺は、あんたが必要なんだ。」


「どこに行けばいいのかも、家族がいるのかさえわからない。探してる人がいるのかも……全部、何一つ知らない。でも、あんたがいるから、俺はここにいられる。」


アリニアは視線をそらした。

怒りの奥に、思いがけず胸を打たれる何かがあった。

それを認めたくなくて、言葉を閉ざす。


「……もういい。これ以上話したくない。」

低く、強くそう言い切る。

「肉、冷める前に食べなさい。準備もしといて。もうすぐ目的地に着くんだから。」


そう言い残して立ち上がると、アリニアは自分の分の食事を手に取り、火から少し離れた場所に移動した。

ヴェイルの方を見ようともせず、静かに背を向ける。


ヴェイルは追いかけなかった。

彼女が考える時間を必要としていることを理解していた。

代わりに、自分も無言で肉に手を伸ばし、噛み締めながらただ一人で思いを巡らせていた。


食事が終わる頃、ヴェイルは荷物をまとめて彼女のもとへ向かった。

アリニアは無言でカップを差し出し、ヴェイルはそれを受け取って鞄にしまう。

代わりに彼女にサコッシュを渡すと、アリニアはそれを腰に巻いた。


「……アリニア、本当にごめん。もし、俺の言い方や行動が、あんたを傷つけたなら……そんなつもりじゃなかったんだ。」


だがアリニアは手を上げてその言葉を遮る。

目を閉じ、長く息を吐くと、淡々とした声で答えた。


「謝らないで。悪いのは、あんたじゃない。」

「私は……こういう自分が嫌なの。ただ、誰かに頼ることが……本当に、苦手なのよ。」


「……さ、行きましょう。」


それだけ言って、歩き出す。


その日一日は、大きな会話もなく過ぎていった。

だが、空気はどこか穏やかだった。

まるで、互いにほんの少しずつ心の距離を縮めたかのように。


そして、森の様子も少しずつ変わっていった。


雪はいつの間にか消え、代わりに青々とした草が地面を覆い始める。

木々の間隔も広がり、太陽の光が肌をやさしく照らしてくれるようになった。


やがて、木々の合間から細い道が姿を現す。

その道は緩やかに蛇行しながら、丘の方へと続いていた。


その先には、雪の積もっていない小高い丘が見えていた。


「この丘を越えたら……街が見えるわ。」

アリニアがそう呟く。


ヴェイルは返事をせず、そのまま歩を進める。

森を抜け、陽の温かさを感じられることだけでも、彼の心は満たされていた。


だがその奥では、もう一つの感情――新しい世界への期待が、ゆっくりと膨らんでいた。


丘を登るにつれて、石造りの巨大な塔が、ゆっくりとその姿を現していく。

そして――


ヴェイルはその場に立ち止まり、言葉を失った。


目の前に広がるのは、堂々とした高い城壁。

その壁の外を、透明な川が流れ、すぐそばの湖へと注いでいる。


丘の向こうには、緑の山の上にそびえる壮麗な城。

麓にはオレンジ色の屋根が並び、賑やかな人の気配が漂っていた。


「……これが、アルデリオン……?」


ヴェイルの声には、驚きと感動が入り混じっていた。


「すごいな……こんな街が、あの森のすぐ近くにあったなんて……」


「口、開いてるわよ、ちびオオカミ。」


「え?」


「そのままじゃ、魂でも吸い込むんじゃないかって思われるわよ?」

くすっと笑うアリニア。


「確かに綺麗な街だけど……忘れないで。この美しさの裏には、闇も潜んでる。」


そう言い残し、アリニアは川に架かった橋へと続く道を歩き出す。

ヴェイルも、その背を追いかけるように歩き出した。


目に映る一つ一つの光景に目を奪われながら――


森を抜けた安堵と共に、胸の奥に芽生える一つの不安。


この先、どんな人々と出会うのか。

どんな真実と向き合うのか。

そして、自分は――


〈……この世界で、何を掴めるんだろう……〉


その答えはまだ、誰にもわからなかった。

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