第66章:雪の下に潜む静寂
ヴェイルとアリニアがダンジョンを脱出し、この小さな洞窟に身を寄せてから、三日が過ぎていた。
朝日がいつものように冷たい風を伴って昇り、森を淡い紅色に染める。鳥たちのさえずりが、それに寄り添うように響いていた。
先に目を覚ましたヴェイルは、鍋に水を汲みに外へ出た。朝食の準備のためだ。
戻るとすぐに火を起こし、その鍋を火にかける。アリニアが昨日採ってきた薬草を、数枚、そこに加えた。
「なあ、そっちはどうだか知らないけど……こうしてデカい何かに襲われる心配もせず、ゆっくりできるのって、けっこう幸せなことだよな。」
アリニアが伸びをしている横で、ヴェイルはぽつりとつぶやく。
「そうね。でも、それも街に着くまでは気が抜けないわよ? この森にはカエル族が生息してるんだから。」
ヴェイルは苦笑しながら、温まった煎じ薬を二つのカップに注ぎ、一つをアリニアに差し出す。
「やめてくれよ、縁起でもない。今まで戦ってきたやつらに比べたら、カエル族の一匹くらい、千倍マシだって……俺は思いたい。」
そう言って、カップを唇に運ぶ。
「ところでさ……その街って、どんな場所なんだ?」
「ふふ、そうだった。あんた、記憶ないんだったわね。向かうのは“エロラス王国”の王都、アルデリオンよ。」
「王都……?」
「ええ。どういう場所かは、着いてからのお楽しみってことで。」
アリニアは小さく笑いながら肩をすくめる。
「いや、なんかその言い方、逆に不安なんだけど。だってさ、あんた『このダンジョンは簡単』って言っておいて、結局死にかけたじゃん……二十回くらい。」
「それでも、私が助けたでしょ?」
ヴェイルはわずかに目をそらしながら、小さくうなずいた。
ふたりはその後、言葉を交わさず静かにカップを空ける。どちらも、なんとなく目を合わせるのを避けていた。
やがてヴェイルが立ち上がり、道具を片付けて火を消す。そして、アリニアの方を振り返った。
「そろそろ出発しようか? その“有名な”王都とやらに向かってさ。……で、どっちに行けばいいんだ? この森に入ってから、街の影も形も見えてないけど?」
「当然よ。アルデリオンは、ここから一番近い都市だけど……たどり着くには、六日間歩く必要があるの。」
「……六日?」
思わず肩を落とし、出口の方を見やるヴェイル。
「マジかよ……。こんな寒い森、早く抜けたいってのに、まだ六日も……」
そう言って、顔をしかめながら目を伏せる。
アリニアは苦笑しながら立ち上がり、サコッシュを肩にかけてヴェイルの肩に手を置いた。
「文句は終わり? 外の空気が吸えるだけマシだと思いなさいよ。もう二度と、太陽を見られないところだったんだから。」
深く息を吸い込みながら、目を細める。
「それに、ダンジョンの中でも言ったはずよ?」
そう言って、彼女は洞窟を出ていった。その足取りはまだ、かすかに不安定だった。
ヴェイルは残された唯一の防寒具であるコートをしっかりと羽織り直し、ため息交じりにその後を追った。
森はその朝、静かだった。太陽の熱を帯びたそよ風が、地面に伸びる影を優しく揺らしている。
時折遠くでクリオループの咆哮が聞こえるほかは、鳥たちの鳴き声が耳に心地よく響いていた。
「光を浴びられるってだけで、こんなにも……いや、確かに彼女の言う通りだな。」
ヴェイルはぽつりと呟く。
「まだ、この世界には知らないことが山ほどある。……頼むから、これ以上は変な化け物が出てこなけりゃいいけど。」
彼らはその後、三日間の道のりを何事もなく進んだ。まるで自然そのものが、短い安息を与えようとしてくれているかのようだった。
ヴェイルの腕にはまだ鈍い痛みと、ぬめりを帯びた感覚が残っていたが、少しずつ可動域は戻りつつあった。
だが――
森の中にぽっかりと開いた小さな空き地に差しかかったとき、その静寂は破られた。
唸るような、低く、重い咆哮。
木々の間から、影が三つ――
クリオループたちが、姿を現した。
アリニアが一歩前に出て、指先に鋭い爪を伸ばす。
だが、それをヴェイルが手で制した。
「任せてくれ。別に、誰かに守ってもらう必要なんかないし。」
苛立った声で、アリニアが反論する。
「……また同じこと言わせるつもり? あのヒュドラ戦、もう忘れたのか? 無理したら傷が開くだけだ。そうなったら、王都に着くのなんて夢のまた夢だぞ。」
苛立ちを隠さずに返すヴェイル。
「動くな。俺がやる。……口答え禁止。」
アリニアは舌打ちして、しぶしぶ爪を引っ込めた。
その間にヴェイルは短剣を抜き、彼女から距離を取るようにクリオループたちの方へ歩み出る。
「……鬱陶しい。あたしはお姫様じゃないってのに。人間なんかに庇われるとか……冗談でしょ。」
彼女は小さく、誰にも届かない声でそうつぶやく。
だが――その胸の奥に、言葉とは裏腹な“何か”が芽生えていた。
ヴェイルが怪物たちと向き合うその背中を見ていると、心の中にふわりとした温かさが生まれる。
感じたくない感情。知らないはずの感覚。
「……なんで? あんなただの人間に……。私はただ、あいつがなぜあの柱から出てきたのか、それが知りたかっただけなのに。」
揺れる心を打ち消すように首を振る。
だが――消えてはくれなかった。
数分後、ヴェイルは最後のクリオループを仕留めた。
額には汗がにじみ、呼吸も荒い。肩で息をしながら、アリニアの方を振り返る。
「……とりあえず、食料は確保できたな。少し歩いてから休憩しようぜ。」
だが、アリニアは答えなかった。
代わりにゆっくりと近づき、クリオループの死骸のそばにしゃがみこむ。
落ちていた素材を丁寧に拾い集め、サコッシュにしまい込んでから立ち上がる。
「……で? 歩いていいの? それとも、お姫様を背負って運ぶつもり?」
声は淡々としていたが、言葉には棘があった。
「はは、丁寧に頼んでくれるなら考えてやってもいいぜ。どうせ、一度や二度じゃないしな?」
その瞬間、アリニアの頬がほんのりと紅く染まる。
唇を噛みながら、何かを呟くように小さく口を動かすが、その言葉は誰にも聞こえなかった。
それからしばらく、彼女はヴェイルとほとんど言葉を交わさなかった。
「……その体で、何ができるっていうのよ。」
低く、吐き捨てるように呟く。
次の日。
ふたりの間に流れていた空気は、わずかに和らいでいた。
旅路には特に障害もなく、ただ体の痛みだけが静かに残っている。
それでもアリニアは、動物の耳をぴくりと動かし、わずかな音にも反応しながらヴェイルを導いていた。
そして――六日目の夜明け。
ヴェイルは、香ばしく焼けた肉の匂いで目を覚ました。
「……うっ、いい匂い……」
腹が鳴る。だが、すぐに眉をひそめる。
「……外に出て狩ってきたのか? どうして起こしてくれなかった? 俺が行ったのに……」
大きなあくびをしながら、ヴェイルはのそのそと起き上がり、身体を伸ばす。
「だから言ったでしょ、任せてって。勝手に心配すればいいけど、別に守られたいわけじゃないの。」
アリニアは冷たく言い放ちながら、肉を裏返す。
「それに、言い訳しても無駄。腕、まだ痛むんでしょ? 顔見てればわかる。」
ヴェイルは目をこすりながら、ゆっくりと立ち上がる。
その言葉が、妙に胸に刺さる。
自分がただ、彼女にとって迷惑な存在なのではないか――そんな思いが、心にちらつく。
「……ああ、痛いよ。だけど、お前の傷の方が深刻だろ。」
一呼吸置いて、少し低い声で続ける。
「……教えてくれよ。なんでそんなに助けを拒むんだ?」
「別に、恥ずかしいことじゃないだろ? 無理してるわけじゃない。俺がやるのは――」
「……だって……」
言いかけて、言葉が詰まる。
指先をいじりながら、目をそらしたまま、ヴェイルはかすかに呟いた。
「……俺が、そうしたいからだよ。」
アリニアが一歩前に出て、爪を伸ばした。
だが、ヴェイルが手をかざしてそれを止める。
「……なによ。私が頼りないって言いたいの? 怪我してバカだったって責めたいの? 確かに、あんたがいなかったらあのダンジョンから生きて出られなかった。でも、そんなの最初からわかってる。」
声を荒げるアリニア。その目には、怒りと痛みが入り混じった涙が浮かんでいた。
「この仕事は、いつ死んでもおかしくないって、覚悟して選んだ道なのよ。」
だがヴェイルはゆっくりと立ち上がり、焚き火のそばに腰を下ろす。
アリニアの目をまっすぐ見つめながら、はっきりと言った。
「……あんたが大切だからだよ、このバカ。」
「……っ」
「俺は何も知らない。自分が何者なのかも、この世界で何をすればいいのかも、全部わからない。でも――あんたは、俺にとって唯一の存在なんだ。」
「弱いだなんて、そんな風に思ったこと、一度もない。あの魔物たちを倒したときの姿、見ただろ。……俺は、あんたが必要なんだ。」
「どこに行けばいいのかも、家族がいるのかさえわからない。探してる人がいるのかも……全部、何一つ知らない。でも、あんたがいるから、俺はここにいられる。」
アリニアは視線をそらした。
怒りの奥に、思いがけず胸を打たれる何かがあった。
それを認めたくなくて、言葉を閉ざす。
「……もういい。これ以上話したくない。」
低く、強くそう言い切る。
「肉、冷める前に食べなさい。準備もしといて。もうすぐ目的地に着くんだから。」
そう言い残して立ち上がると、アリニアは自分の分の食事を手に取り、火から少し離れた場所に移動した。
ヴェイルの方を見ようともせず、静かに背を向ける。
ヴェイルは追いかけなかった。
彼女が考える時間を必要としていることを理解していた。
代わりに、自分も無言で肉に手を伸ばし、噛み締めながらただ一人で思いを巡らせていた。
食事が終わる頃、ヴェイルは荷物をまとめて彼女のもとへ向かった。
アリニアは無言でカップを差し出し、ヴェイルはそれを受け取って鞄にしまう。
代わりに彼女にサコッシュを渡すと、アリニアはそれを腰に巻いた。
「……アリニア、本当にごめん。もし、俺の言い方や行動が、あんたを傷つけたなら……そんなつもりじゃなかったんだ。」
だがアリニアは手を上げてその言葉を遮る。
目を閉じ、長く息を吐くと、淡々とした声で答えた。
「謝らないで。悪いのは、あんたじゃない。」
「私は……こういう自分が嫌なの。ただ、誰かに頼ることが……本当に、苦手なのよ。」
「……さ、行きましょう。」
それだけ言って、歩き出す。
その日一日は、大きな会話もなく過ぎていった。
だが、空気はどこか穏やかだった。
まるで、互いにほんの少しずつ心の距離を縮めたかのように。
そして、森の様子も少しずつ変わっていった。
雪はいつの間にか消え、代わりに青々とした草が地面を覆い始める。
木々の間隔も広がり、太陽の光が肌をやさしく照らしてくれるようになった。
やがて、木々の合間から細い道が姿を現す。
その道は緩やかに蛇行しながら、丘の方へと続いていた。
その先には、雪の積もっていない小高い丘が見えていた。
「この丘を越えたら……街が見えるわ。」
アリニアがそう呟く。
ヴェイルは返事をせず、そのまま歩を進める。
森を抜け、陽の温かさを感じられることだけでも、彼の心は満たされていた。
だがその奥では、もう一つの感情――新しい世界への期待が、ゆっくりと膨らんでいた。
丘を登るにつれて、石造りの巨大な塔が、ゆっくりとその姿を現していく。
そして――
ヴェイルはその場に立ち止まり、言葉を失った。
目の前に広がるのは、堂々とした高い城壁。
その壁の外を、透明な川が流れ、すぐそばの湖へと注いでいる。
丘の向こうには、緑の山の上にそびえる壮麗な城。
麓にはオレンジ色の屋根が並び、賑やかな人の気配が漂っていた。
「……これが、アルデリオン……?」
ヴェイルの声には、驚きと感動が入り混じっていた。
「すごいな……こんな街が、あの森のすぐ近くにあったなんて……」
「口、開いてるわよ、ちびオオカミ。」
「え?」
「そのままじゃ、魂でも吸い込むんじゃないかって思われるわよ?」
くすっと笑うアリニア。
「確かに綺麗な街だけど……忘れないで。この美しさの裏には、闇も潜んでる。」
そう言い残し、アリニアは川に架かった橋へと続く道を歩き出す。
ヴェイルも、その背を追いかけるように歩き出した。
目に映る一つ一つの光景に目を奪われながら――
森を抜けた安堵と共に、胸の奥に芽生える一つの不安。
この先、どんな人々と出会うのか。
どんな真実と向き合うのか。
そして、自分は――
〈……この世界で、何を掴めるんだろう……〉
その答えはまだ、誰にもわからなかった。




