第62章:災厄の眼
ヴェイルの歩みは、まるで死へのカウントダウンのように静かに響いていた。
胸の奥が重い。緊張、痛み、そして覚悟が、ひとつの鼓動ごとに渦巻いている。
――もう、失敗は許されない。
今だけは。ここだけは。
この怪物は、どんな犠牲を払ってでも倒さなければならない。
だが、体はすでに限界を訴えていた。
魔力は急激に削られ、筋肉は今にも悲鳴を上げそうだった。
「……いける。急所に一撃さえ入れば、きっと――」
かすかに呟いた声には、まだ鋼の意志が宿っていた。
だが、そんな彼の意図を見透かしたかのように、
新たに再生したばかりの“第三の頭”が、ゆっくりと彼に視線を向けてきた。
その瞳には、まるで嘲るような、鋭い知性が光っていた。
ガチンッ、と乾いた顎の音が響く。
そして、それがまるで合図のように――
すぐ隣に控えていた“第二の頭”が仰角を取り、
青白い魔力が、その牙の間に静かに集まり始める。
形成されるのは、見慣れた氷の球。
小さくても、ひとたび放たれれば致命の威力を持つそれが、
ゆっくりと回転を始めた。
ヴェイルは息を詰まらせる。
戦場を囲っていた岩柱は、すでにすべて破壊されていた。
もう、隠れる場所はどこにもない。
遮るものも、防ぐ手段も――何も。
やがて、巨体から吐き出される冷気が空気を凍らせ、
戦場一面を白霧で覆い隠す。
その霧の向こうで――
ゴオッ、と唸りとともに放たれた氷の弾丸。
凍てついた蒼の軌跡が、一直線に彼へと向かってくる。
ヴェイルは即座に身を投げ出した。
右へ、乾いた雪の上を転がり、辛うじて直撃を避ける。
瞬間、彼のいた場所が、爆音と共に凍結し、
地面はまるでガラスのように砕けて割れた。
息を切らしながら、彼は立ち上がる。
霧の中、視線は敵を捉えたまま、一歩ずつ慎重に踏み出す。
「……また霧に隠れて……小細工ばっかりかよ……」
悔しげに吐き捨てたその刹那――
またしても、ガチンッと顎が鳴った。
“第三の頭”が命令を下す。
その瞬間、“第一の頭”が咆哮を上げ、
全身が、地を割るような勢いで動き出す。
前傾姿勢で突進。
その頭部の両脇に生えた鋭い骨刃が、槍のように構えられる。
ヴェイルは身を翻し、雪を滑るようにして回避を試みる。
だが――
今度は、読まれていた。
ふたたび響く、命令の顎鳴。
突進中の頭部が、軌道をねじ曲げて、彼を狙い直す。
その軌道修正はあまりにも正確で、もはや反射神経だけでは逃れられない。
――ならば。
「っ……!」
ヴェイルは、最後の魔力を足元に集中させる。
炸裂するような力で、身体を後方へと跳ね飛ばす!
ぎりぎりで、肉を裂く刃が彼の喉元をかすめた。
遠く離れた岩陰で、アリニアが息を呑む。
その視線は、戦場に釘付けだった。
「……あれ、ただの頭じゃない……! 命令してる……他の全部に……!」
驚愕と警戒が混ざった囁きが、白い息と共に宙へ溶ける。
一方、ヴェイルはなおも走り続けていた。
傷だらけの身体に鞭を打ち、最後のチャンスに賭ける。
いま、まだ霧が全身を覆い尽くす前。
視界があるうちに――
狙うは、首元。
三つの頭の付け根、連結部。
だが、その一瞬すら――敵は許さなかった。
またしても、命令の顎音。
それと同時に、全身が一気にねじれる。
巨体の尾が、高く振り上げられた。
そして。
ヴェイルがかつて切り落とした“死んだ頭”を、
まるで投石機のように――撃ち出した。
血と肉にまみれたその塊が、音速を越えて迫る。
ヴェイルは反射的に地面へと身を投げ出し、
転がるようにして間一髪、迫る“頭”を回避した。
刹那、彼の背後で――
――グチャァッ。
切り落とされた水棲獣の頭部が、背後の岩壁に叩きつけられ、
生々しい音を響かせながら爆ぜた。
血と肉が砕け、壁に赤黒い飛沫を撒き散らす。
振り返る暇などない。
一秒でも止まれば――それが命取りだ。
彼はすぐさま立ち上がり、再び前へと突っ込んだ。
だが。
ようやく本体に近づいたそのとき――
“第一の頭”が地を這うように前に滑り出し、
その蛇のような首が道を塞いだ。
ヴェイルは思わず足を止め、後ろへ跳ねる。
天然の刃のような角が、足元すれすれで横切る。
「……クソ……隙がねえ……」
どこから切り込む?
どの角度ならいける?
だが、“第三の頭”は彼の動きを寸分も逃さなかった。
霧を裂くような鋭い瞳が、まるで人間のように追い続けている。
その異様な視線に、ぞっとする。
「無理よ! あんた一人じゃ無理! 今度こそ――私が行く!」
痛みに震える声が、戦場の端から響いた。
アリニアだった。
だが、ヴェイルは静かに片手を上げる。
それだけで、彼女の足が止まった。
「……俺がやる。あと少しで……届くはずなんだ……!」
途切れ途切れの息で、言葉を絞り出す。
その瞬間だった。
“第三の頭”がカッと口を開き、
厳しい調教師のように、冷たく顎を鳴らす。
その合図に、“第二の頭”が起き上がる。
口を開き、喉奥で青白い光が脈打ち始めた。
さらに――
“第一の頭”も、身を引く。
まるで、再び突進を仕掛けるための構え。
すべてが一斉に――動き始める。
「っ……!」
ヴェイルは駆ける。
光が収束するより早く。
だが、今回は――速すぎた。
青の閃光が一気に放たれる。
凍てつく氷弾が、雷光のような速さで突き進む。
咄嗟に身を翻し、かろうじて回避。
地面に転がりながら、肺に溜めた空気を吐き出す。
しかし、休む暇はなかった。
次の瞬間――
“第一の頭”が彼を追い、突進してくる。
「クソッ!」
ヴェイルは瞬時に魔力を風に変え、
その身を横に吹き飛ばすように跳ねた。
牙が、すぐ横をかすめていく。
だが――
全てが終わったかに見えたその時。
“第三の頭”が叫んだ。
それは命令ではなく――咆哮。
直後、“第一の頭”が突進中に軌道を強引に変え、
あり得ない角度で――ヴェイルを捕らえた。
「っ!? が……あああっ!!」
太い牙が、ヴェイルの右腕を貫いた。
そのまま、彼の体が地面から引きちぎられ――宙に舞う。
まるで、人形のように。
「ちびオオカミッ!!」
アリニアの絶叫が、空を裂いた。
彼女の目の前で、ヴェイルは怪物の口の中に揺れていた。
流れる血。貫かれた腕。
叫び声が、凍えるほどに生々しく響いた。
動けない。
助けられない。
アリニアの胸に、焼けつくような無力感が広がる。
それでも――
ヴェイルは、まだ抗っていた。
右手には、まだ短剣が握られていた。
握力の限界に達しながらも、
どうにか、その刃を振り上げようとしている。
だが、噛みつかれた腕が動くたび、痛みが全身を貫く。
視界が赤く染まり、意識が削がれていく。
「……はなせ……クソが……ッ!!」
涙が滲む。
だが、叫ぶ。
咆哮のような、魂を込めた言葉だった。
その叫びをあざ笑うかのように――
“第三の頭”がまた顎を打ち鳴らす。
今度は、リズムを刻むように。
その様は、まるで笑っているかのようだった。
モックリとした目が、じっとヴェイルを見据える。
やがて、ヴェイルの手から――短剣が滑り落ちた。
力が――抜けていく。
身体が重い。
動けない。
……守れない。
ヴェイルの意識はまだ燃えていたが、
その肉体は、ついに限界を迎えていた。
このままでは――
〈殺される……〉
「動いてよ! 何かしなさいってば!!」
絶望に満ちた声が、戦場に響く。
アリニアだった。
目の前の光景に、心を引き裂かれそうになりながら、
必死にヴェイルの名を叫んでいた。
その姿は、まるで糸の切れた操り人形。
血を流し、腕を噛まれたままぶら下がる彼の姿が、
彼女の心を焦がしていた。
アリニアはすぐに行動に移った。
腰のポーチから小さな小瓶を取り出し、
蓋を引きちぎるように開けて――一気に飲み干す。
「……少しでいい……少しでいいから、耐えて……」
かすれた声でそう呟くと、空になった瓶を地面に投げ捨てた。
乾いた音と共に砕け散るガラスの破片。
彼女は、足を引きずりながらも前へと進む。
痛みが一歩ごとに顔を歪めさせるが、
その瞳には、迷いも恐れもなかった。
今、動かなければ。
今、止まれば――彼が死ぬ。
右手の爪が伸びる。
だが、左手は反応しない。
以前の落下による衝撃がまだ残っており、
神経が焼けるような痛みだけが指先に残っていた。
それでも。
アリニアは、叫び声を上げるヴェイルを睨むように見据え、
まっすぐ“第一の頭”に向かって駆けた。
そして――
「そいつを離しなさいッ!!
次は、私が相手よ!」
その声が、戦場を切り裂いた。
アリニアの視線は、“第三の頭”に真っ直ぐ向けられていた。
まるで、主を睨みつける獣のように――鋭く、冷たい瞳。
その呼びかけに反応するように、
赤く光る三つの瞳がアリニアを捉えた。
“第三の頭”が、またしても顎を打ち鳴らす。
合図。
“第一の頭”がすぐに反応し、
その口を――ゆっくりと開いた。
その瞬間――
「うっ……ああッ!!」
ヴェイルの腕が、牙の内側で裂ける。
深く、長く、鋭く――
彼の体が、ぐしゃりと音を立てて地に落ちた。
血が散り、雪が染まる。
地面に転がりながら、彼は苦悶のうめきを漏らした。
そのすぐ後ろで、アリニアが飛び込んでくる。
彼女の爪が、ついに――
巨大な水棲獣の胴体へと届いた。
――ギンッ!
乾いた音。
手応えが、ない。
「……チッ。硬いわね、ほんと……!」
鋭く舌打ちしながら、アリニアが息を吐く。
彼女の爪では、かすり傷すら与えられない。
それでも――立ち止まらない。
「ちびオオカミ! しっかりしなさいよ!
今度は一緒にやるのよ!」
怒号のような声が、ヴェイルに届く。
彼は――動かない。
血を流しながら、ただじっと地面を見ていた。
その瞳には、悔しさと――絶望。
ふらつきながら、なんとか身体を起こす。
そして、左手でシャツの裾をちぎり取り、
傷口に巻きつける。
「……また……俺は……」
呟く声が、かすかに震えていた。
足元には、すでに赤黒い血溜まりができていた。
その光景に、意識が遠のきそうになる。
「……俺は……何を……間違えた……?」
深く息を吸い、
その視線を――アリニアと、そして敵へと向ける。
今、戦っているのは――彼女だった。
傷ついても、動けなくても。
それでも、彼を救ってくれているのは――彼女。
「……動けよ……
守るのは……俺の役目だろ……
あいつは、もう満身創痍なんだ……」
震える声が、風に溶けていく。
その間にも、“第二の頭”が動き出していた。
小さな氷球を連続で放ち、
アリニアの周囲に雨のように降り注ぐ。
だが、アリニアは止まらなかった。
負傷した身体で、何度も突き進む。
そして、巨体の鱗へと爪を突き立てる。
だが――どんなに力を込めても、砕けない。
狙いを心臓に変えても、貫けない。
それほどに――この怪物は、“硬い”。
ハイドラの尾が、ビュンと音を立てて振り払われた。
かすめただけで、ヴェイルはその風圧に身体を揺らされた。
一瞬で理解する。
その一撃が、自分を完全に叩き潰せるほどの威力を持っていたことを。
そして――
“第三の頭”が、また顎を打ち鳴らす。
二つの“従属する頭”に向けて。
その瞬間、すべての攻撃が止んだ。
空間を満たしていた暴力の雨が、嘘のように静まる。
巨大な水棲の獣は、静かに身体をうねらせ――
アリニアを見据えていた。
赤い目が、霧の向こうからゆっくりと瞬かずに。
やがて、その巨体がまたしても霧をまとう。
冷たい瘴気が一気に広がり、
アリニアの周囲にじわりと迫っていく。
だが、次に動いたのは――
ハイドラ自身だった。
ゆっくりと、だが確実に。
アリニアとの距離を――後退しながら取る。
「……ちびオオカミ。いい加減にして、
そろそろ二人でやらなきゃ無理よ……!」
荒い息の合間に、アリニアが叫ぶ。
その顔には疲労が滲み、汗がこめかみを伝っていた。
だが――
その敵もまた、同じように考えていた。
この無駄なやり取りには、もう飽きていた。
だからこそ。
ハイドラは――
次の一手を、密かに準備し始めていた。
音もなく。
気配も殺し。
アリニアはまだ気づいていなかった。
その霧の奥に潜む、“次”の一撃に。




